見出し画像

彼女の家出の真相

ゴールデンウィークの最中、彼女が突然姿を消してからというもの、僕は何をしても心が落ち着かなかった。原因もわからず、手がかりもなく、ただ虚ろな気持ちで時間を過ごしていた。

ゴールデンウィークが始まる直前の金曜日、僕は新しい小説の原稿を書くための取材で、とある街に1週間の旅を終え、自宅のドアを開けた。重いキャリーバッグを引きずりながら、「ただいま」と声をかける。しかし、応答はない。それが不自然なほど静かであることに気づいたのは、靴を脱いでリビングに足を踏み入れた瞬間だった。
部屋はいつも通りに整頓されていた。
「家出……なのか?」そう呟くと、自分の声が部屋に不気味に響いた。
だが、そんな兆候は全くなかったはずだ。確かに僕は最近仕事が忙しく、長時間家を空けることが多かった。けれど、妻はそれに文句を言ったこともない。些細なケンカもなかった、仲が冷え切っていたわけでもない。それなのに、なぜ。
テーブルの上には何も置かれていなかった。手紙もメモもない。ただ空虚だけがそこにあった。
不意に気づいた。リビングの時計の音が、いつもより大きく聞こえる。あの音がこんなに存在感を持つなんて、今まで思いもしなかった。そしてその時、初めて僕は「何かが終わったのだ」と理解した。だが、それが何なのか、どうしてなのか、答えはどこにもなかった。
僕は椅子に腰を下ろしたまま、しばらく動けなかった。テーブルの上に両肘をつき、頭を抱える。何をすればいいのか、どこから手をつければいいのか、全く見当がつかなかった。
彼女を探すべきなのか。それとも、連絡が来るのを待つべきなのか。ただ、このまま何もしないという選択肢はあまりに苦しい。
妻の人生を思い返す。彼女は幼い頃、両親を事故で失い、祖母に引き取られたと聞いている。その祖母も数年前に亡くなった。彼女が「家族」という言葉を口にすることはほとんどなく、血縁関係についても多くを語らなかった。ただ、祖母だけが彼女の唯一の「帰る場所」だったのだろう。
では、今、彼女はどこへ向かったのか? 身を寄せる場所などあるのだろうか。いや、そんな場所があったとして、僕にわかるはずがない。
次に思い浮かぶのは彼女の学生時代の友人たちだ。数人の名前を思い出せるが、彼女自身、「結婚してからはほとんど連絡を取っていない」と話していた。社交的とは言えない彼女が、自分から連絡を再開するとは考えにくい。となれば、友人たちも彼女の居場所を知らない可能性が高い。
頭の中に、彼女の言葉や記憶が浮かんでは消えていく。それらは断片的で、まるで欠けたピースだらけのパズルのようだった。僕が本当に彼女のことを知っていたのか、今になって疑い始める。
テーブルの上のスマートフォンを手に取り、彼女の番号を開く。だが、押したいと思う気持ちと、押せない気持ちがせめぎ合う。何を言えばいいのか? 「帰ってきてほしい」と? 
「何があったのか教えてくれ」と? それとも、ただ「ごめん」と?
だが、画面の向こうから返事が来る保証はどこにもない。
目を閉じると、彼女の笑顔が浮かんだ。出張から戻るたびに見せてくれた、あの少し控えめな微笑み。あの笑顔がもう見られないかもしれないと思うと、胸が締め付けられるようだった。
「彼女は、どこに行ったんだろう……」
呟いた声が空間に吸い込まれる。時計の針は無情にも進み続ける。その音が、僕の迷いを際立たせていた。
夜明け前の空が灰色に染まり始めた頃、僕はようやくベッドから起き上がった。眠りは結局訪れなかった。布団の中で何度も目を閉じてみたものの、頭の中は妻のことでいっぱいで、意識が沈むことはなかった。
リビングに戻り、テーブルの上に置いたスマートフォンを手に取った。彼女の名前が登録された連絡先を開き、しばらく画面を見つめる。その指先は何度も躊躇したが、結局、通話ボタンを押した。
耳元から流れるのは、数秒間の無音。それから、あの無機質な女性の声が響いてきた。
「貴方のお掛けになった電話は現在電波の届かない場所におられるか、電源が入っておりません」
何かが崩れる音が頭の中で響いた。まるで自分の足元にあった床が抜け落ちるように、僕はずるずると深い穴へ落ちていく感覚に襲われた。
「電源が入っておりません……」その一言が、僕の中に揺るぎない現実を突きつける。これは、一時的な衝動でも、感情的なすれ違いでもない。彼女は本気で、僕の生活から自分を消し去ろうとしている。連絡を絶つ、という確固たる意志が、その電話番号の断絶に現れていた。
電話を切った後も、僕はスマートフォンを握りしめたまま動けなかった。手のひらに伝わる冷たい感触が、今の自分を象徴しているようだった。これまでの日常が音を立てて崩れ去るのを目の当たりにしているような気がした。
どうしてこんなことになったのか? 何か、決定的な失敗を僕が犯していたのだろうか? それとも、彼女の中で何かが静かに積み重なり、ついに耐えきれなくなったのだろうか? その答えは、きっと彼女だけが知っている。
だが、その彼女と連絡を取る術は断たれてしまった。何もかもが遠ざかっていく気がした。手を伸ばしても届かない。その手の先にあるべきものが、どんどん小さくなっていくような感覚。
窓の外を見ると、朝日は昇り始めていたが、その光は僕の中を少しも温めてはくれなかった。むしろ、全てを白日の下に晒して、僕の無力さを強調しているようだった。
深く息をついて、顔を手で覆う。そのままの姿勢で、しばらく動けずにいた。
ゴールデンウィークの朝、僕は車中泊の荷物を積んで車に乗り込んだ。車庫で静かに待っていたラウンドクルーザーのエンジンをかけると、低く深い音が響く。助手席はいつも彼女が座る場所だった。そのシートが空っぽのままだという事実が、妙に重たく感じられた。
自宅のある西宮から、中国自動車道を西へと進む。高速道路はゴールデンウィークらしく少し混んでいたが、窓から見える景色はどこか懐かしく、ほっとするものがあった。僕たちはこの道を何度も通った。旅好きの僕たちにとって、車中泊やキャンプを繰り返す小さな冒険が、夫婦の時間を形作っていた。
明石海峡大橋に差し掛かると、海が広がった。橋の欄干越しに広がる青い景色に目をやりながら、僕は一瞬、あの助手席に彼女が座っている気がした。風が彼女の髪を揺らし、「海の匂いがするね」と微笑む彼女の声が聞こえるような気がした。でも、それはただの錯覚だった。僕の横には、静寂だけが座っている。
橋を渡り切り、淡路島へ。目的地は「幸せのパンケーキ」。僕たちが何度か訪れたカフェだ。彼女がパンケーキにフォークを刺しながら、「こんなにふわふわなのに、食べるとちゃんと満たされるのよね」と笑った光景を思い出す。食べ物に対して彼女が口にする、こんな些細な感想すらも、今となっては胸を締め付ける。
店の駐車場に車を停めた。エンジンを切ると、あたりは静かになり、心臓の鼓動が耳に響くようだった。店内に入ろうとドアノブに手をかけたが、結局そのまま座席に戻り、シートにもたれた。どうしても彼女が隣にいない事実に耐えられなかった。
代わりに、カフェの駐車場から少し離れた浜辺に車を寄せた。そこにあるのは、僕たちがキャンプをした記憶だった。海風が吹き抜ける砂浜で、彼女はテントの設営に悪戦苦闘しながらも笑っていた。夜、焚き火を囲みながら語り合った時間のあたたかさ。砂の上に残る焚き火の痕跡を探してみたが、それも消えてしまっていた。
ランドクルーザーの中に戻ると、ふと彼女の香りが蘇った気がした。助手席の窓から差し込む光が、彼女の輪郭を浮かび上がらせるような錯覚に陥る。
僕はエンジンをかけ、また四国へ向けて車を走らせた。彼女がどこにいるのかはわからない。でも、これだけは確かだった。僕がここに来たのは、彼女を探すためではなく、自分がまだ彼女と過ごした日々を思い出せるのか確かめるためだった。

彼女と初めて出会ったのは、僕が就職活動中、緊張に包まれていたあの朝のことだった。新調したスーツは少し窮屈で、汗ばむ手を気にしながら受付カウンターへと向かった。そこに座っていたのが彼女だった。
清潔感のある制服姿に、控えめながらも柔らかな微笑み。僕が名前を伝えると、彼女は「ご案内しますね」と言いながら視線を上げた。その瞬間、彼女の瞳が僕を捉えた。言葉にするのは難しいが、まるで強く張り詰めた弓の弦が緩むような感覚だった。緊張で固まっていた心が、ふっと解けていく。穏やかさと不思議な温かさが胸の中に広がった。
面接室に案内された後も、彼女の笑顔が頭から離れなかった。面接の内容すら曖昧になるほど、僕の意識はどこかふわふわと浮いていた。
面接を終え、ビルを出た僕は少し気が抜けていた。だがその時、ふと目に留まったのは、一人で歩いていく彼女の姿だった。制服姿で軽やかな足取りでランチに向かっているようだった。僕の中に突如として湧き上がった衝動。後先のことなど何も考えず、彼女の名前も知らないのに、気がつけば声をかけていた。
「あの、失礼ですが……一緒に昼ご飯でもどうですか?」
彼女は驚いた表情を浮かべた。だが、その驚きはすぐに柔らかな笑顔へと変わり、「いいですよ」と返してくれた。その言葉は、僕にとって奇跡のようだった。
近くの小さなカフェに入り、ランチを食べながら話をした。彼女は穏やかな声で話し、僕のぎこちない話にも時折笑ってくれた。話題は取り留めのないものばかりだったが、不思議と時間があっという間に過ぎていった。
店を出た後、別れ際にもう一度、僕は勇気を振り絞った。
「もしよければ、また会ってもらえませんか?」
その瞬間、彼女は少し驚いた顔をして僕を見つめた。そして次の瞬間、彼女の表情が柔らかくほころび、「いいですよ」と言ってくれた。僕は心の中で歓喜の声を上げながらも、表向きは冷静さを装おうと必死だった。
それが、僕たちの始まりだった。彼女との記憶の中で、この日はいつも、ひときわ鮮やかな色彩を放っている。
僕が就職活動に行き詰まりを感じ始めた頃、彼女はいつも優しい笑顔で励ましてくれた。履歴書を何度も書き直し、面接の結果を待つ日々に疲れている僕に、彼女は決して「頑張れ」と言わなかった。ただ、そっと寄り添い、「大丈夫だよ」と囁くその声に、どれだけ救われたことだろう。
ある日、彼女が突然、僕に言った。
「ねえ、私と一緒に世界一周旅行に行かない?」
最初、耳を疑った。その言葉はあまりに非現実的で、夢物語のように聞こえたからだ。僕は驚いて彼女を見つめたが、彼女の表情は真剣そのものだった。
「就職のことは一旦置いといて、旅に出ようよ。人生でやりたいこと、今のうちにやらなきゃもったいないと思うの」
その提案は、心の奥底で何かを揺さぶった。確かに魅力的な話だ。だが、現実に目を向ければ、そんな余裕が自分にはないことは明白だった。
「でも……そんなお金、僕にはないよ」
そう答えると、彼女は少し笑って言った。
「お金なら心配いらない。私が出すから」
一瞬、言葉を失った。彼女が続けた言葉は、僕が知らなかった彼女の一面を見せるものだった。
「私ね、両親を亡くした時に事故の保険金を受け取ったの。それだけじゃなくて、祖母が成人の祝いにって、両親の代わりにくれたお金もあった。そして、祖母が亡くなった時には、私が唯一の相続人だったから、彼女の財産も私のものになったの」
淡々と語るその声には、どこか遠い記憶を思い起こすような切なさがあった。
「私はそのお金を運用して、ちゃんと増やしてきたの。だから、世界一周くらいなら十分できる。でも、お金のことじゃなくてね……私の夢は、『愛する人と一緒に旅をすること』なの。それが一番大事」
彼女はそう言って、僕の目をまっすぐ見つめた。その瞳には、一切の迷いや冗談がなかった。すべてが本気だった。
「これ、あなたにしか話してないの。私の大切な夢を、あなたに託してもいいと思ってるから」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。彼女の中にある静かな強さと、揺るぎない信念。そして、その夢の中に自分が選ばれたという事実。それは何よりも光栄で、同時に重みを感じるものだった。
けれど、僕はまだ何も持っていない人間だ。この旅にふさわしい相手なのかどうか、自信がなかった。
「少しだけ……考えさせてほしい」
そう答えるのが精一杯だった。その夜、彼女の言葉が何度も頭の中で反響し、眠ることができなかった。
数十社もの面接に落ち続けた僕は、自信というものをすっかり失っていた。履歴書の文字はいつも同じなのに、返ってくるのは「ご期待に添えませんでした」の定型文ばかり。毎回、スーツに袖を通すたびに、自分がどんどん小さくなっていくような気がしていた。
そんな僕の隣にいるのが、彼女だった。彼女はいつも僕を励まし、優しく笑いかけてくれた。でも、その度に思う。こんな僕のどこに、彼女が惹かれる理由があるのだろう、と。
夜、眠れない布団の中で考え続けた。彼女が僕に見出しているものは一体何なのか。僕は何を持っていて、何を持っていないのか。そして、これからどんな人間になれるのか。もしくは、なろうとしているのか。
だが、考えれば考えるほど、答えは見つからなかった。僕の心の中には空虚な疑問だけが広がり、まるで暗闇の中で手探りしているような感覚だった。
時計の針は深夜を回り、窓の外には月明かりがぼんやりと差し込んでいた。何度目かのため息をつき、布団を蹴飛ばして起き上がる。思考の迷路から抜け出せないまま、僕は一つの結論にたどり着いた。
「彼女に聞くしかない」
そう思った瞬間、なぜか胸の奥がざわめいた。彼女に直接聞くというのは、僕にとってとてつもなく勇気のいることだった。だけど、このまま自分だけで悩んでいても何も変わらない。彼女が僕をどう見ているのか、その答えを知ることが必要だと思った。
翌朝、彼女に会ったらどう切り出そうか。そんなことを考えながら、ようやく僕の瞼は重くなり始めた。そしてその夜、僕は決意を胸に抱きながら、浅い眠りに落ちていった。
翌日、彼女の中古の軽自動車に乗り込むと、僕たちは江ノ島に向けて出発した。彼女の車内は、きれいに整えられていたが、特別な装飾もなく、ごくシンプルだった。それは、彼女自身のライフスタイルそのものを映し出しているように思えた。
僕は彼女の生活ぶりを知っていた。彼女は十分な財産を持っていると話していたが、それを誇示するような振る舞いは一切なかった。ブランドバッグや高級な服を身につけるわけでもなく、住んでいるのも質素なワンルームマンションだ。だからこそ、彼女の言葉に重みを感じる一方で、なぜ僕なんかと一緒にいるのか、疑問が胸の中で膨らんでいた。
車はスムーズに進んでいたが、由比ヶ浜に近づくにつれて渋滞に巻き込まれた。窓を開けると潮の香りが流れ込んできて、少しだけ心が落ち着いた。けれど、頭の中では彼女にどう切り出そうか、その言葉を必死に探していた。
「ねえ……」
渋滞の中で車が止まった瞬間、僕は思い切って口を開いた。
「なんで、僕なんだろう。こんなに面接に落ちてばかりで、何も持っていない僕に、どうして魅力を感じてくれているの?」
助手席に座る僕の声は、自分でも驚くほど低く、緊張がにじんでいた。車内にはエアコンの音だけが響く。彼女は少しだけ眉を寄せながら前を見つめ、次にゆっくりと僕の方を向いた。
「これからあなたがどんな人生を歩むのか、私には分からない」
彼女の声は穏やかで、いつも通りだった。そして続ける。
「でもね、私はあなたと一緒にいると、とても心が穏やかで安心していられるの。それが私にとって、あなたの魅力」
その言葉は、渋滞で停滞していた空気を切り裂くように、僕の胸に深く響いた。心の奥にあった不安や劣等感が、一瞬にして溶けていくような感覚がした。
「私ね、派手なものや、誰かと競い合う人生には興味がないの。ただ、心が安らぐ時間を大事にしたいの。そして、それをあなたと一緒に過ごせることが、私には何よりも幸せなの」
彼女は言葉を終えると、小さく微笑んでハンドルに目を戻した。その表情には、迷いも見栄もなく、ただ真実だけがあった。
その瞬間、僕は彼女が持つ静かな強さと、確かな愛情を理解した。僕が何を持っているかではなく、ただ僕といることで彼女が感じるもの。その答えは、僕がどんな自己否定をしても揺るがないものだった。
渋滞は少しずつ動き始めていたが、僕の心の中は、それまでとは違う穏やかさで満たされていた。
車は江ノ島の近くの駐車場に停まり、僕たちは海辺に向かって歩いていた。潮風が頬を撫で、遠くで波が静かに打ち寄せる音が聞こえる。僕はまだ、さっきの彼女の言葉の余韻に浸っていた。
砂浜に腰を下ろし、彼女は少しだけ視線を遠くに向けて呟いた。
「ねえ、あなたの本当にしたいことって何?」
その質問に僕は一瞬、言葉を失った。何かを答えなければいけないと思いつつ、心の中には白紙のような空白が広がる。僕は視線を落とし、靴の先で砂をなぞりながら、「そんなこと、考えたこともないよ」と苦笑いを浮かべた。
「そうだよね」彼女は優しく微笑んだ。そして、自分の話を始めた。
「私ね、学生時代に作文とかで『将来の夢』って聞かれることがあったでしょ? みんなが将来なりたい職業とか書いてた。看護師になりたいとか、保母さんになりたいとか。そういうのが、たぶん普通なんだろうね」
彼女は海を見ながら、小さく肩をすくめた。
「でも、私の夢はずっと違った。『愛する人と世界一周旅行をすること』。それが私の将来の夢だった。いつもそう答えてたの」
僕は彼女を見た。その言葉は冗談でも、軽い思いつきでもなく、本当に彼女の心からの想いなのだとすぐに分かった。
「でもね、みんなに笑われたよ。そんなの夢じゃなくて遊びでしょ」って。
私も最初は傷ついたけど、だんだん気づいたの。
私にとってはそれが何よりも大事で、それを笑う人たちには、たぶん理解できないんだって」
彼女は少し視線を下げ、砂浜をそっと指でなぞる。
「それ以来、夢を語るのが恥ずかしくなって、自分の中にしまい込むようになった。
でも、大人になって気づいたの。自分の本当にしたいことを隠して生きていくなんて、すごく虚しいって」
彼女は顔を上げ、僕をまっすぐ見つめた。
「だから、あなたにも聞きたかったの。あなたの本当にしたいことって何?」
その瞳の中には、彼女の過去の葛藤と、今の揺るぎない想いが宿っていた。
僕はしばらく黙ったままだった。
自分が何をしたいのか。何を望んでいるのか。
彼女が問いかけているのは、表面的な目標じゃない。
もっと深い、心の中にある本当の気持ちだ。
けれど、その答えはまだ見つからなかった。
波音が僕たちの間を埋めるように響いていた。
僕はゆっくりと目を閉じた。波音が耳に届き、柔らかな風が頬を撫でる。
その中で、自分の過去を辿るように思い返してみた。
小学校の頃、夢中で野球をしていた自分。
中学生になり、進路指導で「将来のために勉強しろ」と言われ、高校受験に追われる日々。高校に入れば次は大学受験。
大学では就職活動に向けた講座に参加し、
気づけばみんなと同じ階段をただ黙々と登ってきた。
「何になりたいんだろう?」
心の中で自分に問いかける。きっと、夢を持っていた時期もあったはずだ。
でも、それはいつの間にか忘れ去られ、目の前の課題をこなすことだけが目的になっていた。
自分が本当に何をしたいのか、
どんな人生を歩みたいのか——そんなことをじっくり考えた記憶なんて、
どこにもなかった。
目を開けると、彼女が静かに僕を見つめていた。彼女の柔らかな表情に触れた瞬間、胸の中にぽっと何かが灯った。そして、気づいた。
「君と、幸せな人生を送りたい。それが僕のしたいことだ」
その言葉が口から零れ落ちるのに、自分でも驚いた。けれど、それは作り物の答えではなく、心の奥底から湧き上がった、ただひとつの真実だった。
彼女は一瞬驚いたような顔をして、そして頬を赤らめながら微笑んだ。
「それって……プロポーズ?」
彼女は照れたように言いながら、僕の瞳を覗き込む。その瞬間、僕は自分が本当に彼女にとって何を望んでいるのかをはっきりと理解した。就職が決まっていない自分や、何も成し遂げていない現実を超えて、心から彼女と一緒にいたいと願っていたのだ。
「……就職もできない僕が言うことじゃないよね」僕は恥ずかしくなって、照れ笑いを浮かべた。
その時だった。彼女の瞳から一筋の涙がこぼれ落ちた。それは悲しみの涙ではなく、確かな喜びに満ちたものだった。
「私もよ」彼女は静かにそう言いながら、僕を抱きしめた。彼女の体温が伝わり、僕の心は穏やかで満たされた。
その瞬間、僕は全てを知った。僕にはまだ何もない。でも、彼女と共に歩む未来だけが、僕にとって唯一確かなものであり、これから何があっても守りたいものだった。
海辺に寄せる波の音が、彼女の言葉と僕の胸の鼓動を静かに包み込んでいた。
僕たちは手を繋ぎながら江ノ島を歩き、一番奥にある「魚見亭」という店に辿り着いた。
古い木のぬくもりが感じられるその店には、海を見渡せるテラス席が用意されていた。相模湾が広がる絶景を眺めながら、僕たちは生しらす丼を注文した。
潮風が頬を撫で、目の前の青い海と空が、まるで終わりのないキャンバスのように広がっている。僕は生しらす丼の新鮮な味わいを楽しみながら、彼女の話に耳を傾けていた。
「ねえ、聞いてほしい」彼女は嬉しそうに話し始めた。「世界一周のプラン、もう完璧に出来上がってるの」
彼女の声には抑えきれない喜びが滲んでいた。
目を輝かせながら語るその姿に、僕はすっかり引き込まれていた。
アジアの島々を巡るコース、
ヨーロッパの古い街並みを歩く日々、南米での冒険。
彼女の計画は細部まで練り上げられており、
地図上で点と線が美しい絵を描いているようだった。
「すごいな……」僕は思わずつぶやいた。
彼女の情熱に圧倒されながらも、それが僕にとっても心地よいものに感じられた。
彼女が語り終わる頃、僕の中にはもはや彼女の誘いを断る理由など
何一つ残っていなかった。
これ以上、何を迷う必要があるだろう?
彼女と一緒に旅立つ——それが僕の進むべき道なのだと、そう確信した。
彼女は笑みを浮かべながら言った。
「実はね、年末に今の会社を退職するつもりなの。
それで、あなたが大学を卒業したらすぐに旅に出られるように、全部計画してたの」
僕は驚いて彼女を見た。彼女は僕の顔を見つめながら、さらに続けた。
「あなたと出会ってからずっと、この計画を考えてたの」
「あなたがもし就職が決まって、現実的に行けなくなったとしてもね……計画を練ってる時間がすごく楽しくて。それだけで幸せだったの」
彼女の言葉が胸に響いた。僕が何もできないと悩み、
未来を見失っていた時、彼女はその隣で希望に満ちた夢を育てていたのだ。
「でも……」彼女は少し照れくさそうに笑った。
「あなたが就職が決まらず落ち込んでる横で、私は私の計画が実現できるかもしれないって、正直喜んでたの。ごめんなさい」
その言葉に、僕は不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ彼女の純粋さが愛おしく、思わず笑ってしまった。
「そうだったんだ」僕は肩をすくめて言った。「じゃあ、結果的に良かったのかもね」
彼女も声を上げて笑い、僕たちはまた一緒に生しらす丼に箸を伸ばした。風が潮の香りを運び、遠くに見えるヨットが波に揺れる。その景色を眺めながら、僕は心の中で決意した。
これからの人生、彼女と一緒に歩む。その旅路がどれほど遠くても、険しくても、彼女とならきっと乗り越えていける。そう確信した。
僕の大学卒業と同時に、彼女の綿密なプランに従い、僕たちは1年かけて世界中を旅した。訪れた国々は数え切れないほど。
アジアの喧騒に包まれた市場、ヨーロッパの石畳の街並み、
アフリカの果てしない大地、南米の熱気あふれる祭り。
それぞれの場所が僕たちに新しい感動と発見をもたらした。
彼女はその旅の間も、資産運用の管理を怠らなかった。
スマートフォンとノートパソコンを駆使して、まるで旅をしながらも別世界で戦っているように見えた。数字を見つめる彼女の横顔に僕は密かに感嘆していた。
一方で僕は、毎日の旅の出来事や風景、人々との出会いをひたすら記録に残していた。
ノートに手書きしたり、カメラに収めた写真を見返したりしながら、
夜な夜な文章を書き連ねた。
旅の記録は次第に膨らみ、それは僕にとって日々の新しい挑戦でもあった。
日本に帰国すると、僕はその旅行記を一つの原稿にまとめ、いくつかの出版社に送った。それがただの自己満足の行動に終わると思っていた。
だが、ある日、一通のメールが届いた。
「ぜひ、この原稿を本にしませんか?」
出版社の担当編集者からの依頼だった。驚きとともに、僕の心は喜びで満たされた。
編集者との打ち合わせで、ただの旅行記ではなく、
フィクションの要素も加えて物語として仕上げることが提案された。
僕は彼女との出会いから始まり、世界旅行の体験をベースにしながら、
時にはドラマチックなエピソードを織り交ぜて、
一つの小説として形にする作業に没頭した。
執筆は何度も壁にぶつかったが、彼女の支えが僕を奮い立たせた。
完成した本は僕にとってまるで自分自身の旅路そのものだった。
そして発売されたその本は、驚くべきことにベストセラーとなった。
やがて「本屋大賞」の受賞が発表される。
僕の名前が壇上で呼ばれ、受賞スピーチをするために立ち上がった時、
客席の彼女が満面の笑みを浮かべて拍手を送ってくれていた。
「あなたならできると思ってた」その後彼女は静かに言った。
本屋大賞の影響もあり、本はさらに売れ続け、
僕は想像もしていなかった世界へと足を踏み入れることになった。
だが、それ以上に嬉しかったのは、あの時、彼女と旅に出るという選択をしたこと。
そして、彼女と一緒に夢を叶えられたことだった。
僕たちの物語は、紙の上だけでなく、現実の中でもまだ続いている。いつかまた新しい旅に出る時、その日記はまた新しい小説の始まりになるのだろう。
僕たちの物語が映画化されるという話が舞い込んできた時、正直言って戸惑った。
スポンサーとなったのは大手の旅行会社で、彼らは僕たちの旅を広く届けたいという熱意を持っていた。
僕が書いた本の中で描かれた旅路やフィクションを交えたエピソードを映像として具現化する——それは確かに魅力的な話だったが、
同時に自分たちの私生活がスクリーンに映し出されることへの恥ずかしさもあった。
顔合わせの日、僕たちは映画監督やスタッフ、俳優たちと初めて会った。
大勢のプロフェッショナルたちの前で「原作者」として紹介された時、
緊張とともに背筋が少し伸びた。
彼らの熱い視線と期待に満ちた表情に圧倒されながらも、
自分たちの旅がこうして新たな形になることへの誇りも感じた。
その後の雑談の中で、監督がぽつりと提案した。
「原作者としてだけじゃなく、この映画の制作に直接関わってみませんか? 助手として、一緒に完成を目指してほしいんです」
突然の誘いに僕は言葉を詰まらせた。映画制作なんて未経験の僕に何ができるというのだろう。けれど、監督の目は真剣だった。
その晩、彼女に相談すると、彼女はいつものように柔らかく微笑みながら言った。
「いいじゃない。何でもやってみたら? また新しい冒険になるわよ」
彼女の後押しを受けて、僕は監督の提案を受け入れることにした。そして気づけば、僕たちは再び旅立つ準備をしていた。ただし今回は、映画の撮影という新たな形での世界旅行だった。
撮影現場は想像以上にエネルギーに満ち溢れていた。
俳優たちは僕たちの役柄に深く入り込み、
スタッフたちは完璧なショットを追い求めて一瞬一瞬を切り取っていた。
ヨーロッパの石畳の街並み、アフリカの広大なサバンナ、
南米のカラフルな市場——どの場所もかつて僕たちが訪れた場所だったが、
今度はスクリーンの中で蘇るために細やかに演出されていた。
彼女も時々撮影現場に顔を出し、役者やスタッフと笑顔で話し込むことが多かった。
「なんだか、私たちがもう一度旅をしているみたいね」
彼女は撮影の合間、ヨーロッパの広場で僕にそう言った。
実際、その感覚は僕にもあった。かつての旅の思い出が、
新しい光を浴びて形を変えていく。その不思議な感覚が心地よかった。
撮影が進むにつれ、僕は映画の作り手としての責任感を持つようになった。
監督とともにシナリオの微調整をしたり、役者の演技にアドバイスをしたり。
映画が完成に近づくにつれて、自分の書いた物語がどれほど多くの人の手で命を吹き込まれているのかを実感した。
そして完成した映画を試写会で初めて見た時、僕たちはまた新たな感動に包まれた。スクリーンに映し出されたのは、僕たちの物語そのものでありながら、たくさんの人々の手で彩られた新しい作品だった。
試写会の後、彼女が僕に小さく囁いた。
「やっぱり、やってみて良かったでしょ?」
僕は頷き、彼女の手をぎゅっと握り返した。再び旅立つ機会を与えられた僕たち。スクリーンの中で生まれ変わった物語は、これからも誰かの心に旅立ちを促す物語になるだろう。そして、僕たちの冒険もまだまだ続いていくのだ。
映画公開初日、僕たちは初めて舞台挨拶というものに立つことになった。大きなの壇上で、ずらりと並ぶ映画監督、主演俳優、スタッフたちと一緒に立っている自分を、どこか他人事のように感じていた。観客席には数百人もの人が座り、スクリーンの下でライトを浴びる僕たちを見上げている。その熱気は、これまでのどんな経験とも違うものだった。
大手旅行会社のスポンサーが全面的に支援してくれたおかげで、
この映画は公開前から多くの注目を集めていた。
駅やテレビ、ネット広告でも大々的に取り上げられ、
話題はすでに広まっていた。
それでも、実際に初日を迎え、目の前の観客の数を目にすると、僕の胸は大きく高鳴った。
舞台挨拶では、監督や主演俳優たちが次々にマイクを手にして挨拶を述べる。
そして、いよいよ僕たちの番が回ってきた。手に汗を握りながらマイクを持つと、僕はできるだけ平静を装いながら話した。
「この映画は、僕たちの旅をもとに作られた物語です。
ここにいる皆さんが、この映画を観て、ほんの少しでも旅に出たいと思ったり、大切な人との時間をもっと大事にしようと思ったりしてくれたら、
これ以上嬉しいことはありません」
会場からは温かな拍手が響いた。隣に立つ彼女が、優しく微笑んで僕を見ていた。その微笑みに背中を押され、僕は続けた。
「原作に忠実に映画化してもらえたことが、本当に嬉しいです。
監督をはじめ、この作品を愛してくれた全てのスタッフ、
キャストの皆さんに感謝します」
その後、映画が始まり、劇場の明かりが落ちる。
僕たちは壇上の端で静かにスクリーンを見つめていた。
映画の中で、僕たちがかつて体験した出来事や、フィクションとして描かれたエピソードが色鮮やかに映し出される。
観客は時折、声をあげて笑い、涙を流していた。
その反応はまるで劇場で舞台を観ているかのようで、
映画という枠を超えた何か特別なものがここにあるように感じられた。
物語がクライマックスに近づくにつれて、スクリーン越しの自分たちの旅路が重なり合い、僕は胸が熱くなるのを抑えられなかった。
上映が終わり、客席が再び明るくなると、会場中が拍手の嵐に包まれた。
僕は彼女の手をそっと握りしめた。彼女も僕に微笑み返しながら、小さな声で囁いた。
「私たちの旅が、こんなに多くの人の心に届いたなんて、すごいね」
その瞬間、僕は全てが報われたような気がした。
僕たちの物語が、僕たちだけのものではなくなり、
誰かの心に新たな景色を描き出すきっかけになったこと。
その感動は、これまでのどんな旅よりも大きなものだった。
僕たちの旅はスクリーンの中で終わりを迎えたけれど、
本当の意味での旅はまだこれからだと、僕は静かに思った。

映画の公開が成功し、観客からの温かい反響を受けて帰宅した夜、僕たちはいつも通り肩を並べてソファに座っていた。彼女は僕にコーヒーを淹れてくれ、それを一口飲むと、少しだけ照れくさそうに言った。
「あなたのおかげで、私の夢が叶った。ありがとう」
その言葉に、僕の胸は不意にドキッと高鳴った。彼女の夢——世界一周旅行の旅路と、それを形にした映画。それがすべて達成された今、僕の頭にある不安がよぎった。これで僕の役目は終わったのだろうか? 彼女の中で、僕の存在はもう必要ないのではないか——そんな恐れが一瞬胸をかすめた。
僕は彼女の瞳をじっと覗き込み、静かに尋ねた。
「……次の夢は?」
彼女は少し驚いたような顔をして、それから視線を少しだけ逸らした。遠慮がちに、けれど確かな声で言った。
「私はね、田舎育ちだから、都会の生活がずっと窮屈に感じてたの。あなたがもしよければ……私は田舎に住みたいの。畑で野菜を作ったり、海に近いところで魚を釣って、そんな暮らしがしたい」
その言葉には、彼女らしい慎ましさがあった。けれど、心の奥底から湧き出る本音のような温かさも感じた。彼女が望むその未来に、僕は必要だろうか。その問いに、僕は迷うことなく答えを見つけていた。
「それは素敵だね」僕は微笑みながら言った。「よかったら、一緒にその生活をしないか? 僕の夢は、君の夢を叶えるために、君と一緒に過ごすことだよ」
その言葉が自然に口をついて出た時、彼女は目を丸くして僕を見つめた。それから頬を赤らめ、唇を震わせて笑った。
「またプロポーズ? 二度目だね……でも、答えはYESよ」
彼女は静かに言い、そっと僕の手を握りしめた。その手の温もりが僕の不安を溶かし、これからの未来を照らすように思えた。
その夜、都会の窓から見える夜景がどこか優しく輝いていた。これまでの旅が僕たちに与えてくれたものは多かったけれど、それが終わった後の未来もまた、僕たちの手で新たに作り上げるものだと気づいた。
彼女と共に田舎での生活を始めること。新しい夢を叶えるその旅路もまた、僕たちにとっての最高の冒険になるだろうと思えた。

僕たちの結婚式は、とてもシンプルなものだった。親戚もいない彼女の希望で、大勢の招待客を呼ぶ式ではなく、貸衣装屋でウェディングドレスと和装の両方を借りて、撮影だけをすることにした。
その日、彼女は白無垢に身を包み、少し緊張した面持ちで僕の隣に立っていた。僕も紋付袴に袖を通し、慣れない服装に少しぎこちない動きになっていたが、彼女が小さく笑うと、それだけで緊張が和らいだ。
「なんだか、不思議な感じだね」彼女が撮影の合間にぽつりと呟いた。「私、こういう衣装を着る日が来るなんて、あんまり想像してなかった」
「でも似合ってるよ」僕は正直に言った。「和装もドレスも、どっちも君らしい」
彼女は少し恥ずかしそうに微笑みながら、「ありがとう」と言った。その表情は、これまでのどんな旅先で見た彼女の笑顔よりも、柔らかく幸せそうだった。
撮影を終えた僕たちは、その日のうちに区役所へ行き、婚姻届を提出した。正式に夫婦になったという実感が、じわじわと胸に広がるのを感じながら、帰り道で彼女がふと話しかけてきた。
「ねえ、これから本格的に土地を探そうか?」
「うん、そうだね」僕は頷いた。「田舎での生活、早く始めたいし」
それから、僕たちは本格的に土地探しを始めた。インターネットで情報を探したり、情報誌を広げて理想の場所をイメージしたり。夜になると、リビングのテーブルに並んで座り、ふたりで候補地を見比べた。
「ここ、どうかな?」彼女が画面を指差す。「畑もできるくらい広いし、海も近いって書いてある」
「いいね。でも、冬はどうなんだろう? 雪が多いところだとちょっと大変かも」
「そっか、確かに……。じゃあ、これとか? 温暖な地域みたいだし、釣りも楽しめそう」
僕は肩をすくめて笑った。「それ、完全に君の趣味じゃない?」
「いいじゃない」彼女はくすくす笑った。「あなたもすぐ釣り好きになると思うよ」
ふたりで土地探しをしていると、未来の生活が少しずつ形を帯びてくるようで楽しかった。畑でどんな野菜を育てるか、海でどんな魚を釣るか、どんな家を建てるか。まだ何一つ決まっていないのに、想像するだけで胸が膨らんだ。
「ねえ、これって新しい旅みたいだね」僕はふと思いついたように言った。
「うん、そうだね」彼女は頷きながら笑った。「今度の旅は、ずっと続く旅だよ」
その言葉に、僕も心から笑顔になった。彼女と一緒に作る未来は、まだ真っ白なキャンバスのようだったけれど、その中に描かれる絵がどんなものになるか、今はただ楽しみで仕方がなかった。

神奈川県三浦市三崎町——海まで徒歩5分、広さ100坪の土地を見つけたのは、まるで偶然のようで必然だった。彼女が「ここ、理想にぴったりだと思う!」と笑顔で言った瞬間、僕もその景色を見て「ここしかない」と感じた。潮風の香りがする小道、静かで穏やかな周囲の雰囲気、そして広い空。彼女が思い描いていた田舎の暮らしの舞台に、これ以上の場所はないと確信した。
土地を購入した後、次は家を建てる計画に移った。建物の候補は、旭化成のヘーベルハウスかスウェーデンハウス。この二択まで絞り込むのに、彼女は資料を隅々まで読み込み、僕以上に熱心に調べていた。
「ヘーベルハウスは耐震性が抜群だし、安心感はあるけど……」彼女は資料を見つめながら言った。「でも、スウェーデンハウスの木の温かみとデザインが、やっぱり惹かれるのよね。」
「君が一番住みたいと思える方でいいよ」僕は微笑みながら答えた。「だって、これから何十年も暮らす家なんだから」
彼女はしばらく迷っていたが、最終的にスウェーデンハウスを選んだ。設計担当者との打ち合わせでは、彼女が自分で描いた間取り図を持参し、隅々までこだわりを伝えていた。
「リビングは南向きで、窓を大きくしてね。光がたくさん入るようにしたいの。」彼女はそう言いながら、間取り図を指差した。「それから、キッチンはアイランド型にして、ここに大きな棚をつけて。収納は絶対必要だから!」
「君、本当にプロになれそうだね」僕は隣で感心しきりだった。
「だって、これからの暮らしがかかってるんだもん。妥協できないよ」彼女は真剣な顔で答えた。
僕たちの新しい家が完成するまでの8ヶ月間、僕たちはキャンピングカーで日本一周の旅に出ることにした。新しい冒険の始まりに、期待と少しの不安が入り混じる中、僕たちは荷物を詰め込み、出発の日を迎えた。
「これからどんな景色に出会えるんだろうね」彼女が助手席で地図を広げながら言った。
「さあ、でもどこへ行っても君が隣にいれば、それだけで楽しそうだよ」僕が冗談めかして言うと、彼女は笑いながら「またそれ? もうプロポーズは三回目くらいだよ?」と突っ込んだ。
僕たちの旅の相棒となったキャンピングカーは、以前映画のスポンサーになってくれた大手旅行会社から寄付されたものだった。車体にはその会社のステッカーが目立つ位置に貼られていて、道中でも何度か「あれ、この車知ってる!」と声をかけられることがあった。
「まるで広告塔みたいだね」僕が苦笑いすると、彼女はステッカーを指差しながら言った。
「でも、この車があるおかげで旅ができるんだから、感謝しなきゃね。それにほら、旅先で声をかけられるのも楽しいじゃない。」
確かにその通りだった。僕たちは大半を道の駅やキャンプ場で過ごし、車内で簡単な料理を作ったり、星空を眺めたりして日々を楽しんだ。だけど、時々旅行会社が手配してくれた温泉宿や旅館に泊まれる日があると、それはまた特別なご褒美のようだった。
ある日、北陸地方の温泉旅館に泊まった夜、彼女が湯上がりの浴衣姿でふと呟いた。
「ねえ、私たちって、本当に幸せだよね。こんなにいろんな景色を見て、いろんな場所に泊まれて……贅沢だよね」
「そうだね。でも、こうして旅をしながらYouTubeに動画を載せたり、原稿を書いたりして、それが誰かの役に立ってるなら、ただの贅沢じゃない気がする」
そう、僕たちは旅の途中で出会った景色や人々の物語をYouTubeに動画や写真として記録し、時々ライブ配信を行っていた。チャンネルの登録者数は徐々に増え、収益も8ヶ月間の旅の費用を賄えるほどになっていた。
「でも、あなたって本当にすごいよね。」彼女は布団に座りながら笑った。「旅を楽しみながら、ちゃんとこうやって本を書く準備もして、配信もして……私だったら絶対パンクしちゃう」
「いや、君がいるからできてるんだよ」僕は真顔で言った。「ひとりだったら、たぶんどこかで投げ出してる」
彼女は少し照れたように笑って、「そっか。それじゃあ私は旅の監督ってことでいい?」と冗談っぽく言った。
そんなふうに冗談を交えながら過ごした旅の夜は、どれも忘れられない思い出になった。時には雪の降る中を走ったり、広大な海を眺めたり、山奥の静寂を感じたり——その一つひとつが、僕たちの物語を彩っていた。
旅の終盤、九州の南の方で彼女がふと地図を見ながら言った。
「次はどこに行こうか?」
「家に帰るって選択肢はないの?」僕が笑いながら言うと、彼女は首を傾げて答えた。
「帰ったらまた忙しくなるから、もうちょっとのんびりしたいな。」
「でも、それを書いた本を出版するのが楽しみだ」僕は運転席で彼女を見ながら言った。「この旅もまた、次の物語になるかも」
彼女は笑顔で頷き、僕たちのキャンピングカーはまた次の目的地に向かって走り出した。8ヶ月間の旅路は僕たちにとって、ただの冒険ではなく、未来への準備そのものだった。
旅の途中で立ち寄ったキャンプ場は、いつも予想外の出会いに満ちていた。その夜も、僕たちは道の駅で情報を得た小さなキャンプ場に車を停め、星空の下で夕食を取る準備をしていた。
「ねえ、あそこの人たち、なんだか私たちのこと見てない?」彼女が鍋に火をかけながら小声で言った。
振り向くと、数人のキャンパーがこちらを見ながらひそひそ話をしている様子だった。しばらくすると、その中の一人が勇気を出したように近づいてきた。
「あの、もしかして、YouTubeの……日本一周してるお二人ですか?」
「あ、はい、そうです!」僕たちは驚きつつも笑顔で答えた。その瞬間、近くにいたキャンパーたちが次々と集まってきて、「やっぱり!」「いつも見てますよ!」と口々に声をかけてくれた。
その夜、僕たちはその場にいたキャンパーたちと一緒にキャンプファイヤーを囲むことになった。焚き火の暖かな明かりが皆の顔を照らし、自然とギターが登場した。僕がギターを手に取り、軽くコードを鳴らすと、皆が期待するような目で見てきた。
「ちょっとだけ弾くけど、そんなに上手くないからね」と前置きして、僕は弾き始めた。
最初は誰もが控えめだったが、一曲終わる頃には声を合わせて歌い始めた。焚き火を囲む輪の中に笑顔が広がり、歌声が夜空に吸い込まれるようだった。
そのうち、彼女がそっと僕の肩を叩き、「次は私が歌おうか?」と言った。僕がギターを渡すと、彼女は軽くコードを確かめながら、その場にいた全員が知っている曲を歌い始めた。
彼女の声は、とびきりだった。透き通るような歌声が静かなキャンプ場に響き、焚き火の音と夜の風景がその歌を引き立てているようだった。僕も歌には自信があったが、その瞬間、彼女の歌声を聞いて、自分の中の自信が少しだけ縮こまったのを感じた。
曲が終わると、キャンパーたちは一斉に拍手を送り、「すごい!」「プロみたいだ!」と口々に感嘆の声を上げた。
「いやいや、そんなことないですよ」彼女は恥ずかしそうに笑いながら答えた。
「本当にプロになれそうだね」僕は隣で小声で言った。
「そんなこと言わないの」彼女は僕の肩を軽く叩いて笑った。
その夜、僕たちは歌い、語り合い、笑い合った。ふたりだけで旅をしている時間も楽しいけれど、こうして人々と一緒に過ごす時間もまた格別だった。彼女が人々と打ち解けていく様子を見るのも、僕にとっては何より嬉しいことだった。
寝る前、彼女がぽつりと呟いた。
「こういう時間って、旅の醍醐味だよね。人と出会って、何かを共有するって、本当に素敵」
「そうだね。でも、その中心にいるのはいつも君だよ。君の歌が、みんなを一つにしてる」
彼女は少し驚いた顔をして、それから照れくさそうに笑った。
「そんなことないよ。あなたのギターがあるからでしょ?」
「まあ、どっちにしても、最高のコンビってことだね」僕は笑いながら答えた。
彼女も笑い、星空の下で僕たちは焚き火の余韻に浸りながら眠りについた。その夜の歌声は、僕たちの心の中にずっと残り続けていた。
キャンピングカーでの旅が終盤に差し掛かったある夜、僕たちは広々としたキャンプ場で焚き火を囲んでいた。静かな星空の下、薪がパチパチと音を立てて燃え、あたりには穏やかな夜の空気が漂っていた。
僕はぼんやりと炎を見つめながら、ふと口を開いた。
「ねえ……僕、こんなに幸せでいいのかなって、時々思うんだ」
彼女は薪を崩さないようにそっと火を見つめながら、「どうしてそんなこと思うの?」と尋ねた。
「だって、僕は就職もできなくて、面接に落ちまくって……何もなかったんだよ。君と世界一周旅行に行くって決めたときも、ほとんどお金もないし、夢もない僕だった。なのに、君が隣にいてくれて、それで今こうして……こんなに幸せでいる」
言葉を絞り出しながら、僕はその時の自分を思い出していた。あの頃の僕は、ただ彼女が僕のそばにいてくれることだけが唯一の救いだった。
彼女はしばらく黙っていたが、やがて微笑みながら僕の方を向いた。
「でも、私はその時のあなたを見て、何もないなんて思わなかったよ」
「え?」僕は驚いて彼女を見返した。
「あなたはいつも優しかった。私がどんな夢を語っても、馬鹿にしたりせずに一緒に考えてくれたし、いつも真剣に私の話を聞いてくれた。その姿がすごく好きだった。」
彼女の言葉は穏やかだったが、心に深く沁みた。
「それに……ね、思い出してみてよ。」彼女は少し照れくさそうに笑った。「私が世界一周旅行に誘ったとき、何もないあなたがどれだけ一生懸命考えてくれたか。『僕でいいのかな?』って悩んでたけど、結局あなたは私の夢に真剣に向き合ってくれた。それだけで十分だったのよ」
僕は炎の光の中で彼女の瞳を見つめた。その瞳には、いつも僕を安心させてくれる優しさが宿っていた。
「……でも、今は本の印税も映画の収入もあって、YouTubeの収益だってあるけど、それも全部君と出会ったおかげなんだよ」僕はそう言いながら、焚き火に手をかざした。「もし君がいなかったら、何も始まらなかったと思う」
「そうかもしれないけど、あなたがそれを掴んだのは、結局あなた自身の努力でしょ?」彼女はさらっと言った。「私はただ、あなたが持ってるものを信じただけ。あなたはきっと、自分で気づいてないだけで、最初から素敵な人だったのよ」
彼女の言葉に、僕は少しだけ胸が熱くなった。
「それにね、幸せになっていいかどうかなんて、自分で決めることじゃないかな?」彼女は笑みを浮かべながら続けた。「私は、あなたといる時間が一番幸せだよ。だから、それで十分なんじゃない?」
僕は何も言えず、ただ微笑み返した。彼女のその言葉が、心の中の小さな不安をふっと消し去ってくれた。
「ありがとう」僕は静かに呟いた。
その夜、僕たちは焚き火のそばで長い時間話し続けた。過去のこと、未来のこと、何気ない話。彼女と過ごす時間は、いつもどこか穏やかで、優しかった。
そして僕は心の中で思った。彼女と出会ったその日から、僕の人生は少しずつ変わり始めていた。今こうして流れている幸せな時間は、彼女と一緒にいるからこそ生まれているものだと。
8ヶ月間の旅を終え、僕たちはいよいよ三浦海岸に向けて車を走らせていた。キャンピングカーはこれまでの旅の思い出でいっぱいだったが、今はその相棒に感謝しつつ、新しい家での生活に胸を躍らせている。
「長いようで、あっという間だったね」助手席の彼女が窓の外を見ながら言った。
「そうだね。なんだか、この車でいろんな景色を見て回ったのが、もう少し前のことみたいに感じるよ」僕はハンドルを握りながら答えた。「でも、いよいよ新しい家か……なんかちょっと緊張するな」
彼女はくすっと笑った。「緊張することなんてないでしょ。これまでちゃんと段取りしてきたんだから、完璧に準備できてるはずだよ」
僕たちは旅の途中で、一度だけ建設中の家を見に行ったことがある。その時、大工さんたちが汗を流しながら作業してくれている姿を見て、僕たちはその場でたくさんの飲み物やお菓子、謝礼を持参して感謝を伝えた。
「大工さんたち、本当に丁寧に作ってくれてたよね」僕が思い出しながら言うと、彼女が頷いた。
「うん、木の香りがすごく良かったし、窓の位置とか全部私たちの希望通りになってて感動したよね」
旅の間、僕たちは未来の生活に必要なものを少しずつ揃えていった。IKEAではダイニングテーブルやソファを選び、ヨドバシカメラでは冷蔵庫や洗濯機を購入。購入したものはすべて引っ越し予定日に合わせて配送や工事の手配を済ませていた。
「家具とか電化製品、ちゃんと揃ってるかな?」僕が不安そうに言うと、彼女が笑いながら言った。
「大丈夫、全部確認してあるから。それに、電気もガスも水道も手配済みだし、インターネットの工事も引っ越し前日には終わってるはず。すぐに生活できるよ」
「本当に君はしっかり者だよね」僕は感心しながら彼女を見た。
「いや、私だけじゃなくて、あなたもいろいろ手伝ってくれたからでしょ。旅の間に手配するのって結構大変だったけど、こういう準備も楽しかったよね」
僕たちはそう話しながら、徐々に三浦海岸に近づいていった。海が見える道に差し掛かると、彼女が嬉しそうに窓を開けて潮風を吸い込んだ。
「この匂い、やっぱり好きだなあ。これから毎日こんな空気の中で暮らせるなんて、本当に贅沢だよね」
僕も海の景色をちらりと見て、少し胸が高鳴った。「そうだね。これから、この場所が僕たちの家になるんだな……」
家に到着すると、そこには8ヶ月前にはなかった新しい建物が堂々と佇んでいた。スウェーデンハウス特有の温かみのある木の外観が、海辺の風景に溶け込むように建っていた。
「ついに、完成したんだ……」僕たちはしばらく車を降りるのを忘れて、ただその家を見つめていた。
「さあ、行こう!」彼女が僕の手を引いて玄関に向かう。
ドアを開けると、新しい木の香りがふわっと漂い、希望に満ちた空間が僕たちを迎え入れた。その瞬間、これから始まる新しい生活が、どれほど楽しみで充実したものになるかを感じた。
「いよいよだね」僕は彼女の顔を見て微笑んだ。
「うん、ここからまた新しい旅が始まるよ」彼女も笑顔で答えた。
この家で始まる新たな日々——それは旅の終わりではなく、また新しい冒険の始まりだった。
新しい家に引っ越してからの最初の1週間は、まさに怒涛の日々だった。家具や電化製品の搬入、エアコンの工事、インターネット回線の接続。朝から晩まで作業員の出入りが続き、僕たちはその度に指示を出したり、梱包をほどいたりしてバタバタと動き回った。
「ようやく全部終わったね」1週間が過ぎた夜、彼女がリビングのソファにどさっと腰を下ろしながら言った。
僕も隣に座り、窓の外を見た。夜風がカーテンを揺らし、新しい家の中に少しずつ馴染んできた潮の香りが漂っていた。「やっと落ち着いたね。これで、ようやくこの家で生活が始まるって感じだな」
彼女はふっと微笑み、「ねえ、1週間は何もしないで、ゆっくり過ごそうよ」と提案した。「これまでずっと動きっぱなしだったし、少し休憩しなきゃ」
「賛成。それが一番だね。」僕は彼女に微笑み返した。
その1週間は、本当に何もしない贅沢な時間だった。午前中はテラスでコーヒーを飲み、午後はソファで本を読んだり映画を観たりして過ごした。夜には波の音を聞きながらゆっくり眠りに落ちる——そんな穏やかな日々が、心と体をリセットしてくれた。
そして翌週、彼女が声を弾ませながら言った。「さあ、いよいよ畑を作る準備を始めよう!」
彼女が以前から楽しみにしていた庭での家庭菜園。僕も彼女の夢を手伝いたくて、車に乗り込み、近くのホームセンターまで必要なものを揃えに行った。土、肥料、苗、プランター、スコップ……買い物リストはびっしり書かれていて、すべてをカートに積み込む頃には、僕たちの車はほぼ満杯だった。
「これから夏野菜を植えるのにちょうどいい時期なんだって。」彼女はタブレットを手にしながら説明してくれた。「トマト、キュウリ、ナス、ピーマン……あとハーブも少しね」
僕はその計画の緻密さに驚いた。彼女のタブレットには、どの野菜をどの場所に植え、どのくらいの間隔を空けるか、さらには収穫のスケジュールまでがデータ化されていた。
「すごいな、君って本当に計画上手だよね。」僕は感心しながら言った。「僕なんて、いつも行き当たりばったりだから、こういうのは本当に助かるよ」
彼女は笑いながら、「まあ、バランスが大事だからね。あなたの即興力も、きっとどこかで役に立つよ」と言ってくれた。
僕たちは庭の土を耕し、肥料を混ぜ込み、苗を一つずつ丁寧に植えていった。汗をかきながらも、彼女が嬉しそうに土を触る姿を見ていると、僕も自然と笑顔になった。
畑作りがひと段落ついた後、彼女がぽつりと言った。「これで畑は準備オッケー。あとは釣りに行くだけだね」
その言葉を聞いた僕たちは、翌日には釣り道具を揃えるためにまた車を出した。ロッド、リール、釣り糸、仕掛け……初心者向けのセットを購入し、近所の波止場へと向かった。
「釣れるかなぁ?」彼女が不安そうに言いながら海に糸を垂らした。
「大丈夫だよ。きっとおかずくらいにはなるはず」僕は励ましながら、隣で糸を垂らした。
すると、最初にヒットしたのは彼女だった。小ぶりながらもキラキラと輝くアジが釣れ、彼女は大興奮。「見て見て!釣れた!」と僕に見せびらかした。
その後も次々にアジやイワシが釣れ、気づけばバケツの中は夕食に十分な魚でいっぱいだった。
「相模湾って本当にいろんな魚がいるんだね」彼女は嬉しそうにバケツを眺めていた。「これで今日の夕食は決まりだね」
「君の釣りスキル、思ったよりすごいかも」僕は笑いながら言った。「でも、料理は僕に任せてよ。釣った魚は僕が頑張ってさばくから」
その夜、僕たちは自分たちで釣った魚をフライにして、新しい家で初めての手作りディナーを楽しんだ。
僕たちは、いつの間にか釣りにどっぷりとハマっていた。初めは近所の波止場での釣りから始めたものの、すぐに「もっと大物を釣りたい」「違う場所でも挑戦してみたい」となり、気づけば船釣り、磯釣り、筏釣りと、釣りのバリエーションがどんどん広がっていった。
「今日は何釣りにしようか?」休日の朝、僕がコーヒーを飲みながら尋ねると、彼女は釣り雑誌をめくりながら答えた。
「うーん、磯釣りかな。磯の方がアジとかタイ以外にも、面白い魚が釣れるって書いてあるよ」
「じゃあ、今日は磯釣りセットでいくか。あの新しいリール、試してみたいし」僕はニヤリと笑いながら言った。
釣具屋に行くのも、僕たちにとっては一つの楽しみだった。竿やリール、針、ライン……初心者向けの道具から専門的なものまでずらりと並んでいて、その中から「次はこれを使ってみよう」と道具を選ぶ時間がとてもワクワクするものだった。
「この竿、デザインもかっこいいし、使いやすそうじゃない?」彼女が一本の竿を手に取りながら言った。
「そうだね。でも、これに合うリールをちゃんと選ばないとバランス悪くなるからさ……お、これとかどう?」僕が隣の棚からリールを持ってきて見せると、彼女が「いいじゃん!これにしよう!」と嬉しそうに頷いた。
釣具屋での買い物を終えた後は、その足で海へと向かう。磯の上で風を受けながら糸を垂らし、釣り竿がしなる瞬間を待つ時間——その緊張感と期待感は何にも代えがたいものだった。
ある日、彼女が興奮気味に叫んだ。「きた!これ、絶対大物だよ!」
彼女の竿が大きくしなり、僕も急いで駆け寄った。「ゆっくり巻いて!急ぐと糸が切れるよ!」
彼女は真剣な表情でリールを巻き続け、ついに上がってきたのは立派なヒラメだった。二人で歓声を上げながら、それを慎重にクーラーボックスに収めた。
「今日の晩ご飯はヒラメのお刺身決定だね」僕が言うと、彼女が満足そうに微笑んだ。「やっぱり釣った魚を食べるのって、最高に贅沢だよね」
家に帰ると、釣った魚をさばき、シンプルに刺身にしたり、煮付けにしたり、フライにしたり。彼女が作ったサラダには、庭で育てた野菜がふんだんに使われていた。
「これ、完全に自給自足の食卓じゃない?」僕が食卓を見渡しながら言うと、彼女が笑いながら答えた。
「完全自給自足には程遠いけど、でもこうやって自分たちで育てた野菜や釣った魚を食べられるだけでも十分幸せだよね」
「そうだね。スーパーで買ったものと全然違う気がするよ」僕はヒラメの刺身を口に運びながら頷いた。
夏が進むにつれ、庭の畑では植えた野菜が次々に実をつけ始めた。トマトが真っ赤に熟し、キュウリは青々と成長し、ナスは見るからにツヤツヤしていた。収穫の度に彼女は嬉しそうに笑い、「こんなにできたよ!」と手に持った野菜を僕に見せてくれた。
「これが君の理想の生活だったんだよね」僕が言うと、彼女は満足げに頷き、「そう、でも一緒に楽しんでくれるあなたがいるから、もっと理想的だよ」と答えた。
僕たちは自給自足とはいかないまでも、自分たちで作り上げた生活を少しずつ育てていった。釣りで得た魚と、庭で育てた野菜が食卓を彩り、ふたりで過ごす時間がさらに豊かになっていった。
僕たちの生活は、ただ毎日遊んでいるわけではなかった。庭での野菜作りや釣りを楽しむ一方で、僕は旅行の原稿を書き続け、彼女は投資の運用に忙しい日々を送っていた。
朝は彼女が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、それぞれのデスクに向かう。僕はノートパソコンに向かって旅の記憶を文字に起こし、編集者からの赤入れやアドバイスを元に原稿を修正していった。一方、彼女はタブレットを手に、投資先のデータを細かく確認しながら、時折メモを取っていた。
「調子どう?」彼女がふと顔を上げて聞いてきた。
「まあまあかな」僕は肩を回しながら答えた。「でも、この部分、もっとドラマチックにした方がいいって言われてさ。確かにその通りなんだけど、何度も直してるとどんどん迷宮にハマるんだよね」
彼女はクスッと笑った。「大丈夫、あなたならいいものが書けるよ。あの旅をこんなに熱心に形にしようとしてるんだから、絶対面白い本になる」
「ありがとう」僕は少し照れながら、またキーボードに向かった。
旅行から帰って1年が経った頃、ついに僕の本が完成した。そして、書店に並ぶ日が近づくと、出版社の担当から連絡があった。
「サイン会を開きましょう。なので、サインの練習をお願いしますね。」電話越しの声に、僕は少し困惑した。
「サインの練習? そんなの必要なんですか?」
「必要ですよ。サインって意外と大事ですからね。たくさん書くときに手が疲れないデザインを考えておいた方がいいですよ」
その夜、僕は紙とペンを用意して、色々なパターンのサインを書き始めた。横で見ていた彼女が笑いながら言った。
「どれも悪くないけど、ちょっとシンプルすぎるんじゃない?」
「じゃあ、君が選んでくれよ」僕はいくつかの候補を彼女に見せた。
彼女は指で一つを指差し、「これがいい。あまり飾らないけど、ちゃんと特徴があるし、あなたらしいと思う」と微笑んだ。
そして、ついにサイン会の日がやってきた。書店の2階に用意されたテーブルには、僕の本が山積みになり、会場にはたくさんの人が集まっていた。
「本当に人が来てくれるかな……」僕は緊張しながら彼女に言った。
彼女は笑顔で僕の手を握り、「大丈夫だよ。だって、あなたの本を読みたいって思う人がこれだけいるんだから、自信を持って」と励ましてくれた。
いざサイン会が始まると、列ができ、次々と本を手にした人たちが僕の前に現れた。「この本、楽しみにしてました!」とか、「世界旅行の話、とても感動しました!」と声をかけられるたび、僕の胸には温かいものが広がった。
「お疲れ様」サイン会が終わる頃、隣に座ってくれていた彼女が言った。
「いやー、こんなに疲れるとは思わなかった」僕は肩を揉みながら答えた。「でも、ちょっとした有名人になった気分だよ」
彼女は笑いながら、「あなた、結構楽しんでたよね?」と言った。
「まあね。でも、君が横にいてくれたから、何とかやり切れたよ」僕は彼女に感謝の目を向けた。
その日、サイン会を終えた僕たちは、自分たちの本が人々に届いたことに少しだけ誇らしい気持ちを感じながら、静かな夜の家へと帰った。

僕が作家になるなんて、一度も夢見たことはなかった。けれど、旅の原稿を書き上げ、本を出版し、気づけば2冊目の本も世に送り出していた。不思議なものだと思う。僕自身の人生は、どちらかというと彼女に導かれる形で進んでいる気がする。
彼女はいつも明確な夢や目標を持ち、それを一つずつ実現していく人だった。世界一周の旅、そして田舎での自給自足に近い暮らし——どちらも彼女の夢だった。そしてそのどちらも、彼女の情熱が引き寄せたものだった。
だが、彼女には3つ目の夢があるのかどうか、それは聞いたことがなかった。ある日、僕はふと思い立って彼女に尋ねてみた。
「ねえ、君の次の夢って、どんな夢?」
彼女はその時キッチンでコーヒーを淹れていたが、僕の質問にふっと笑みを浮かべ、マグカップを持ったままリビングのソファにやってきた。そして、僕の隣に座ると肩を抱き、いたずらっぽい表情で問い返してきた。
「本当に聞きたい?」
「もちろんだよ」僕は真剣な顔で答えた。「君の夢がいつも僕の人生を面白くしてくれるからさ」
彼女は少し考えるように視線を遠くに向け、それから静かに口を開いた。
「私ね、今まであまり話してこなかったけど、母のこと、少し話してもいい?」
僕は驚いた。彼女が自分の家族について話すことは少なかったからだ。「もちろん、聞かせてよ。」
「母はね、若い頃に歌手を目指してたの。いろんなオーディションを受けたり、NHKののど自慢大会にも出たりしてたのよ」
「本当に?」僕は目を丸くした。「君の歌が上手なのは、そのお母さん譲りだったんだね」
彼女は笑いながら頷いた。「そうかもしれない。母はシンガーソングライターになりたくて、たくさん詩を書いて、自分で曲も作ってた。でも、結局世の中に出ることはなかったの」
僕は彼女の横顔をじっと見つめた。彼女の言葉には、どこか懐かしさと切なさが混じっていた。
「それでね、私の3つ目の夢は、母が作った歌を世の中に届けることなの。YouTubeで配信して、できれば誰かに聴いてもらいたいと思ってる」
「それは素晴らしい夢だね。」僕は心からそう言った。「お母さんの歌が、君の声で蘇るなんて……きっとお母さんも喜ぶよ」
彼女は小さく微笑んだ。「そう思ってくれるといいな。でもね、実はそれだけじゃなくて……」
「まだ何かあるの?」僕は身を乗り出して聞いた。
「いつかは、私も自分で作詞作曲して、自分のオリジナルの歌を歌いたいの」彼女は少し照れくさそうに言った。
「それもきっと君ならできるよ」僕は力強く言った。「君は計画して、それを実現する力を持ってる。これまでの君を見てきた僕が保証する」
彼女はその言葉に安心したのか、僕の肩に頭を乗せて静かに言った。「ありがとう。でも、きっとあなたも手伝ってくれるでしょ? 例えば歌詞のアイデアとか、一緒にメロディを考えたりとか」
「もちろんさ」僕は彼女の頭にそっと手を置いて答えた。「君の夢を叶えるためなら、何だって協力するよ。それが僕の夢みたいなものだから」
その瞬間、彼女は子供のような笑顔を浮かべて「それじゃあ、もう一つプロポーズされたみたいだね」と言った。
僕たちはその夜、母がどんな歌を作っていたのか、どんな想いでその歌を書いたのか、彼女から聞きながら過ごした。そして、彼女の3つ目の夢がいつか形になる日が待ち遠しくなった。

僕たちは、彼女の3つ目の夢を叶えるために動き始めた。まず手をつけたのは、家の2階にある空いていた部屋をスタジオにリフォームすることだった。防音工事を施し、楽器を弾いても歌を歌っても、外にほとんど音が漏れないように仕上げた。その部屋は、これからの彼女の創作活動の拠点となる特別な場所になった。
「これで夜遅くに歌っても大丈夫だね」僕が冗談めかして言うと、彼女は笑いながら答えた。
「でも、隣であなたが寝てるのに歌ったら迷惑でしょ?」
「いや、むしろ子守唄代わりになるかもよ」僕は軽く肩をすくめてみせた。
スタジオが完成してから、僕たちは週に一度、京急電車に乗って横浜へ出かけるようになった。彼女が通い始めたのはボイストレーニングの教室。これまで趣味として歌ってきた彼女だったが、プロの指導を受けることで、自分の声をさらに磨こうと決めたのだ。
「じゃあ、行ってくるね」横浜の駅で彼女が教室に向かう間、僕は街で時間を潰した。カフェで原稿を書いたり、書店を巡ったりして過ごす。特に目的もなくぶらぶら歩いていると、横浜の街がどこか特別な場所のように思えてきた。
ボイストレーニングが終わると、彼女と合流して食事をしたり買い物をしたりした。横浜中華街で点心を楽しんだり、赤レンガ倉庫で新しいレコードを探したり。週に一度のこの時間は、どこかデートのような気分で、僕たちにとって大切なリフレッシュの時間になっていた。
「今日のレッスンどうだった?」帰りの電車で僕が尋ねると、彼女は嬉しそうに頷いた。
「すごく良かったよ。先生が、声の出し方が前より安定してきたって褒めてくれたの」
「それは良かった。君の歌、どんどん上手くなってるもんね」
「ありがとう。でも、次はもっと練習しなきゃね。あなたも、スタジオでギターの練習付き合ってくれるでしょ?」
「もちろんさ」僕は笑いながら答えた。
家に帰ると、僕たちはそのスタジオで録音を始めた。僕がギターを弾き、彼女がピアノを弾きながら歌を歌う。その音が重なり合い、彼女の声がスタジオの中に響き渡るたび、僕はその場の空気が少しだけ神聖なものに変わる気がした。
録音が終わると、彼女の歌声に合わせた動画を作るためにフリーランスの動画クリエイターを探した。完成した動画には、美しい自然の映像や、彼女がスタジオで歌っている姿が組み合わされていた。
「これ、いい感じじゃない?」完成した動画を見ながら、僕が言うと、彼女は少し照れたように微笑んだ。
「うん……でも、私の歌なんかで本当に大丈夫かな」
「大丈夫どころか、最高だよ」僕は力強く答えた。「君の声は、きっと誰かの心に届く。」
彼女の歌を載せた動画をYouTubeにアップすると、コメント欄には少しずつ感想が寄せられるようになった。「とても癒されました」「心が温かくなる歌声ですね」——そんな言葉を読むたびに、彼女は嬉しそうに画面を眺めていた。
「これ、母が作った曲を誰かに聴いてもらうのが夢だったんだよね。」彼女はそっと呟いた。「でも、こうして実現するなんて、本当に信じられない」
「君が頑張ったからだよ」僕は隣に座る彼女の手を握りながら言った。「それに、これはまだ始まりだろ? 君のオリジナル曲だって、きっとすぐに作れる」
彼女は静かに頷き、「うん、そうだね。次の夢に向かって、また頑張るよ」と微笑んだ。
僕たちの家のスタジオから始まった彼女の新しい旅は、また一つの物語となり、僕たちの生活を鮮やかに彩り始めていた。
僕たちが運営するYouTubeチャンネルは、気づけば登録者数と再生回数がぐんぐん伸びていた。最初は僕たちの世界一周と日本一周の旅を記録した動画から始まったチャンネルだったが、最近では彼女の歌が新たなコンテンツとして加わり、多くの人に注目されるようになった。
特に、彼女のお母さんが若い頃に書いた歌詞と楽曲をアレンジし、彼女自身が歌う動画は、多くの人の心を掴んでいた。コメント欄には「こんなに情熱的な詩、胸に響きました」「これが本当に手作りの楽曲だなんて信じられない」「親子の絆を感じます」といった感想が次々と寄せられた。
ある夜、僕たちはリビングでそのコメントを読みながら、静かに話をしていた。
「お母さんの詩って、本当に情熱的だよね。」僕は画面を見つめながら言った。「特に、この歌詞……『あなたの瞳に映る私は、いつだってあなたのために輝きたい』なんて、すごくストレートで素敵だよ」
彼女は少し照れくさそうに笑った。「そうなの。私も最初に読んだとき、ちょっと恥ずかしいくらい情熱的だなって思った。でもね……これ、お父さんに向けて書かれた詩なんだよ」
「お父さんに?」僕は少し驚いた。
彼女は頷いて続けた。「若い頃、お母さんとお父さんは結構ドラマチックな恋愛をしてたみたい。遠距離恋愛だったし、お父さんの仕事が忙しくて会えない時間も多かった。それで、お母さんは自分の気持ちを詩にして伝えることが多かったんだって」
「へえ……お父さんはその詩をどう思ってたんだろう?」
「どうだろうね。でも、お母さんは『彼が私の詩を読むと、いつも黙ってニヤリと笑うだけだった』って言ってた」彼女はクスッと笑った。
「ニヤリと笑うだけか……でも、きっとお父さんも感動してたんだろうね。男って、そういうのをどう表現していいかわからないことがあるから」
「かもしれないね」彼女は遠くを見つめるように微笑んだ。「でも、今こうしてお母さんの詩を歌うと、不思議と自分もその気持ちに共感できるの。愛する人への情熱とか、感謝とか、そういう感情が胸に湧いてくるんだ」
僕は静かに彼女を見つめ、「それが君の歌声に乗って、多くの人に伝わってるんだろうね」と答えた。
彼女は少し照れながら「そうだといいけど」と言った後、そっと僕の手を握った。「でもね、あなたがギターを弾いてくれるから、私もこんな風に歌えるんだよ。だから、これは私一人の力じゃないんだ」
「そうかな?」僕は笑った。「君の歌声が全てを引っ張ってる気がするけどね。でも、そう言ってくれるなら……僕も頑張るよ」
その夜、僕たちはスタジオにこもり、彼女のお母さんが書いた詩の新しい曲を録音した。彼女がピアノを弾きながら歌う声は、深い感情に満ちていて、その場にいるだけで心が熱くなるようだった。
「お母さんの詩が、こうして世の中に広がっていくのって、すごく不思議な気分だよね」録音を終えた後、彼女がぽつりと呟いた。
「きっとお母さんも喜んでるよ。」僕はそう言いながら、彼女の肩をそっと叩いた。「お父さんへの気持ちが、こんな形で未来に繋がっていくなんて、お母さんも想像してなかったかもしれないけど、君がそれを実現してるんだ」
彼女は微笑みながら頷いた。「そうだね……お母さんの夢の続きを私が歌ってるんだと思うと、なんだか誇らしい気持ちになる」
その後、完成した動画をYouTubeにアップロードすると、またたく間に再生回数が伸び、たくさんのコメントが寄せられた。彼女のお母さんの詩は、彼女の声を通じて新たな命を得て、多くの人の心に響いているのだと実感した。
彼女は母の夢を受け継ぎながら、新しい音楽の旅を歩んでいる。その姿を見て、僕はまた彼女と一緒に新しい未来を作り続けたいと強く思った。

ある日の夜、彼女がキッチンでお茶を淹れながら、少し照れくさそうに僕に話しかけてきた。
「ねえ……私、母と同じように、あなたに向けてのメッセージを詩にしようと思ってるの」
その言葉に僕は一瞬驚き、次にじんわりと胸が温かくなった。「本当に? それはすごく楽しみだな」
彼女は湯気の立つカップを手にしながら、少し恥ずかしそうに笑った。「でも、あまり期待しないでね。お母さんみたいに情熱的な詩は書けないと思うから……私らしく、もう少し控えめな感じになるかもしれない」
「君らしい詩が一番だよ」僕は笑いながら答えた。「どんな言葉でも、君が書いてくれるならそれだけで嬉しいよ」
それから数日間、彼女は何かに集中するように机に向かい、時折ペンを止めて考え込んでいた。彼女が書いた詩がどんなものになるのか、僕は気になって仕方がなかったが、彼女は「まだ秘密」と言って何も教えてくれなかった。
ようやく詩が完成したある日、彼女がスタジオで僕を呼び出した。
「できたよ。この詩にぴったりの曲を一緒に作りたいの」
僕はギターを手に取り、彼女の詩を見た瞬間、その言葉の温かさと深さに心を打たれた。彼女の母親の詩が情熱的で直接的だったのに対し、彼女の詩はもっと柔らかく、静かな愛情が溢れていた。それでも、その奥底には深い想いが込められているのが感じられた。
「すごくいい詩だね」僕は真剣な目で言った。「この詩にふさわしい曲を作ろう」
僕たちは一緒にスタジオにこもり、詩にぴったりなメロディを作り上げた。僕がギターでコードを探しながら、彼女がピアノでメロディを奏でる。時には「ここはもう少し優しい感じがいいね」と意見を交わし、時には「ちょっと違うな」と頭を抱える。完成した楽曲は、僕たちの想いが詰まった特別なものだった。
「これが完成した曲」彼女は微笑みながら言った。「最初は、あなただけのために歌うね」
そして彼女はスタジオのマイクの前に立ち、僕だけのために歌を歌い始めた。彼女の透き通るような声が、詩とメロディに命を吹き込み、その瞬間、僕の胸の奥深くまで響いた。
歌詞は直接的ではなかったけれど、一つ一つの言葉から彼女の深い愛情が感じられた。母親の詩に負けないくらい、それは僕にとって特別なものだった。聞いているうちに、僕はいつの間にか涙が溢れていた。
「どうだった?」歌い終えた彼女が振り返り、少し緊張した表情で尋ねた。
僕は言葉にならず、ただ頷きながら涙を拭った。「本当に素晴らしい。ありがとう……こんな歌を僕に向けて歌ってくれるなんて、本当に幸せだよ」
彼女は照れくさそうに微笑みながら、「私が伝えたかったこと、全部伝わったなら良かった」と静かに言った。
その後、僕たちはスタジオでその楽曲を本格的に録音し、映像も一緒に作り上げてYouTubeにアップロードした。彼女が自分で作詞したオリジナル曲は、公開直後から大きな反響を呼び、チャンネル登録者数と再生回数がこれまでにないほど増えていった。
「すごいね……君の歌がこんなにも多くの人に届いてる」僕が再生回数の伸びを見て言うと、彼女は少し信じられないという顔で画面を見つめた。
「でも、これはあなたが手伝ってくれたからだよ。曲を一緒に作ってくれたし、私の詩を信じてくれた」
「いや、君が歌ったからだよ」僕は微笑みながら言った。「君の歌には、君だけの力がある。それが人の心に届いてるんだ。」
彼女は静かに頷き、「これが私の3つ目の夢の形だね」と言った。
そして僕たちは、スタジオで次の曲の制作について話し始めた。この夢は、もう終わりではなく、新たな未来への始まりなのだと二人で感じながら。

彼女に届いた有名レコード会社からの専属契約の話を、彼女があっさり断った時、僕は驚きを隠せなかった。
「え、本当に断るの?」僕は彼女を見つめながら聞いた。「だって、これってすごいチャンスだよ。プロの歌手としての道が開けるかもしれないのに」
彼女は微笑んで首を振った。「私は歌手になりたいって思ったことは一度もないの。ただ、母の作った曲と、私のオリジナルの曲を、誰かに聴いてほしい。それだけなの。」
僕はその言葉を聞いて、一瞬言葉を失った。こんなに真っ直ぐで、ブレない人がいるんだと改めて感じた。
彼女はさらに続けた。「それに、私はあなたと離れて、仕事であちこち行く生活は嫌なの。庭で野菜を育てて、釣りをして、あなたとのんびり暮らすのが私の夢だから」
彼女の言葉は真剣だった。その瞳には迷いの欠片もなく、僕はただ頷くしかなかった。「君らしいね。それなら、それが一番だ」
その年の冬、彼女が突然提案した。「冬の間、畑をやらずに旅に出ようよ」
「それが4番目の夢ってこと?」僕が聞くと、彼女は笑いながら首を振った。
「ううん、これは私の夢じゃない。あなたに3冊目の本を書いてほしいから。そのための旅なの」
「どこに行くんだい?」
彼女は少し間を置き、「アメリカよ」と短く答えた。そして、「まだ計画段階だけど、あと1週間くらいでプランができるから楽しみにしててね」
1週間後、横浜のボイストレーニングの帰りに、彼女と一緒にシェーキーズでピザを食べながら彼女が話し始めた。
「成田からロサンゼルスに飛んで、そこでハーレーダビッドソンをレンタルするの。あなた、限定解除の免許持ってるよね?」
僕は驚いてピザを一瞬噛むのを忘れた。「ハーレーをレンタルするって……ひょっとして、アメリカ横断の旅?」
彼女は静かに頷いた。「そう。あなたのお父さん、大のバイク好きだったんでしょ? きっとあなたも、お父さんと一緒に乗った思い出があるんじゃないかと思って」
彼女の言葉に、僕の胸がぎゅっと締め付けられるような感覚がした。僕の父親は、高校3年生の時に大腸がんで亡くなった。父が愛したハーレーで僕を後ろに乗せ、いろんな場所へ連れて行ってくれた思い出が鮮明に蘇った。
「君、僕の父の夢を僕に叶えさせようとしてくれてるんだね……」

彼女は微笑み、「あなたは私の夢を叶えてくれたでしょ? それに、これは私の父の夢でもあるの。ラスベガスでギャンブルをするっていう夢がね」
旅の計画を進める中で、僕たちはふと重要なことに気がついた。アメリカ横断のためにロサンゼルスでハーレーダビッドソンをレンタルして、ニューヨークで返却するという案。便利ではあるものの、費用をよくよく計算してみると、驚くほど高額だった。
「これ、新車を一台買えるくらいの金額になるんだよ」僕は電卓を叩きながら彼女に言った。
彼女はその数字を見て目を丸くした。「本当だ……。でも、そんなに高いなら、いっそのこと新車を買っちゃった方が良くない?」
「だよね。」僕は頷きながら答えた。「どうせなら、アメリカで乗った後に日本に持ち帰って使う方がいい気がする」
「それ、いいかも」彼女の目が輝いた。「思い出の詰まったバイクをそのまま持ち帰れるなんて、なんだか素敵じゃない?」
僕たちはその場で意見が一致し、すぐに日本のディーラーに足を運ぶことにした。


「ようこそいらっしゃいませ!」ディーラーの店員が明るく迎えてくれた店内には、ずらりと並ぶハーレーダビッドソンの新車たちが輝いていた。
「やっぱり迫力あるなあ……」僕はその車体に目を奪われながら呟いた。「どれもかっこいいけど、どれにしようかな」
「あなたのお父さんが乗ってたのってどんなタイプ?」彼女が尋ねてきた。
「ソフテイルだったよ。長距離も快適で、クラシックなデザインが魅力なんだ。」僕は父が生前愛用していたバイクを思い出しながら答えた。
「じゃあ、それに近いのがいいんじゃない?」彼女がひとつのモデルを指差した。「これなんてどう?」
彼女が指差したのは、最新モデルのソフテイル。どこか懐かしさと新しさが融合したデザインで、まさに僕が思い描いていた理想の一台だった。
「これ……いいかもな」僕はその車体を撫でながら言った。「これでアメリカ横断なんて、最高だよ」
店員の説明を受けながら、僕たちはその場で購入を決定。さらに、アメリカでの受け取りについても手配を進めた。
「コンテナでロサンゼルスに送るので、向こうでそのまま引き渡しできますよ」店員がそう言ってくれた時、僕たちは顔を見合わせて笑った。
「これなら、最高の状態で旅を始められるね。」彼女が嬉しそうに言った。


ハーレーの手配を済ませ、コンテナでアメリカに送る準備が整うと、僕たちはますます旅への期待を膨らませた。
「新車のハーレーでアメリカ横断なんて、本当に夢みたいだな」僕は旅の準備を進めながら呟いた。
彼女は笑いながら言った。「これで、あなたのお父さんの夢も叶えられるでしょ? しかも、そのバイクを日本に持ち帰って、これからも乗り続けられるんだよ」
「本当にありがとう。」僕は彼女の手を握りながら言った。「君がこのプランを考えてくれなかったら、こんな選択肢思いつきもしなかったよ」
「私も一緒に楽しみたいだけだから」彼女は微笑んだ。「でも、このバイク、あなたがいちばん大事にする宝物になるんじゃない?」
僕は頷きながら言った。「間違いないね。このバイクには、僕たちの旅のすべてが詰まるんだ」
そして、出発の日が近づくと、僕たちの新車のハーレーダビッドソンは無事ロサンゼルスに届き、旅の準備は万全となった。
旅の計画は彼女らしく完璧だった。西海岸から東海岸まで、約5760kmの道のりを15日間で横断するツアーだった。
ロサンゼルスからラスベガスへ。さらにグランドキャニオン、サンタフェ、セントルイス、シカゴ、ワシントンD.C.・ニューヨーク 。
いよいよ西海岸から東海岸へのアメリカ横断の旅が始まった。
僕たちのヘルメットには無線機がついていて、バイクを運転しながらでも会話ができた。ロサンゼルスの太陽の下、彼女が笑いながら言った。「これってなんだか映画みたいだね。」
「映画になってもおかしくないくらい壮大な旅だよ」僕は笑って答えた。
ラスベガスでは、おしゃれをしてカジノに繰り出した。ポーカー、バカラ、ルーレット、スロットマシーン……どれも僕たちにツキがあった。
「信じられない! これで旅の資金の大半がまかなえるんじゃない?」彼女が笑いながら言った。
「君の父さんも、きっと喜んでるだろうね」僕は微笑みながら答えた。「そして、僕の父も天国からこの旅を見て、喜んでくれてるはずだ」
その後も壮大なアメリカ大陸を走り抜ける旅は続き、僕たちは一緒に新しい景色を見て、笑い、そして時々涙を流した。この旅は、僕たち二人だけの特別な物語として、これからも心に刻まれ続けるのだと確信した。
僕たちのアメリカ横断の旅は、毎日が新しい発見と感動の連続だった。僕は日々、旅の出来事を原稿の下書きにまとめながら、YouTubeに写真や動画を投稿し、この壮大な冒険を世界中の視聴者と共有していた。
「こんなに多くの人が見てくれてるなんて信じられないな」僕は再生回数が急上昇するYouTubeのダッシュボードを見ながら驚いた。
「バイク乗りにとってアメリカ横断は一度は憧れる旅だからね」彼女は微笑みながら答えた。「それを私たちがやってるってだけで、みんな応援してくれてるのかも」
視聴者からは応援コメントや質問が毎日のように届いた。「ルート66はどうだった?」「一日どのくらい走ってますか?」「どんな装備を使ってますか?」——そんな声に僕たちはできる限り答え、旅のリアルを伝えていった。
途中のキャンプ地では、僕がギターを弾き、彼女が歌う夜があった。焚き火を囲むように集まった多くのバイク乗りたちが、彼女の歌声に耳を傾け、次第に一緒に歌い始めた。
「君の歌は本当に特別だよ。」僕がギターを弾きながら言うと、彼女は笑って答えた。「いや、あなたのギターがあるからだよ。ひとりじゃこんなに盛り上がらないと思う」
その場面を撮影して配信すると、日本だけでなく、世界中のバイク乗りたちがコメントをくれた。「この歌を聞きながら旅に出たくなった」「自分もアメリカ横断を夢見てます」——彼女の歌と僕たちの旅が、誰かの背中を押しているのだと実感した。
グランドキャニオンでは、壮大な景色を背景にカレーを作り、彼女が歌う姿を撮影した。その動画をYouTube制作会社に送ると、あっという間に再生回数が急増し、多くの人がその映像美と彼女の歌声を絶賛してくれた。
「やっぱりグランドキャニオンのスケール感は違うね」彼女が風に髪を揺らしながら言った。「ここで歌えたこと、きっと一生忘れないと思う」
「僕もだよ。この景色と君の声が、一緒に思い出として刻まれる」僕はその瞬間をカメラに収めながら答えた。
旅の終盤、ニューヨークに到着すると、観光のメインが始まった。ブロードウェイで本場のミュージカルを観劇し、メトロポリタン美術館で世界の名画に触れ、セントラルパークを二人でジョギングする。
「ニューヨークって、本当にエネルギーに満ちた街だね」彼女がセントラルパークの緑の中で息を整えながら言った。「ここでの時間がもっと長ければいいのに。」
「でも、十分楽しんでるよ。ニューヨークにこんなに長く滞在するなんて思ってなかったけど、正解だったね。」僕は彼女に微笑みながら答えた。
ニューヨークでは僕たちの滞在期間が最も長くなり、旅の中でも特に思い出深い場所となった。そしてその後、ワシントンD.C.ではリンカーン記念堂やスミソニアン国立自然史博物館、ホワイトハウス、議会議事堂、ワシントンモニュメントなど、アメリカの歴史を象徴する場所を巡った。
「ここを歩いてると、アメリカの歴史を直に感じるね」僕が言うと、彼女は少し考えながら答えた。
「うん。こんな風に過去と向き合いながら前に進む街って、なんだかすごくエネルギーがある気がする」
旅の終わりに近づくにつれ、僕たちはそれまでの道のりを振り返りながら、次の景色を楽しむことを忘れなかった。この旅は僕たちにとって、ただの冒険ではなく、人生そのものを豊かにする時間だった。彼女が計画してくれたこの旅を通して、僕は新しい物語の一章を紡ぎつつあったのだ。

アメリカ横断の旅も終わりが見えてきたころ、僕たちはニューヨークで一息ついていた。滞在していたホテルのロビーで、彼女がコーヒーを飲みながら、少し含みのある笑顔で話しかけてきた。
「ねえ、実はもう一つサプライズがあるんだけど……聞きたい?」
僕はコーヒーを飲む手を止めて彼女を見た。「サプライズ? また何か企んでるの?」
「うん、でも、絶対気に入ると思うよ」彼女は得意げに言った。
「なんだろう……ヒントは?」僕が少しだけ焦らしながら尋ねると、彼女はニヤリと笑った。
「ヒントは……『滝』」
その瞬間、僕の頭に浮かんだのはたった一つだった。「まさか、ナイアガラの滝……?」
彼女は満面の笑みで頷いた。「そう! 旅の最後に、ナイアガラの滝を見に行こうと思って。もうツアーの手配も済ませてあるの」
「マジで!?」僕は驚きと興奮で思わず声を上げた。「君って本当にすごいな……どうやってそんなことまで計画してたんだ?」
「ふふ、あなたがコンテナでハーレーを日本に送る手配をしてる間に、こっそり準備してたの。」彼女はいたずらっぽく笑った。
「いや、最高の締めくくりだよ。それにしても、君のサプライズ力には毎回驚かされるな。」僕は感謝の気持ちで彼女を見つめた。


数日後、僕たちはニューヨークからバスに乗り、ナイアガラの滝へと向かった。道中、車窓から見える景色はどこまでも広がるアメリカの大地で、これまでの旅の思い出を振り返る時間になった。
「こうして振り返ると、本当にいろんな場所を回ったね。」僕がぽつりと呟くと、彼女が微笑みながら答えた。
「そうだね。でも、私たちの旅はいつもあなたが物語にしてくれるから、それがさらに特別になるの。」
「いやいや、君が計画してくれるから、僕はその物語を書く材料を手に入れられるんだよ」僕は笑いながら言った。
バスがナイアガラに近づくにつれ、周囲の風景が徐々に変わり始めた。そして、ついに目の前に広がる壮大な滝の音と光景に、僕たちは言葉を失った。


ナイアガラの滝の前に立つと、その雄大さに圧倒された。滝から立ち上る霧が虹を作り、轟音が大地を震わせるようだった。
「すごい……これがナイアガラの滝なんだね」僕は感嘆の声を漏らした。
「ねえ、こうやって自然の力を目の前にすると、自分の悩みなんて本当に小さいなって思うよね。」彼女が滝を見つめながら言った。
「本当だね」僕は頷きながら、彼女の隣でその景色を焼き付けるように見つめた。「君がこの場所を計画してくれた意味がわかるよ。この旅の締めくくりには、これ以上ない場所だ」
その後、僕たちは滝を間近で見るためにボートに乗り、さらにその迫力を肌で感じた。滝のしぶきが全身に降り注ぎ、笑いながらタオルで顔を拭い合うその時間は、一生忘れられない瞬間になった。


ナイアガラの滝を後にして、僕たちは近くのレストランで最後の夜を祝った。シャンパンのグラスを掲げ、彼女が笑顔で言った。
「ねえ、この旅、どうだった?」
「どうだった、なんて聞くまでもないよ」僕は笑いながら答えた。「最高の旅だった。君が計画してくれたからこそ、こんな素晴らしい時間を過ごせたんだ。本当にありがとう」
「でも、次はあなたの番だよ」彼女はいたずらっぽく言った。「この旅をちゃんと物語にして、3冊目の本を完成させてね」
「任せてくれ」僕は力強く頷いた。「この旅は、僕たちのこれまでで一番壮大な物語になるよ」
旅の終わりをナイアガラの滝という壮大な景色で締めくくり、僕たちは日本への帰路に着いた。ロサンゼルスから送ったハーレーダビッドソンが横浜に到着するのを楽しみにしながら、僕は新しい本のアイデアを頭の中で練り始めていた。この旅は終わりではなく、新たな物語の始まりだったのだ。
冬の海は冷たくて釣りは春までお預けになったが、僕たちはその時間を別の楽しみに変えた。彼女は、投資をする時間以外はずっとリビングで読書をしていた。お気に入りのソファに座り、膝にブランケットをかけて、静かにページをめくる姿は、まるでその場だけ時間が止まっているようだった。
「この本、すごく面白いよ。」彼女が本から顔を上げて僕に言った。「たぶん、あなたも好きだと思う」
「本当に? じゃあ、読み終わったら貸してよ。」僕は笑いながら答えた。彼女が勧めてくれる本はいつも期待を裏切らない。
一方で、時々彼女はスタジオにこもると、何かを考え込むようにピアノの鍵盤をポツポツと叩きながら詩を書いていた。その姿を見るたびに、彼女の集中力と創造性に感心せずにはいられなかった。
「何を書いてるの?」僕が部屋のドアを開けて尋ねると、彼女は微笑みながら答えた。
「まだ秘密。でも、きっと出来上がったら、あなたにも聞いてもらうから」
「そっか、それなら楽しみにしてる」僕は軽く肩をすくめて、そっと部屋を出た。彼女が何かを作り上げていく瞬間に立ち会うのは、いつも特別な気分にさせられる。
一方で、僕は春に出版予定の原稿に向けて、毎日書き続けていた。机に向かう時間が長くなりがちだったけれど、週に一度の彼女のボイストレーニングの日だけは、僕たちの「外出の日」と決めていた。
その日、僕たちは二人で京急電車に乗り、横浜へ向かう。彼女がレッスンを受けている間、僕はカフェで原稿を書いたり、本屋で時間を潰したりしていた。そしてレッスンが終わると、待ち合わせをして一緒に買い物に行く。時にはランチだけで帰る日もあれば、気分が乗った日はディナーを楽しんで帰ることもあった。
「今日はどこで食べようか?」駅を歩きながら彼女が尋ねる。
「うーん……久しぶりにあの中華料理屋なんてどう? 前に行ったとき、結構美味しかったし」僕が提案すると、彼女は少し考えてから頷いた。
「いいね、あそこ雰囲気も良かったし、また行ってみよう」
彼女と一緒に過ごしていると、いつも時間がゆっくりと流れていくような気がする。どんなに賑やかな場所にいても、彼女といると、穏やかで居心地の良い空間が自然と作られるのだ。
家に帰ると、彼女がまた読書を始めたり、僕が原稿に向かったりする日常に戻る。それでも、彼女はどんな小さなことでも思ったことや感じたことを、いつも僕に話してくれる。
「このキャラクター、すごく共感できるのよね」彼女が読んでいる本について話し始める。
「どんなところが?」僕は聞き返す。
「周りに流されないで、自分の考えを持って生きてるところ。私、そういう人がすごく好きなの」
僕は彼女の言葉を聞きながら、静かに相槌を打つ。彼女の考え方や価値観はいつも一貫していて、まったくブレない。だからこそ、その話を聞いているだけでも心が安らぐのだ。
「あなたって、本当に私の話をよく聞いてくれるよね」ある日、彼女がふと笑いながら言った。
「だって、君の話って面白いんだもん」僕は肩をすくめて答えた。「それに、たまに僕の意見を挟むときも、ちゃんと聞いてくれるだろ?」
「もちろん」彼女は真剣な表情で頷いた。「あなたが言うことって、いつも的確だし、私にとってすごく大事な意見だから」
彼女と過ごす日々は、特別な出来事がなくても、それだけで十分幸せだった。彼女の隣にいるだけで、自分がどこか守られているような感覚になる。それは、彼女の揺るがない考え方や、言葉の温かさから来るものだったのだろう。
春の訪れが近づくにつれ、僕の原稿も少しずつ形になり始め、彼女の創作活動も新たな段階に進んでいく。そんな日々の中で、僕たちは穏やかで心地よい時間を共に過ごしていた。
3月に入ると、まだ寒い日もあるけれど、庭に漂う空気の中に少しずつ春の訪れを感じるようになった。冬の間じっと土の中に隠れていたチューリップが、小さな芽をつけ地表に顔を出している。日差しも少しずつ柔らかくなり、庭全体が新しい季節を迎える準備をしているようだった。
僕の原稿も、いよいよ最終段階に差し掛かっていた。今回は、彼女に一度読んでもらおうと思っていた。彼女の感想や意見はいつも的確で、僕が気づかなかった視点を教えてくれるからだ。
「原稿、もうすぐ完成するんだ」夜、リビングで一緒に紅茶を飲んでいるときに僕が言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「読ませてもらえるの? 楽しみ!」彼女はカップを手に取りながら言った。「今回の旅もすごく印象深かったから、どんな風に物語にしてるのか気になるな。」
「でもさ……」僕は少し躊躇いながら続けた。「君があの時どんな気持ちだったのか、ちゃんと書けてるか自信がないんだよね。僕が感じたことと君の感じたことって、同じだったのかな、それとも全然違うのかなって思ってさ。」
彼女は少し考えた後、優しく微笑んだ。「同じ景色を見てても、感じ方が違うことってよくあるよね。でも、それが面白いんじゃない? あなたがどう感じたのかも知りたいし、私がどう感じたのかも話すのが楽しいと思う。」
「そうだよな。」僕は頷きながら言った。「君の意見を聞くのが楽しみだよ。きっと、僕が見落としてた何かを教えてくれる気がする」
日々が過ぎ、桜がポツポツと咲き始めると、庭が一気に春めいてきた。近くの小道を歩けば、まだつぼみが多い桜の木々の間から、可憐な花びらが顔を覗かせている。
「桜が咲き始めると、なんだかワクワクするよね。」庭を眺めていた彼女が言った。
「そうだね。これからが一番いい季節だ」僕はその横顔を見つめながら答えた。「畑仕事も釣りも、楽しみがいっぱい待ってるしね」
「今年の畑、何を植えようか?」彼女は目を輝かせながら尋ねた。「夏野菜はもちろんだけど、ちょっとハーブも増やしてみようかな」
「それ、いいね。ハーブなら釣った魚の料理にも使えるし」僕は笑いながら答えた。「君がハーブを育てて、僕が魚を釣る。完璧じゃない?」
「うん、そうしよう!」彼女は嬉しそうに頷いた。
春は、何かを始めるのにぴったりな季節だ。僕たちの庭も、畑も、そして僕たち自身も、新しい楽しみを迎える準備が整ってきた。僕の原稿が完成し、彼女がそれを読んでくれる頃には、きっと春の風が庭に満ち、桜が満開になっているだろう。そして、その先には、また新しい物語が待っている気がしてならなかった。
4月の初め、僕の原稿がようやく仕上がった。彼女に一通り読んでもらい、感想を聞きながら修正を加えたことで、作品は一段と完成度が高まった気がする。
「ここ、すごく情景が浮かぶ描写だよ」彼女が原稿を指差して言った。「でも、この場面ではもう少し感情が伝わると、もっと読者に響くんじゃないかな?」
「なるほど……確かにそうだね」僕は彼女の言葉に頷きながらメモを取った。「君の視点っていつも新鮮で助かるよ」
「だって、私もこの旅の一部だったからね」彼女は微笑みながら続けた。「あなたがどう描くか楽しみにしてたの」
彼女とのやり取りを経て、原稿は完成形に近づき、それを編集者の担当者に渡した。数日後、担当から連絡が来た。
「素晴らしい内容ですね!」電話の向こうの編集者の声は明るかった。「最終原稿に少しだけ調整を加えて、これで完璧だと思います。それと……またサイン会を企画する予定なので、よろしくお願いしますね」
「またサイン会か……今回はどれくらいの人が来てくれるんだろう?」僕は苦笑しながら電話を切った。
書店での発売はゴールデンウィーク明けを予定していたが、編集部はゴールデンウィーク前の売り出しを目指して準備を進めていた。その頃、庭のチューリップが鮮やかに咲き誇り、僕たちの暮らしにも春が訪れていた。
彼女もまた、この春に新しい一歩を踏み出していた。新曲「春の出会い」が完成し、スタジオでの録音と、動画クリエイターへの制作依頼を経て、YouTubeにアップロードされた。
「今回はいつもより軽快な曲にしてみたんだ」彼女が僕に言った。「春って、出会いの季節だからね。新しい何かが始まる感じを出したくて」
僕は彼女の歌を聞きながら頷いた。「確かに、このリズムはつい口ずさみたくなるね。君にしては珍しい感じだけど、すごくいいよ」
アップロードと同時に再生回数はすごい勢いで伸びていき、コメント欄には「春らしくて素敵な歌」「何度もリピートしてます!」という声が溢れていた。彼女にはすっかり固定ファンがついているようだった。
「こんなにたくさんの人が聞いてくれるなんて、ちょっと信じられないよ」彼女は再生回数を見ながら驚いた顔をしていた。
「君の歌には、それだけの力があるってことだよ」僕は微笑みながら言った。「この曲は特に、春の空気感がぴったりだしね。」
一方、庭では冬の間にしっかりと進められた土壌改良のおかげで、土がふかふかと仕上がっていた。これから植える夏野菜の苗たちが、きっと元気に育ってくれるだろう。
「土がしっかりしてると、野菜の味も変わるんだって」彼女がスコップで土を掘り返しながら言った。
「へえ、君は本当に何でも詳しいよね」僕は感心しながら隣で手伝った。「今年はどんな野菜を植えるんだ?」
「トマト、ナス、キュウリ……あとピーマンとズッキーニかな。それから、ハーブも少し増やしてみようと思ってるの」彼女は手を止めて考え込むように言った。「でも、一番楽しみなのはトマトかな。今年は甘い品種に挑戦してみたいんだ」
「それは楽しみだな。」僕は笑いながら答えた。「釣りで魚を釣ったら、君の野菜と一緒に料理して……完璧な食卓ができるよ。」
「うん、それが私たちの理想の生活だよね」彼女は満足げに頷いた。
春の空気に包まれた庭で、彼女と過ごす時間はゆっくりと流れていく。僕の新しい本が間もなく世に出る喜び、彼女の歌が多くの人に届く幸せ、そしてこれから始まる畑仕事や釣りの楽しみ——この春もまた、僕たちにとって特別な季節になりそうだった。
春の夜、チューリップが咲き誇る庭を眺めながら、僕たちはリビングで夕食を楽しんでいた。食卓には、彼女が作った野菜たっぷりの料理が並んでいて、どれも美味しそうに輝いていた。
「ねえ、そろそろ次の夢を教えてよ」僕はフォークを手にしながら彼女に尋ねた。「君がずっと話してくれないと、また勝手にプロポーズしちゃうかもしれないよ?」
彼女はその言葉に思わず吹き出し、ケラケラ笑いながら言った。「また? それ、4回目のプロポーズじゃないの?」
「ははは、バレちゃったか。」僕も笑いながら肩をすくめた。「でも本気だよ。次はどんな夢を一緒に叶えたいの?」
彼女はしばらく笑い続けた後、真剣な表情に戻りながら言った。「じゃあ……聞いてくれる?」
僕は頷きながらフォークを置き、身を乗り出して彼女の話を待った。
「実はね、野菜ソムリエの資格を取りたいと思ってるの。通信講座で勉強して、野菜のことをもっと詳しく知りたいんだ。それで、もっともっと美味しい食事をあなたに作ってあげたいの。」彼女の目は輝いていた。
「それは素敵だね!」僕は驚きながらも感心して言った。「でも、それだけじゃないよね? もっと他にやりたいことがあるんでしょ?」
「うん……」彼女は少し照れくさそうに笑って続けた。「それに加えて、料理教室にも通いたいなと思ってるの。野菜の知識を増やしたら、それを活かしてもっと美味しい料理を作りたいから。」
僕はしばらく考えた後、提案した。「それならさ、料理教室には僕も一緒に行ってもいい?」
彼女は驚いたように目を見開き、次に嬉しそうに頷いた。「もちろん! 一緒に行ってくれたら、もっと楽しくなるよ!」
「じゃあ、君が作った野菜と料理を、僕が毎日ブログに書こうか。」僕は少し前のめりになりながら言った。「テーブルコーディネートも工夫して、写真映えするように料理を並べてさ、ちょっとオシャレな感じに」
彼女はその提案を聞いて大きく頷いた。「それ、いいね! 私が料理を頑張るから、ブログはあなたに任せるね!」
「じゃあ決まりだね」僕は笑いながら彼女に言った。「通信講座と料理教室、早速申し込む?」
「もう準備してあるよ!」彼女は得意げに笑いながら、スマホを見せてきた。「これ、講座の申し込みページ。料理教室も候補をいくつか見つけてあるの。」
「さすがだね、君の行動力には本当に驚かされるよ」僕は笑いながら言った。
彼女は「イエーイ!」と両手を高く上げてポーズを決め、笑顔でその場を盛り上げた。その無邪気な姿を見ていると、僕は心の底から幸せを感じた。
これから始まる新しい挑戦——野菜ソムリエの資格と料理教室。それを彼女と一緒に楽しみながら、僕たちの暮らしがまた一つ豊かになっていく予感がしていた。そして、彼女の作る料理が毎日の楽しみになるだけでなく、それをブログで発信することで、また新しい物語が生まれていくのだろう。
「君が夢を持つたびに、僕の世界も広がるよ」僕はしみじみとそう言った。
彼女は少し照れたように笑いながら、「じゃあ、その広がった世界を一緒に楽しもうね」と答えた。
春から夏にかけて、僕たちの毎日は、何気なくも豊かで幸せに満ちていた。
朝早く、僕は釣り竿を手に家を出る。近所の防波堤や磯、時には船釣りに挑戦して、その日のおかずを釣り上げるのが僕の日課だった。釣りが好きな彼女も、休みの日には一緒に来てくれることが増えた。
「今日はどんな魚が釣れるかな?」防波堤で海を見つめながら彼女が言う。
「君が一緒にいる日は、なぜか大物が釣れる気がするんだよね」僕は冗談めかして笑う。
「ふふ、私が幸運を呼び寄せてるってことかな?」彼女も笑いながら糸を垂れた。
その頃、庭の野菜もぐんぐん成長していた。トマトは真っ赤に熟し、キュウリは青々と育ち、ナスやピーマンも立派な実をつけていた。彼女は毎朝、水やりと雑草取りを欠かさなかった。
「このトマト、もう食べごろじゃない?」彼女が嬉しそうに真っ赤なトマトを摘み取る。
「採れたては格別だね。今日はこれを使って何を作る?」僕はトマトを手にしながら聞いた。
「やっぱり冷製パスタかな。あと、あなたが釣ってきた魚でカルパッチョもいいかも。」彼女はすぐに料理のアイデアを思いついた。
午後になると、彼女は野菜ソムリエの通信講座の勉強に取りかかる。届いたばかりのテキストを広げ、真剣な表情でノートを取っている姿を見ると、彼女の集中力に感心するばかりだった。
「マーケットもチェックしながら、よくそんなに集中できるよね。」僕が感心して言うと、彼女は笑いながら答えた。
「慣れよ、慣れ。あなたも本を書くときは同じくらい集中してるじゃない」
そう言われて、僕も納得する。僕自身も、旅行体験記から一歩踏み出し、本格的な小説を書こうと図書館で本を借りて読み漁っていた。静かな書斎で机に向かい、頭の中に浮かぶ物語を文字にする作業は、思った以上に充実していた。
週に一度の料理教室も、僕たちにとって楽しみな時間だった。大手のスタジオではなく、個人で薬膳料理のブログを運営しながら教室を開いている先生のもとで、2人で新しい料理の技術を学んでいた。
「このスパイスの使い方、すごく独特だね」僕が先生に聞くと、先生はにっこり笑って答えた。
「薬膳では、体調や季節に合わせた食材やスパイスを選ぶのが大切なのよ。料理は美味しいだけじゃなく、体を整える力もあるの」
「君の料理はますます進化しそうだな」僕は彼女を見て笑った。
「あなたも一緒に進化してよね」彼女は茶目っ気たっぷりに答えた。
そんな日々の中で、僕たちはすっかり料理に夢中になっていた。美味しいものを食べるために、時には外食に出かけ、そこで感動した料理を家で再現するために試行錯誤する。彼女の作った料理と僕が撮った写真をブログにアップすると、アクセス数と「いいね」がどんどん増えていった。
「これ、すごいね。コメントもたくさん来てる。」彼女が嬉しそうにブログの画面を見せてくれる。「やっぱり君の料理が人を惹きつけるんだよ」僕は微笑みながら答えた。「でも、次はもっと映える写真を撮ろうか。テーブルコーディネートを工夫してみるよ」
夏が本格化すると、毎日の食卓には新鮮な夏野菜と僕が釣ってきた魚が並ぶようになった。採れたてのトマトで作るサラダ、焼きナス、ピーマンの肉詰め……どれも季節の恵みそのものだった。
「これ、すごく美味しい!」彼女が口いっぱいに頬張りながら言う。
「それは君が育てた野菜のおかげだよ」僕は笑いながら答えた。
夏野菜が終わると、僕たちは次の季節に向けて秋野菜の準備を始めた。庭に植える苗を選びながら、次はどんな料理を作ろうかと話し合う時間は、いつも以上に楽しかった。
「秋はやっぱりカボチャかな」彼女が言う。
「いいね。君の作るカボチャスープ、絶対美味しいだろうな」僕はその言葉を想像しながら答えた。
こうして、僕たちの穏やかな日々は淡々と流れていくけれど、その中にはたくさんの幸せが詰まっていた。食べること、作ること、学ぶこと、そして一緒に過ごす時間。それが、僕たちの理想の暮らしだった。
秋の深まりを感じる10月、彼女はいよいよ野菜ソムリエ・プロ検定の一次試験を受ける時期を迎えていた。朝食のテーブルに向かいながら、彼女はタブレットを開き、最後の確認をしていた。
「課題のベジフルカルテと栽培ノート、提出したんだよね?」僕が尋ねると、彼女はコーヒーを飲みながら頷いた。
「うん、メールで全部送ったよ。それにしても、栽培ノートって思った以上に細かく書かなきゃいけなくて大変だった」彼女は少し苦笑いしながら言った。
「君なら大丈夫だよ。野菜のこと、僕なんかよりずっと詳しいし、君のノートなんてきっと完璧だろう」僕は笑いながら励ました。
「ありがとう。でも、一次試験のweb試験って、範囲が広いし結構難しいみたいだから、油断できないの」彼女の表情は真剣そのものだった。
その日、彼女は試験を受けるため、静かな部屋にこもった。僕は庭で落ち葉を掃きながら、彼女が無事に試験を乗り切れるよう祈っていた。数時間後、部屋から出てきた彼女は、少し疲れた様子だったが、どこか晴れやかな顔をしていた。
「どうだった?」僕が尋ねると、彼女は大きく息をついて言った。
「うーん、結構難しかったけど……多分、合格してると思う」
「そっか、それならよかった」僕は安心して微笑んだ。「さすがだね。きっと君なら大丈夫だよ」
数日後、彼女のもとに一次試験合格の通知が届いた。メールを開いた彼女の顔がパッと明るくなり、「やった!」と小さくガッツポーズをした。
「ほら、やっぱり合格してたじゃないか。」僕は彼女の肩を軽く叩いた。「おめでとう! さすがだね」
「ありがとう。でも、次は二次試験だから、まだ気を抜けないの」彼女は笑顔を見せながらも、次の目標に向けて気持ちを切り替えていた。
11月になると、二次試験の面接が控えていた。試験はZoomで行われるため、彼女は前日から自分の発言内容を考え、何度も練習していた。
「どんな質問が来るかわからないけど、自分の野菜への思いを素直に伝えればいいんじゃないかな」僕は横で彼女の練習を聞きながらアドバイスした。
「そうだね。でも、やっぱり緊張するよ」彼女は少し笑いながら肩をすくめた。
試験当日、彼女はZoomのカメラの前で真剣な表情で面接官の質問に答えていた。その様子を見ながら、僕は改めて彼女の努力と情熱に感心していた。
「私が野菜ソムリエを目指したのは、単に資格を取るためではありません。野菜を通じて、健康で豊かな暮らしを多くの人に伝えたいからです。」画面越しに話す彼女の言葉は、自信に満ちていた。
そして数日後、彼女のもとに二次試験の結果が届いた。封を開ける彼女の手が少し震えているように見えたが、その表情はすぐに笑顔に変わった。
「合格した!」彼女はその場で飛び跳ねるように喜んだ。
「やっぱり君はすごいよ」僕は拍手をしながら言った。「自分の夢を次々と叶えていくなんて、僕には到底真似できない」
「そんなことないよ。」彼女は少し照れながら言った。「あなたがいつも応援してくれるから、ここまで頑張れるんだよ」
彼女はこうして、一般社団法人日本野菜ソムリエ協会が運営する「野菜ソムリエ・プロ」の資格を手に入れた。その姿を見て、僕は改めて彼女のすごさを実感した。目標を掲げ、それに向かって着実に歩み続ける姿は、本当に尊敬できるものだった。
「次の夢はなんだろう?」僕が聞くと、彼女は笑いながら言った。「それはまた今度のお楽しみ。でも、今はこの資格を活かして、もっと美味しい料理を作ってあげるね」
僕は彼女のその言葉に微笑みながら答えた。「それは最高だね。君の夢を叶える旅は、いつだって僕の楽しみでもあるよ」
12月も終わりが近づき、幸せだった1年を振り返りながら、僕たちは少しずつ新年の準備を進めていた。今年は彼女が「おせち料理を手作りしたい」と言い出し、彼女の熱心さに引っ張られる形で、僕も大掃除を早めに済ませた。
29日から彼女は台所に立ちっぱなしで、一つ一つのおせち料理を丁寧に作っていた。紅白蒲鉾や伊達巻、栗きんとん、黒豆……。2人分とはいえ、その細やかな仕上がりは見事なものだった。
「本当に全部自分で作るなんてすごいよ」僕が鍋を覗き込みながら言うと、彼女は少し照れたように笑った。
「だって、おせちって手作りの方が気持ちがこもるでしょ? 今年はちょっと頑張ってみたかったの」
31日の午前中、おせち料理はついに完成した。料理が詰められた重箱は華やかで美しく、一品一品から彼女の気持ちが伝わってくるようだった。
昼食には僕が得意なパスタとサラダを作った。少し肩の力を抜いて2人でテーブルを囲み、新年を迎える前の静かな時間を楽しんだ。
でも、彼女がどこかそわそわしているのが気になった。箸を持つ手が少し落ち着かないようで、何かを待っているような表情だ。
「どうしたの?」僕が尋ねると、彼女は微笑んで首を振った。
「ううん、何でもないよ。おせちがちゃんとできてよかったなって思ってただけ。」
彼女の言葉を特深く考えず、食事を続けていたその時、13時を少し過ぎた頃、玄関のチャイムが鳴った。
「誰だろう?」僕は立ち上がり、ドアへと向かった。そしてドアを開けた瞬間、そこには思いもよらない人物が立っていた。
「……母さん?」
僕の母がそこにいた。僕はしばらく驚いて言葉を失っていたが、母の隣でにこやかに立つ彼女を見て、すぐに状況を察した。
「サプライズ、成功かな?」彼女がいたずらっぽく笑って言った。
「母さんを……呼んでくれてたんだね」僕は驚きと感謝が入り混じった気持ちで彼女を見た。
「そうだよ」彼女は頷きながら続けた。「おせちを頑張ったのは、あなたとお母さんに食べてもらいたかったから」
母は少し照れくさそうに笑いながら言った。「まさか、こんな風に誘ってもらえるなんて思ってなかったわ。ありがとう、本当に嬉しいわ」
僕は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。結婚前に彼女に話していた家族のことを思い出した。父が亡くなった後、母が再婚し、僕たちは少し疎遠になってしまったこと。再婚相手の男性が昨年亡くなり、母が一人でいる時間が増えていたこと——彼女はそれを覚えていて、母を気遣ってくれていたのだ。
「お正月をお母さん一人で過ごすのは寂しいかなと思って……。それに、せっかくおせちを作るなら、一緒に食べてほしかったの」彼女はそう言いながら母の手を優しく取った。
「ありがとう……」僕は彼女に心からの感謝を込めて言った。
母と彼女がリビングで向かい合って話し始めると、すぐにその場が賑やかになった。彼女は、僕の子供時代の話を母から聞きたいらしく、いろいろと質問を投げかけていた。
「小さい頃の彼、どんな子だったんですか?」彼女が興味津々の顔で尋ねる。
母はその質問を嬉しそうに受け取り、目を輝かせながら答えた。「そうねえ、小さい頃はとっても元気で、いつも外で遊んでばかりだったわ。おまけに頑固でね、一度決めたことは絶対曲げない子だったの。」
「へえ、それって今も変わらないかも」彼女が僕をちらっと見ながら笑う。
「そうそう、それにね——」母の話はどんどん続き、僕の小学校時代や、いたずらの数々、そして家族で出かけた思い出まで飛び出してきた。
僕はそれを聞きながら、心底罰が悪かった。「母さん、そこまで言わなくてもいいんじゃない?」と割り込もうとしたが、二人とも全く気にせず話を続ける。
でも、そんな二人が楽しそうに話しているのを見ていると、なんだか悪くない気がしてきた。母がこんなに嬉しそうに話すのは久しぶりで、彼女がその話に興味を持ってくれるのも、なんだか微笑ましかった。
夕方になり、3人で食べる夕食には鍋を用意した。温かい湯気が立ち上る中、母も彼女も笑顔で箸を進め、何でもない話をしながら和やかな時間が流れていく。
「お鍋ってやっぱりいいわね。こうしてみんなで囲むのが一番よ」母が箸を置きながら言った。
「私もそう思います」彼女が笑顔で応えた。「お鍋って、みんなで食べるから美味しいんですよね」
食べ終わり、片付けを済ませた後、彼女が突然言った。「3人で麻雀をしましょう!」
「麻雀?」僕は驚いて彼女を見た。「うちに麻雀牌なんてあったっけ?」
彼女はにっこり笑って頷いた。「大丈夫、準備しておいたから」
「準備……って、どういうこと?」僕が聞くと、彼女は得意げに続けた。
「あなたが子供の頃、家族で麻雀をしていたって話をお母さんから聞いてたの。それで、久しぶりに一緒にやったら喜ぶかなと思って、ネットでセットを買っておいたの」
母はその言葉に目を丸くし、そしてうっすら涙を浮かべながら言った。「まさか……息子のお嫁さんと麻雀をする日が来るなんて……何年ぶりかしら」
彼女の気遣いに、僕も改めて感心した。「本当に君は、人を喜ばせるのが上手だよ」僕は心からそう思った。
母は、父が亡くなってからの寂しさ、僕との疎遠な時間、そして再婚相手との死別という孤独を抱えていた。それが、今夜の笑顔で少しでも埋められたのだと思う。
「ところで、君が麻雀できるなんて知らなかったよ」僕が彼女に尋ねると、彼女は少し得意げに笑った。
「実は、全然初心者なの。だから勉強したのよ。麻雀ゲームを時々ネットでやって練習してたんだから」
「さすがだな……」僕は彼女の行動力に再び感心した。
その晩、僕たちは3人で遅くまで麻雀を楽しんだ。母の指導もありながら、彼女は思った以上に上手くて、時には僕や母を驚かせるような手をあがることもあった。
「お見事!」母が拍手をしながら言った。「本当に初めてなの?」
「初めてでも、教えてもらえたから楽しいです!」彼女は嬉しそうに答えた。
日付が変わる頃、彼女がキッチンに立ち、年越しそばを作ってくれた。湯気の上がるそばを囲みながら、僕たちは静かに年の終わりを感じていた。
「来年も、こんな穏やかで楽しい年になるといいな」母がしみじみと言った。
「そうですね」彼女は頷きながら答えた。
その後、母にお風呂を使ってもらい、布団を用意して寝てもらった。そして僕たちもお風呂に入り、心地よい疲れを感じながら布団に入った。
「今日は最高の年末だったよ」僕が布団の中で彼女に言うと、彼女は少し照れながら笑った。
「お母さんの笑顔が見れて本当に嬉しかった」彼女はそう言って目を閉じた。
新しい年を迎えるその夜、僕たちの家には心からの笑顔が溢れていた。
新年の朝、まだ薄暗い空が少しずつ明るくなり始めた頃、僕が目を覚ますと、彼女はすでに起きていて、キッチンで何かをしていた。音を立てないように慎重に布団から出て、リビングに向かうと、彼女が着物を着て、静かにハマグリのお吸い物を作っていた。
「おはよう」僕が声をかけると、彼女は振り返り、にっこりと微笑んだ。
「おはよう。ちょうどいいところに起きてきたわね」彼女は僕に言った。「2階のスタジオにあなたの着物も置いてあるから、取ってきてくれる? あと、お母さんの着物を着せてあげてほしいの。」
僕はその言葉に驚きながらも頷いた。「え、僕の着物まで用意してくれてたの?」
「もちろんよ」彼女は少し得意げに微笑んだ。「今日のために準備してたの。お母さんにも事前に着物を送ってもらったのよ」
そのタイミングで母も起きてきた。彼女の姿を見て母は少し驚いた表情をしたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。
「まあ、素敵ね」母は自分の着物の入ったバッグを抱えながら言った。「私も着物、久しぶりに着るわ」
「お母さん、おはようございます」彼女が母に微笑みかけながら言った。「今日は3人で着物を着て初詣に行きましょうね」
母はその言葉を聞いてさらに目を輝かせた。「まあ、そんな特別な計画を考えてくれてたのね。ありがとう、本当に嬉しいわ」
僕は2階から着物を持ってきて、彼女に渡した。「本当にすごいね、君は。ここまで準備してたなんて」
彼女は僕を見つめながら少し恥ずかしそうに言った。「実はね、これが私の5番目の夢だったの。両親を亡くしてから、親子で初詣に行くことなんてなかったの。でも、お母さんが来てくれたから、3人でこうして着物を着て初詣に行けるなんて、本当に夢が叶ったみたい」
僕はその言葉を聞いて胸が熱くなった。「そっか……君の夢がまた叶ったんだね。今日は天気もいいし、最高の日になりそうだ」
彼女は嬉しそうに微笑み、「車だと渋滞すると思うから、電車で行こうと思ってるの。お母さん、大丈夫ですか?」と母に尋ねた。
「もちろん大丈夫よ」母は元気よく答えた。「いつも電車であちこち出かけてるから、何の問題もないわ」
その後、母がウキウキとした表情で僕に近づき、「息子に着物を着せるなんて、何年ぶりかしらね」と言いながら、慣れた手つきで僕に着物を着せ始めた。
「母さん、ちょっと恥ずかしいから手早くお願いね」僕は照れ隠しに苦笑しながら言った。
「何言ってるの、こういう機会はめったにないんだから楽しませてちょうだい」母は楽しそうに笑った。
着物を着終えた僕たちは3人揃って家を出た。駅までの道を歩きながら、普段とは違う着物の感覚に少し戸惑いながらも、その特別な雰囲気を心から楽しんでいた。
電車の中では、母と彼女がまた話に花を咲かせていた。母は「息子がこんなに立派になったのも、あなたのおかげね」と彼女に感謝を述べ、彼女は「いいえ、お母さんが彼を育ててくださったからですよ」と微笑み返した。そのやり取りを隣で聞きながら、僕は心が満たされるような気持ちになった。
鎌倉に着くと、駅前はすでに初詣に訪れる人々で賑わっていた。着物を着た僕たち3人は、その中でもどこか特別な存在に感じられた。
「こんな風に家族で初詣に来られるなんて、本当に幸せだわ」母がそう言うと、彼女は優しく頷いた。
「お母さんが来てくださったおかげです。ありがとうございます」
鎌倉の静かで荘厳な空気の中、僕たちはゆっくりとお参りをし、3人で笑顔でおみくじを引いた。その日、彼女の夢だけでなく、僕にとっても母にとっても、忘れられない新年の始まりとなった。
鎌倉での初詣を終え、帰りの電車では穏やかな陽だまりのような空気が僕たち3人を包んでいた。着物を着て人混みを歩き回った疲れもあるはずなのに、母はとても元気そうだった。
「本当に楽しかったわ。」母がぽつりと漏らした。「息子と、こんな風にお正月を過ごせるなんて思ってなかったから……本当にありがとうね」
その言葉に彼女は微笑み、「こちらこそ、一緒に過ごしてくださってありがとうございます」と優しく返した。
家に着くと、まず母がお風呂に入り、次に僕、そして最後に彼女が入った。人混みの中で過ごした疲れを流しながらも、母はどこか上機嫌だった。風呂上がりには赤ら顔で「すっきりしたわ」と満足げな笑顔を見せた。
その後、食卓に再びおせち料理を並べて、3人で晩酌をしながら食事を楽しんだ。彼女が用意してくれたおせちは、昼間と同じように一つ一つが丁寧に作られていて、味わい深かった。母はまたその美味しさに感激していた。
そして食事が終わり、片付けを済ませると、彼女がふと思いついたように言った。「お母さん、疲れてなかったら、麻雀しませんか?」
「麻雀?」母は驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔を見せた。「もちろん! 疲れてないわよ。また麻雀できるなんて嬉しいわ。」
彼女は少し照れくさそうに笑いながら続けた。「昨日やったら、すっかり麻雀にはまっちゃいました。私、運試しに元旦の夜も麻雀したいなって思って」
母は大笑いしながら「それはいいわね!」と言い、僕たちは3人で再び卓を囲んだ。
「元旦早々、運試しってわけだね」僕は笑いながら言った。「でも今日は君のビギナーズラックが通用するかどうかは分からないよ」
「ふふ、それでも楽しいからいいの」彼女はケラケラと笑いながら牌を並べ始めた。
結果的に、この夜は母がトップになった。久しぶりの麻雀だったというのに、母は絶妙な手をあがり続け、僕たちはすっかり圧倒されていた。
「楽しかったわ!」母は満足げに言った。「こんなに楽しい正月を過ごしたのは初めてよ。おせちも作らずに、上げ膳据え膳で本当にありがとう」
母は上機嫌のまま布団に入り、静かに眠りについた。その姿を見て、僕は心の底から嬉しくなった。きっと母にとっても、このお正月は特別な時間になったのだろう。
その後、彼女と2人でワインを開け、リビングのソファで静かに語り合った。部屋には穏やかな空気が流れ、彼女の顔は少し赤く染まっていた。
「本当にありがとう。」僕はグラスを傾けながら言った。「母さんの笑顔を見るのも久しぶりだったし、君がこうして夢を叶えるたびに、僕も幸せになってるよ」
彼女はグラスを持ちながら微笑み、「これは私の夢だから」と静かに答えた。
「夢だったんだね、今日のことも」僕がそう言うと、彼女は軽く頷いた。
「うん、家族で初詣に行くこと。お母さんと着物を着て、おせちを食べて、そしてみんなで笑い合うお正月。私にはなかったものだけど、あなたのお母さんが来てくれて、私の夢を一緒に叶えてくれたの」
「君って、本当にすごいよ」僕は改めてそう言った。「人を笑顔にする力がある。母さんの笑顔を見てたら、それを強く感じたよ」
彼女は照れくさそうに笑いながら、「そんなことないよ。私はただ、自分がしたいことをしてるだけだから」と答えた。
その夜、ワインを飲み終える頃には、僕たちは次の年のことを少し話し始めていた。新しい夢の話、そして家族でまた集まる日について——静かな元旦の夜は、温かい気持ちで満ちていた。
新年2日目の朝、僕たちは再びおせち料理を囲んで朝食をとった。重箱の中には、まだまだ手作りの美味しい料理が並んでいて、母は最後まで感激した様子だった。
「本当に素晴らしいおせちね。こんなに丁寧に作られたものを食べられるなんて、幸せだわ」母がそう言うと、彼女は少し照れくさそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。お母さんに喜んでもらえて、本当に嬉しいです。」彼女のその言葉に、母はまたにっこりと微笑んだ。
やがて母の帰る時間が近づき、僕たちは玄関で準備を始めた。彼女が母の着物を丁寧に畳みながら言った。
「着物は郵送しますね。帰りは軽くしてあげたほうがいいと思って」
「ありがとう、助かるわ」母は感謝の気持ちを込めて言った。「本当に、こんな素敵なお正月をありがとう」
そして、僕のほうを向いて一言。「良かったわね、幸せだね。素敵な奥さんを見つけて、あなた、本当に幸せよ。ちゃんと感謝しなさいよ」
「うん……わかってるよ」僕は照れながら頷いた。
その後、僕は駅まで母を見送りに行くことになった。着物姿の彼女は玄関先で軽く手を振りながら、「行ってらっしゃい。気をつけてね」と言って見送り、僕たちは二人で歩き出した。
駅までの道中、母と二人きりで歩くのは、久しぶりのことだった。寒い冬の空気の中、歩きながらいろんな話をした。
「お父さんが亡くなった後、あなたと疎遠になったこと、ずっと気になってたのよね」母がぽつりと呟いた。
「そうだったんだね……」僕は少し申し訳なさそうに答えた。「でも、僕も母さんが再婚して幸せそうだったから、それを邪魔しちゃいけないって思ってたんだ。」
「邪魔なんて思ったことないわよ」母は笑いながら続けた。「でも、こうしてまた話せて、あなたが素敵な奥さんと一緒に幸せそうにしてるのを見て、本当に安心したの」
僕は歩きながら、昨日と今日の母の笑顔を思い出した。彼女が今回の正月の計画をしてくれなければ、この時間はなかったかもしれない。
「母さん、彼女がいろいろ考えてくれて、今回の正月を計画してくれたんだよ」僕が言うと、母は頷いた。
「わかるわよ。彼女は本当に優しくて、気が利いてて、あなたにぴったりね」母は少し笑いながら言った。「それに、彼女のおかげで、私も久しぶりに家族の温かさを感じられたの」
その言葉を聞いて、僕は胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
駅に着くと、電車が来るまでの短い時間、母は僕に向き直って言った。「これからも彼女と仲良くね。大切にするのよ」
「もちろんさ。母さんにも、もっと頻繁に会いに行くよ」僕は真剣に答えた。
電車がホームに滑り込んでくると、母は軽く手を振りながら電車に乗り込んだ。車内の窓から、少し目が潤んだような母の笑顔が見えた。
家に帰ると、彼女が玄関で待っていた。
「親子水入らずの時間、楽しめた?」彼女がにこやかに聞いた。
「ああ、ありがとう。君が気を利かせてくれたんだろう?」僕は彼女に感謝の気持ちを伝えた。
彼女は少し照れたように笑い、「やっぱり気づいた? たまには親子で話す時間が必要かなと思って」と答えた。
「本当に、君には感謝しかないよ」僕は彼女の手を取りながら言った。
その日、母との会話や、彼女の気遣いが胸に響き、改めて家族のありがたさを感じる一日になった。彼女と一緒に過ごす未来が、ますます楽しみになった。
正月2日のお昼、おせち料理を食べている最中に、彼女がふいに言った。「お昼を食べたら、初風呂に行こう」
「初風呂?」僕は少し驚きながら尋ねた。「どこに行くの?」
「横須賀温泉 湯楽の里よ。」彼女はにっこり微笑んで答えた。「絶景の天然温泉で、展望露天風呂から見る海がとっても素敵ってネットに書いてあったの」
温泉と聞いて僕の疲れが一気にほぐれるような気がした。「それはいいね。海を眺めながら温泉に浸かれるなんて最高じゃないか」
車で約30分走ると、湯楽の里に到着した。彼女の言う通り、露天風呂からは広がるオーシャンビューが一望できた。湯船に浸かりながら見上げる青空と、目の前の果てしない海——この開放感は何にも代えがたいものだった。
「これは本当に絶景だね」僕は感嘆の声を漏らした。「今年もいいことがありそうな気がするよ」
「でしょ?」彼女は笑顔で答えた。「新しい年をこんな素敵な場所で迎えられるなんて、いいスタートだよね」
温泉で体の芯まで温まり、リラックスした後、帰りにペリー公園に立ち寄った。そして、久里浜花の国で有名なゴジラの像を見学し、家に戻った。ゴジラの巨大な姿に、僕たちは思わず笑いながら写真を撮った。
「明日は家でゆっくりして、まったり過ごしましょうね。」彼女が言った。「でも、4日には初釣りに行くよ」その時の彼女の顔は、まるで何か企んでいるかのようなニヤリとした笑顔だった。
「初釣り?どこで?」僕が尋ねると、彼女は楽しそうに続けた。「松輪江奈漁港から船に乗って鯛釣りに行きましょう。船はもう予約してあるの。道具の用意だけお願いね。」
「正月早々、鯛釣りなんて素敵な企画だね」僕は思わず笑顔になった。「それに、釣った鯛をその日のうちに食べられるなんて最高だ」
彼女の提案に心が躍り、僕たちは釣り道具を早速準備した。3日は家でゆっくり過ごしながら、釣りへの期待を膨らませた。

4日、久しぶりの船釣りに向けて朝早く漁港に向かった。船は一隻貸切で、僕たち2人だけの釣り勝負だ。船長は言葉遣いも丁寧で、とても親切な人だった。
「正月早々坊主は悲しいから、あなた、しっかり頑張ってね」彼女がニヤリと笑いながら言った。
「どっちが大きい鯛を釣るか、勝負だな」僕も笑いながら答えた。
船長が選んだポイントは最高で、天気も穏やかで絶好の釣り日和だった。僕が最初に40cmの真鯛を釣り上げた。
「やったね、いいサイズじゃない!」彼女が拍手をしてくれる。
次に彼女が45cmの真鯛を釣り上げ、僕を軽く追い越した。「ふふ、まだまだ勝負はこれからよ。」彼女は嬉しそうに笑う。
釣りは順調そのもので、僕は8匹、彼女は7匹釣り上げたが、最後の最後に彼女が驚きの大物を釣り上げた。65cmの大きな真鯛だ。彼女の竿が激しくしなり、僕が手伝おうとすると、彼女は笑って「大丈夫、一人でやる!」と言いながら、見事に釣り上げた。
「すごい!君、本当にやるね」僕は感嘆しながら彼女を称えた。
「これが今年最初の大勝利ね」彼女は得意げに笑った。
釣れた鯛は冷蔵庫に入りきらなかったため、ご近所さんにお裾分けすることにした。「こんなにたくさん釣ったの!」と驚かれ、どの家もとても喜んでくれた。

その夜、僕が釣った40cmの鯛と、彼女が釣った65cmの鯛をさばいて、刺身にした。おせちの残りも一緒にテーブルに並べ、熱燗を用意して食卓を囲んだ。
「やっぱり新鮮な鯛は美味しいね」僕が刺身を一口食べながら言うと、彼女も頷いた。
「本当に美味しいね。今年もいいスタートだよね」彼女が笑顔で答えた。
風呂上がりに食べる鯛の刺身と熱燗は格別で、僕たちはその味を噛み締めながら、新年最初の釣りの成功を祝った。
「また次も一緒に釣りに行こうね」僕が言うと、彼女は笑いながら「もちろん。その時も勝負は負けないからね!」と答えた。
そんな穏やかで楽しい夜が、僕たちの新年をさらに特別なものにしてくれた。
1月は特に大きなイベントもなく、僕たちは穏やかな日々を過ごしていた。彼女は週に1回の料理教室とボイストレーニング以外の時間を、新しい楽曲作りに費やしていた。僕はその間、小説に集中し、書斎にこもることが増えた。
「こうやってお互いに好きなことをして過ごせるって、いいよね」彼女が夕食後に言った。「でも、2月からまたちょっと庭のことで忙しくなるよ?」
「庭?」僕は首を傾げた。
「そう。今年はイチゴを植えるの!」彼女は楽しそうに言った。「ホームセンターで苗を買ってきて、去年咲いたチューリップの球根と一緒に植えるのよ」
彼女のその提案に、僕もすぐに賛成した。「いいね、イチゴ。採れたらジャムにして、それで朝食をもっと楽しめるね」
「スムージーも作るよ。毎朝フレッシュなイチゴスムージーなんて最高じゃない?」彼女は笑顔で言った。
こうして、庭には新しい命が宿り始めた。2月の冷たい空気の中でも、彼女が一生懸命に苗を植え、水をやる姿を見ていると、春が待ち遠しくなった。
3月になると、少しずつ暖かい日が増えてきた。そして25日、桜の開花宣言が発表され、僕たちはお弁当を持って花見に出かけた。一番最初の花見は三浦海岸だった。三浦海岸駅から小松ヶ池公園までの1kmにわたる桜並木を歩きながら、河津桜と菜の花の景色を楽しんだ。
「やっぱり春っていいね」桜の下でお弁当を広げながら、彼女がそう言った。
「本当に。」僕は頷きながら、菜の花と桜のピンクと黄色が織りなす美しい景色を眺めた。「でも君、何か考えてるでしょ?」
「ふふ、バレた?」彼女はいたずらっぽく笑いながら続けた。「春休みとゴールデンウィークの間に、ディズニーランドとディズニーシーに行こうよ。」
「ディズニー?」僕は驚きながら尋ねた。「これって、君の6番目の夢?」
彼女は少し恥ずかしそうに頷いた。「そうなの。実は、今まで一度も行ったことがなくて……。好きな人と一緒に行くのが私の夢だったの」
「もちろん、付き合うよ」僕は即答した。「でも、君のことだから、もう計画ができてるんだろう?」
「うん、バッチリ」彼女は笑顔で答えた。
そして4月、彼女が育てたイチゴをすべて収穫してから、僕たちはついに夢の国へと出発した。4月15日からの1週間、僕たちはディズニーランドとディズニーシーを思う存分楽しんだ。
「スマホで効率よく回れるって本当なんだね」僕がアトラクションを次々にクリアしながら言うと、彼女は笑顔で頷いた。
「でしょ?ほとんどのアトラクションに乗れるように、ちゃんと計画しておいたの」彼女は得意げに言った。
「本当に君の準備力には脱帽だよ」僕は感謝の気持ちを込めて言った。
1週間の夢の国での冒険は、家に帰ってからも話題が尽きなかった。留守中にスプリンクラーで庭の水やりをしておいたおかげで、庭の植物たちも元気なままだった。
朝食は相変わらず彼女が和食を作り、僕はパンをこねて焼くのが日課になっていた。彼女が手作りしたジャムを焼きたてのパンに塗ると、その香りと味が朝の幸せを運んでくれる。
「このジャム、本当に美味しいね」僕が言うと、彼女は笑顔で答えた。
「イチゴを育てた甲斐があったよね。でも、パンを焼くのが上手なのはあなたよ」
そんな穏やかな朝が続いていたが、近所との交流も少しずつ広がっていった。正月の鯛のお裾分けをきっかけに、彼女は作った野菜を分けたりして、近所の人々との会話が増えた。
「この辺り、若い夫婦って私たちだけみたい」彼女が野菜を手にご近所さんと談笑した後、帰ってきて言った。「でも、みんな親切だし、野菜を喜んでくれるのが嬉しいね」
「確かに。お裾分けを通じて、僕たちも少しずつ馴染んできた気がするよ」僕は頷いた。
彼女が野菜や料理を通じて作る繋がりは、僕たちの暮らしにまた一つ温かさを加えてくれていた。そんな日々を送りながら、春の穏やかな風に包まれて、僕たちは新たな季節を楽しんでいた。
それから約一年が過ぎ、穏やかだった僕たちの生活に突然の波が訪れた。
ゴールデンウィーク前、僕は新しい小説の原稿を書くための取材で、とある街に1週間出かける予定を立てていた。いつもなら彼女が「一緒に行こう」と言ってくれるのに、今回は珍しく彼女が断った。
「野菜の世話が大変だから、今回は一人で行ってきて」彼女は笑顔でそう言ったが、その笑顔の裏にどこか影があるように見えた。
「本当に大丈夫?」僕が念を押すと、彼女は「大丈夫よ」と軽く笑った。
しかし、少し不安な気持ちを抱えながら、僕は出発した。現地では取材や資料集めに没頭したものの、どこか落ち着かない。普段なら、彼女がそばで手を貸してくれる光景が当たり前だったからだ。
取材を終え、ゴールデンウィーク明けに家に戻ると、玄関に入った瞬間、妙な違和感を覚えた。彼女がいない。荷物も、日常の気配も、すべてそのままなのに、彼女の存在だけがごっそりと抜け落ちていた。
僕は慌てて家の中を探したが、どこにも彼女の姿はない。台所、リビング、庭——どこも変わらないのに、彼女の温もりだけがない。
庭の野菜はスプリンクラーで水をやられており、しっかりと育っていた。彼女が「ゴールデンウィークに夏野菜の苗を買って植えようね」と言っていた言葉が頭をよぎる。その計画が、なぜ突然途切れたのか。
車で淡路島から四国を回りながら、僕は彼女がいなくなった理由をずっと考えていた。しかし、どう考えても思い当たる節がない。僕に何か問題があったのだろうか? それとも、僕が気づかなかっただけなのだろうか?
「原因が分からないことが、彼女がいなくなった原因なのかもしれない……」頭の中で堂々巡りを続けながら、迷宮に迷い込んでしまったような気分だった。
そんな中、自宅に戻った夜、不意に2階のスタジオからピアノの音が微かに聞こえてきた。
「……彼女?」驚きと焦りが入り混じった感情のまま、僕は急いで階段を駆け上がった。そして、スタジオの扉を開けると、そこには彼女が座っていた。
彼女はピアノに向かい、静かに鍵盤を叩いていた。柔らかな旋律が部屋に響いていて、まるで何事もなかったかのような空気だった。
「……戻ってきてたんだ」僕は息を整えながら言った。
彼女は振り返り、少し申し訳なさそうな表情を浮かべた。「ただいま」
「急に何も言わずにいなくなって……どこに行ってたんだ?」僕は落ち着こうと深呼吸をしながら尋ねた。
しかし彼女は僕の目を見つめながら言った。「今は言えないの。ごめんなさい。でも、言える時が来たら話すから、待ってて」
その言葉に、僕はそれ以上何も言えなかった。とにかく、彼女が戻ってきたことに安堵し、無理に聞き出すのをやめようと思った。
「じゃあ、逆に聞くけど、あなたはどこに行ってたの?」彼女が少し微笑みながら尋ねた。
僕は正直に答えた。「君が急にいなくなって、この家に一人でいると頭がおかしくなりそうだった。それで、車で淡路島や四国を回りながら、ずっと君のことを考えてたんだよ」
彼女はその言葉に目を潤ませ、ピアノを弾く手を止めて僕に抱きついた。そして耳元で小さく囁いた。「ずっと私のことを考えてくれてたんだね。ありがとう。心配かけて、ごめんなさい」
僕は彼女の温もりを感じながら、「無事でいてくれたなら、それでいい」と心の中で繰り返した。いつか彼女が話してくれるその日まで、気長に待とうと思った。
それから、不思議なことに彼女のスマートフォンはいつも通り使われており、何事もなかったかのように日常が続いていった。ただ、その日の彼女の抱擁は、どこか切なくて深いものに感じられた。
それからの日々は、まるで何事もなかったかのように淡々と流れていった。彼女は庭の野菜を世話し、料理教室に通い、ボイストレーニングを続ける。僕もまた、小説を書きながら、彼女の笑顔を見て安心する毎日を過ごしていた。
しかし、ひとつだけ以前と違うことがあった。それは、彼女が抱える「秘密」だった。
彼女は今まで、どんな小さなことでも僕に話してくれていた。感じたこと、考えたこと、嬉しかったことや悲しかったこと。そんな彼女が、今回だけは何も語らなかった。僕が彼女に尋ねても、彼女は笑顔で「今は言えないの」と答えるだけだった。
最初は不安に思った。彼女の心の中で、僕には届かない場所ができてしまったのではないか、と。でも、彼女の仕草や言葉に愛情が変わらず込められているのを感じると、それ以上問い詰める気持ちにはなれなかった。
夕食後、リビングのソファで二人で並んでワインを飲んでいると、ふと彼女が僕の方に寄りかかってきた。
「ねえ、どうしたの?」僕が尋ねると、彼女は静かに言った。
「なんでもないよ。ただ、こうしてると落ち着くの」彼女はそう言って、少し目を閉じた。
「君がいてくれるだけで、俺は十分幸せだよ」僕はそう言いながら、彼女の肩にそっと手を置いた。
「ありがとう」彼女は小さく微笑みながら呟いた。その笑顔の裏に何かを隠しているような気がしたが、僕はそれ以上言葉を紡がなかった。
女性が秘密を持つと墓場まで持っていく、という言葉が頭をよぎる。もしかしたら、この秘密は僕には一生分からないままになるのかもしれない。そう思うと、不安が胸をよぎることもあった。
けれど、彼女がそばにいる生活が何よりも大切だった。彼女の笑顔があり、彼女の声が響く家。その温かさが、僕の心を満たしていた。
ある日、庭で野菜の収穫を手伝っていると、彼女がふいに言った。「ねえ、今年のトマト、甘く育ってると思う?」
「君が育てたんだもの、絶対甘いさ」僕が笑いながら答えると、彼女は手にしたトマトを見つめながら微笑んだ。
「そうだといいな」彼女はそっと呟き、収穫かごにトマトを入れた。
彼女の横顔を見ていると、僕はふとこう思った。どんな秘密を彼女が抱えていようと、彼女がこうして僕のそばにいてくれるなら、それで十分なのではないか、と。
生活は穏やかで、どこか満たされている。けれど、彼女の秘密の存在が僕の中でほんの少しだけ影を落としていた。僕が知ることのないその秘密を、彼女が胸の奥で抱えながら生きていくのだとしても——僕は彼女のそばで生きていこう。そんな思いが、僕の中でゆっくりと確信に変わっていった。
彼女の秘密が明かされたのは、ある春の日だった。僕たちは夕食を終え、いつものようにリビングのソファでワインを飲みながらゆっくり過ごしていた。彼女がふとグラスを置き、静かに僕の方を向いた。
「ねえ、話したいことがあるの」その声は少し震えていた。
「どうしたの?」僕は心配しながら彼女を見た。彼女はしばらく視線を下げたまま沈黙したが、やがて深呼吸をして、意を決したように話し始めた。
「実はね……私、今、妊娠してるの」
その言葉に、僕は一瞬息が止まった。驚きと喜びが同時に胸を駆け巡り、何を言えばいいのかわからなくなった。彼女はそんな僕の表情を見ながら、さらに続けた。
「でも……その前に、話しておかなきゃいけないことがあるの」彼女の声は静かだったが、その奥には深い悲しみが隠れているのがわかった。
「去年、あなたが1週間取材に行ってたとき……覚えてる? あの時、私も妊娠してたの。」彼女の目が潤んでいるのが分かった。「でも、出生前診断の結果で、赤ちゃんがダウン症の確率が高いって言われて……」
僕は何も言えなかった。ただ彼女の言葉を待つしかなかった。
「一人で悩んで、考えて……でも、どうしてもあなたには言えなかったの。」彼女の声が震えた。「辛かったけど、あなたにその辛さを味わわせたくなかったから……結局、その時は赤ちゃんをおろすことを選んだの」
僕は胸が締めつけられるような痛みを感じた。彼女があの1週間でどれだけ苦しみ、どれだけ悩んだのか想像すると、言葉が喉に詰まった。どうして相談してくれなかったのか——そう言いたい気持ちが湧いたが、僕はその言葉を飲み込んだ。彼女は僕のために、その決断を一人で抱え込んだのだと気づいたから。
彼女は涙を拭いながら続けた。「今回も、最初は誰にも言わずに出生前診断を受けたの。血液検査の結果が出るまで、不安でたまらなかった。でも……今回は異常が全くないって言われたの。それでやっと、あなたに報告できるって思ったの」
彼女の秘密が、今こうして秘密ではなくなったことに、僕はほっとした。そして、彼女が新しい命を抱えているという事実に、心からの喜びが湧き上がってきた。
「ありがとう……話してくれて」僕はそっと彼女の手を握った。「辛いことを一人で抱え込んでたんだね。でも、もう僕がいるから。一緒に頑張ろう」
彼女は泣きながら、僕の手を握り返した。「ありがとう……本当にありがとう」
僕はその時、過去の悲しみや痛みを責めるのではなく、今目の前にある新しい命と彼女の存在を、ただ喜ぼうと心に決めた。
「これから一緒に、いっぱい幸せなことをしよう」僕は彼女の目を見て笑った。
彼女も涙を拭きながら笑い返してくれた。その笑顔には、少しずつ癒え始めた彼女の心が映っているようだった。
新しい命を迎える準備が、僕たちの新しい章の始まりだった。


いいなと思ったら応援しよう!