たつの市御津町苅屋に鎮座する富嶋神社の祭礼に関して「御津町史ー第2巻本編」の祭礼に関する記述を拝読しました。
以下、3つの時代において現在の祭礼の様子と比較を行いました。
1. 文政2年(1819年)の祭礼に関する記述
祭礼の日
まず祭礼の日が現在と異なっています。江戸時代は8月13日14日ですが、現在は10月第3週目の土日です。
神輿および屋台練り合わせ
「御津町史」の記述からは、江戸時代にも氏神別に屋台練りをしていたかは明らかではありませんが、神輿は2基で各神を御幸、還御していたことがわかります。
御幸(御旅所入り)・還御(宮入り)の村の順番
当時は、御幸と還御の際の村の並ぶ順番はしっかりと決められていたようです。神社再建に貢献した順番にしたのでしょうか。
現在は、宵宮の境内での提灯練りが終わった後に、夜中に神輿2基の御幸(渡御)が年番の氏子によって行われ、翌日の本宮(昼宮)の朝には、西釜屋の檀尻が御旅所入りし、獅子舞や芸能を奉納します。それが終われば、年番の地区の屋台を先頭にお旅所前の馬場に入り、その同神屋台との練り合わせを行い、その後に年番以外の屋台練り合わせが行われます。
宮入りは、西釜屋檀尻、年番地区屋台と同神屋台と練り合わせ、年番でない屋台練り合わせ、神輿還御の順になっています。
屋台の種類
江戸時代には黒崎の花屋台が宮入り後、幣殿に据えられた神輿の前で練りを行っていたようですが、現在は、花屋台に相当する屋台がなく、どのような形の屋台であったのか興味深いです。神輿がすでにお宮に戻っているため、お先太鼓や露払いとは役割は違ってそうです。今で言う、屋台練りに近いものだったのかも知れません。
氏子以外の屋台の宮入り
他にも興味深かったのが、江戸時代には大年神社の加家屋台が宮入りしていたことです。宮入りの順番も、黒崎、釜屋、加家、苅屋、浜田と、八幡宮と貴布祢宮の中間に位置していたことが記されています。他の神社でも氏子でない屋台が宮入りする事例はあるようです(伊和神社、正八幡神社、的形湊神社など)。
2. 寛文4年(1664年)に合祀の神社として再建
神社再建
再建の日付については、兵庫県神社庁の富嶋神社のサイトでは、1664年です。文献によって若干のずれはあるものの、1658〜1664あたりと考えて良いでしょう。
氏神ごとの屋台練り
合祀のため、現在の秋季例大祭では、八幡宮の氏子である釜屋・黒崎の2台による屋台練りと、貴布祢大明神の氏子である苅屋・浜田西・浜田南の3台による屋台練りが別々に行われています。
日本人の考える神
富嶋神社の二神の伝承から、日本人の神の捉え方も垣間見ることができました。神とは、目に見えない存在であり、特定の場所に依りつき、分割可能であると古来より日本は感じ取り、考え、想ったようです。
3. 万延元年(1860年)の祭礼絵馬
絵馬に描かれる屋台の種類
今回の文献以外の情報としては、神社拝殿に奉納されている絵馬(万延元年:1860年)には、平屋根屋台や檀尻がお先太鼓・露払いをつとめていたがわかります。他にも、平屋根を出していた村があったりします。どの屋台がどの地区のものなのかは、絵馬の損傷が激しく識別は難しいですが、上述の文政2年の村の並びから推測はできそうです。以下は、あくまでハリフェスの責任で屋台や神輿について氏子地区を推測しました。
お先太鼓・露払い
現在では、西釜屋の檀尻が一番初めに宮入り(還御)しており、かつての平屋根屋台の役割を担っている可能性があります。
用語について
本記事では混乱を避けるため引用文でも語句を統一しました。
御幸=渡御、行幸
檀尻=地車、だんじり
擬宝珠屋根屋台=神輿屋根屋台
平屋根屋台=平屋根型布団太鼓
反り屋根屋台=反り屋根型布団太鼓
チョーサ型屋台=神輿屋根型屋台、網干型屋台
練り合わせ型屋台=神輿屋根型屋台、灘型屋台、飾磨型屋台
詳細はハリフェスサイトへ
参考文献
御津町史編集専門部委員会(2003)御津町史第2巻. 御津町.
山田貴生(2021)播州中部南部の屋台・だんじりと御先太鼓・露払い. 御影史学論集 (46) 31-52.