見出し画像

播州秋祭り:江戸時代の富嶋神社の祭礼


たつの市御津町苅屋に鎮座する富嶋神社の祭礼に関して「御津町史ー第2巻本編」の祭礼に関する記述を拝読しました。
以下、3つの時代において現在の祭礼の様子と比較を行いました。

1. 文政2年(1819年)の祭礼に関する記述

御旅所御幸 八幡宮・貴布祢神御神輿
渡御前に神社境内で年番の浜田地区氏子により練り合わせられる様子
2022/10/22撮影
八幡宮御神輿還御
拝殿前で年番の苅屋地区氏子によって練られた後幣殿に据えられようとする様子
2023/10/22撮影
貴布祢神御神輿還御
拝殿前で年番の苅屋地区氏子によって練られる様子
2023/10/22撮影

1819年(江戸時代:文政2年)の「氏神祭礼式定」には、富嶋神社の祭礼の次第が残っている。当時の祭礼は8月13日が宵宮、14日が本宮。

富嶋神社は二神を合祀した神社であり、釜屋・黒崎の産土神として八幡宮(応神天皇)、苅屋浜田の産土神として貴布祢明神が祀られる。四村の氏神社でるが当時は、経緯はわからないが、氏子でない加家屋台(大年神社氏子)も宮入りしていた。

宵宮の夜に神輿が宮入り。まず釜屋・黒崎で八幡宮に対する御神楽が奏せられ、続いて苅屋・浜田による貴布祢明神に対する御神楽が奏せられる。両神楽が終わって御旅所へ神輿が出発する。

御幸行列の順序:神子ー釜屋・黒崎村太鼓ー大金幣ー榊ー龍頭ー鉾ー神主ー提灯ー八幡宮神輿ー鞍掛ー提灯ー釜屋・黒崎村役人ー御警固ー浜田村御迎提灯ー同村ねり太鼓ー金幣ー紙幣ー榊ー龍頭ー鉾ー神主ー貴布祢神神輿ー苅屋村提灯ー苅屋・浜田村役人ー同村ねり太鼓ー御警固

宵宮の午後11時、神輿は御旅所(苅屋八軒屋)に着き、鳥居内でねり返しを行なった後、御旅所建物に納められる。

本宮では午前8時頃から村々の曳き物・練り物が御旅所(苅屋八軒屋)に集まる。到着順に檀尻芸・獅子舞が演じられる。御旅所北から浜田村檀尻、苅屋村檀尻・獅子、釜屋村獅子、黒崎村檀尻、釜屋村檀尻の順に飾られ、10時から神輿還御の儀が始まる。両神に対して同時に御神楽が奏され、終わって発輿。

還御の順序:神子ー釜屋・黒崎村幟ー黒崎村屋台、前後に仕切幟ー釜屋村屋台、前後に仕切幟ー加家村屋台、前後に仕切幟ー釜屋村獅子台ー同村檀尻黒崎村檀尻ー釜屋・黒崎村太鼓台ー大金幣ー紙幣ー榊ー龍頭ー鉾ー神主ー八幡宮神輿ー鞍掛ー釜屋・黒崎村役人ー御警固ー苅屋・浜田村幟ー苅屋村屋台、前後に仕切幟ー浜田村屋台、前後に仕切幟ー同村ねり太鼓ー金幣ー紙幣ー榊ー龍頭ー鉾ー神主ー貴布祢神神輿ー鞍掛ー苅屋・浜田村役人ー苅屋村ねり太鼓ー御警固ー苅屋村獅子台ー浜田村檀尻苅屋村檀尻

お宮に戻ると、屋台や檀尻は、釜屋・黒崎は境内北側に、苅屋・濱田は境内南側に据えられる。神輿が幣殿に収められると黒崎の花屋台がその前で2回練る。その後、八幡宮、貴布祢神に対して神楽が奏せられる。終わると、神輿は御堂に納められ、再び、各村の檀尻芸・獅子舞が行われる。釜屋、黒崎、苅屋、浜田の順で演芸・演舞が行われる。

宮出の順番:釜屋村獅子台ー同村屋台ー加家村屋台ー釜屋村檀尻ー黒崎村檀尻ー釜屋・黒崎村太鼓台ー苅屋村屋台ー浜田村屋台ー同村太鼓・苅屋村太鼓ー同村獅子台ー苅屋村檀尻ー濱田村檀尻。

御津町史第2巻ー史料編ー

祭礼の日

まず祭礼の日が現在と異なっています。江戸時代は8月13日14日ですが、現在は10月第3週目の土日です。

神輿および屋台練り合わせ

「御津町史」の記述からは、江戸時代にも氏神別に屋台練りをしていたかは明らかではありませんが、神輿は2基で各神を御幸、還御していたことがわかります。

御幸(御旅所入り)・還御(宮入り)の村の順番

当時は、御幸と還御の際の村の並ぶ順番はしっかりと決められていたようです。神社再建に貢献した順番にしたのでしょうか。

現在は、宵宮の境内での提灯練りが終わった後に、夜中に神輿2基の御幸(渡御)が年番の氏子によって行われ、翌日の本宮(昼宮)の朝には、西釜屋の檀尻が御旅所入りし、獅子舞や芸能を奉納します。それが終われば、年番の地区の屋台を先頭にお旅所前の馬場に入り、その同神屋台との練り合わせを行い、その後に年番以外の屋台練り合わせが行われます。

宮入りは、西釜屋檀尻、年番地区屋台と同神屋台と練り合わせ、年番でない屋台練り合わせ、神輿還御の順になっています。

屋台の種類

江戸時代には黒崎の花屋台が宮入り後、幣殿に据えられた神輿の前で練りを行っていたようですが、現在は、花屋台に相当する屋台がなく、どのような形の屋台であったのか興味深いです。神輿がすでにお宮に戻っているため、お先太鼓や露払いとは役割は違ってそうです。今で言う、屋台練りに近いものだったのかも知れません。

氏子以外の屋台の宮入り

他にも興味深かったのが、江戸時代には大年神社の加家屋台が宮入りしていたことです。宮入りの順番も、黒崎、釜屋、加家、苅屋、浜田と、八幡宮と貴布祢宮の中間に位置していたことが記されています。他の神社でも氏子でない屋台が宮入りする事例はあるようです(伊和神社、正八幡神社、的形湊神社など)。

2. 寛文4年(1664年)に合祀の神社として再建

鳥居横の石碑 2019/11/10撮影
鳥居横の石碑 2019/11/10撮影

万治(1658〜60)の頃、倒壊に瀕していた両宮が、盤珪永琢禅師のお世話で、合祀して再建された。
町内の祭りには、神が祭りの夜にお宮を訪れ祭りをする古い型と、神が普段はお宮にいて祭りの夜に神輿に移されて御旅所に遷座され歓待されて、翌日に還御される新しい型の二つに大別できる。前者には伊和・春日・熊野・朝日・王子・恵美須神社などがあり、後者の御旅所祭祀型は富嶋・揖保石見・大年・加茂神社と合わせて四社である。
主祭神は応神天皇と貴布祢大明神であり、両神については次のような伝承がある。八幡様は淡路国千山から富嶋に遷座され、お還り願おうと円尾五郎兵衛というものが淡路より迎えに来たが、御了承がなくこの地に留まった。
貴布祢神社の神が山伏に盗まれたが、夜半に中島の王子越えにて大音響がしたので行ってみると、岩の上に御身体の入った厨子があり、神社に還ってきた。
日本の神の特徴として、目に見えない存在であり、特定の場所に依りつき、分割可能である、と言われる。この二つはよくその特徴を示している。

御津町史第2巻ー史料編ー

神社再建

再建の日付については、兵庫県神社庁の富嶋神社のサイトでは、1664年です。文献によって若干のずれはあるものの、1658〜1664あたりと考えて良いでしょう。

富島神社由来は、盤珪国師の尽力により、飛島の土地を申受けて社殿を栄み、武山八幡宮と貴布祢大明神とを合祀して現在の富島神社が創設されたことによる、とされています。寛文4甲辰年(1664)8月のことでありました。

富嶋神社

氏神ごとの屋台練り

合祀のため、現在の秋季例大祭では、八幡宮の氏子である釜屋・黒崎の2台による屋台練りと、貴布祢大明神の氏子である苅屋・浜田西・浜田南の3台による屋台練りが別々に行われています。

日本人の考える神

富嶋神社の二神の伝承から、日本人の神の捉え方も垣間見ることができました。神とは、目に見えない存在であり、特定の場所に依りつき、分割可能であると古来より日本は感じ取り、考え、想ったようです。

3. 万延元年(1860年)の祭礼絵馬

富嶋神社の祭礼絵馬:万延元年(1860年)2022/3/27撮影

三つ巴紋の八幡宮神輿と、葵紋の貴布祢神神輿の2種類の行列が宮入りしている。八幡宮神輿の露払いは平屋根屋台であり、貴布祢神輿の露払いは檀尻のような形をしている。
チョーサ型屋台分布地域では、檀尻や平屋根屋台が御先太鼓や露払いをつとめ、擬宝珠屋根屋台が神輿の後ろからついて行く、あるいは、還御時においては全ての屋台が先に宮入りして神輿を待つ祭りが主流であったようである。

山田貴生(2021)播州中部南部の屋台・だんじりと御先太鼓・露払い

絵馬に描かれる屋台の種類

今回の文献以外の情報としては、神社拝殿に奉納されている絵馬(万延元年:1860年)には、平屋根屋台や檀尻がお先太鼓・露払いをつとめていたがわかります。他にも、平屋根を出していた村があったりします。どの屋台がどの地区のものなのかは、絵馬の損傷が激しく識別は難しいですが、上述の文政2年の村の並びから推測はできそうです。以下は、あくまでハリフェスの責任で屋台や神輿について氏子地区を推測しました。

富嶋神社祭礼絵馬を解読する

お先太鼓・露払い

現在では、西釜屋の檀尻が一番初めに宮入り(還御)しており、かつての平屋根屋台の役割を担っている可能性があります。

用語について

本記事では混乱を避けるため引用文でも語句を統一しました。
御幸=渡御、行幸
檀尻=地車、だんじり
擬宝珠屋根屋台=神輿屋根屋台
平屋根屋台=平屋根型布団太鼓
反り屋根屋台=反り屋根型布団太鼓
チョーサ型屋台=神輿屋根型屋台、網干型屋台
練り合わせ型屋台=神輿屋根型屋台、灘型屋台、飾磨型屋台
詳細はハリフェスサイトへ

参考文献

御津町史編集専門部委員会(2003)御津町史第2巻. 御津町.
山田貴生(2021)播州中部南部の屋台・だんじりと御先太鼓・露払い. 御影史学論集 (46) 31-52.


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?