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音楽の大衆性

 音楽においての大衆性とは何なのだろうか。私がオーディションや先生からのアドバイスなどでよく指摘されるテーマである。


一言で言うと、私が書く曲は変わっているらしい。まあ私が普段好き好んで聴く音楽もマニアックではある。
聴いている人を置いていく、そんな音楽が好きなのだ。
そんな自分の普段聞いている音楽の趣味が出過ぎているせいか、人には自分の曲は変わっているだとか世界観が他と違って惹き込まれるなどとよく言われる。
誰かに感想をもらうときに世界観というワードがよく聞こえるのだが、実は自分でもよくわかっていない。
自分の世界があって明確にそれが音楽に溶け込んでいるのは良いことなのだが、それに大衆性というワードが絡んでくると突然自信を失う。

また、最近言われて気づいたのは、自分の音楽的な感覚の常識は人と少しずれているということ。
中でもコード進行の話なのだが、私の書く曲はコード進行の最後で解決しないらしい。
簡単に説明すると、コード進行の中で普通→暗い→明るいという風に途中で暗い印象を与えておくことでその後の明るいコードを際立たせ、より明るく、気持ちよく聴かせるというコード進行の基本が存在するのだが、私の場合最後は暗いコードで終わるらしい。
それをよく解決しないコード進行だねと人から言われる。
私にとってはそのコードに辿り着くのが一番気持ちいいと思って普通なんだと思っていたが、人から言われて初めて気がついた。
そもそも暗くて哀愁漂うオシャレなコードが好きということもあるのだが。

このように、音楽的な共通の認識がずれていることを知って大衆性に関することは半ば諦めていたのかもしれない。
だからこの際、それを個性と捉えて、活かしていければ音楽スタイルは確立され、自分だけの音楽、他にはない音楽が作れるのではないか、と考えていた矢先、それは沢山の人に聞いてもらわなければ意味がないということに気づく。

個性と大衆性の兼ね合い、それがちょうどいいところでピタッと合致したときに売れる音楽になるのだろうか。どちらかに偏り過ぎると多くの人から愛される音楽にはならない。
プロのミュージシャンは自分のやりたい音楽と売れる音楽は違うと苦言を吐いているが、プロで活躍するということはそういうことなのだろうか。
いっそ普通な平凡な音楽で溢れてしまえば個性的な音楽が「売れる音楽」に変わるのか。


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