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わたしとはさみ
政治家のなかには「私たちを道具として使ってください」と言う人がいます。
議員は選挙で選ばれて、代表として議会で仕事をしますから、私たちの道具という表現は間違いではないのかも知れません。
自分たちにとって必要な法律を作ったり、法改正をしたりする国会議員も道具と言えば道具です。
だから「先生」とは呼びませんし、対等な関係だと思っています。
しかし、支持者間となると少し違う感覚になりがちです。
極端な言い方をすれば、貢献度に応じてランク付けされるようなことがあるのです。
①選挙のときにものすごくボランティアを頑張った人
②日ごろからずっと候補者や議員の手伝いをする人
③地元の名士として人脈を広げてくれる人
④献金をして政治活動を支える人
⑤票を持っている有権者
⑥それ以外
ざっくりですが、こんな感じでしょうか。
私の場合は、特定の候補者や議員を応援しているわけではないので(総支部長が不在なので仕方ない)⑥のランクです。
どれほど立憲民主党のポスティングを頑張ろうと、どれほどSNSで応援するためにスキルを磨こうとも、やはり議員や候補者の近くで活動したり、直接的な支援のできる人に比べると・・です。
たとえば、同じように頑張って活動しても、選挙区内の有権者にはお礼の気持ちを伝えるのに、選挙区外の人間はスルーされることがほとんどです。
その疎外感というのは、なんともツラいですが、それも仕方ないことと耐えています。
そんなモヤモヤを抱えつつ、それでも立憲民主党がめざす社会像のために日々頑張ろうと思っているわけですが・・・
国会議員は国民の道具であれば、わたしもまた議員の道具に過ぎないのかも知れない。
使い勝手の良い道具として、文句も言わず、何も要求せずに言われたことをやる支持者という名の道具
それにムカついて、何もかも放り投げてしまいたいと思ったことは数えきれないのだが、それはただその政治家の人間としての器だけの問題であり、めざす社会像の実現に必要なピースの1つとして考えるのなら、使わなければ損なのだ。
そしてそれは私自身もだ。
わたしは政治家にはなれないので、議員や候補者を使うしかない。
そして議員や候補者はわたしを使うのだから、対等なのだ。
しかし、どうせ使うのであれば、バカとハサミは使いようであるから、もう少しうまく使いこなして欲しいものだ。
票を持っている有権者と同じようにしてとは言わないが、せめて10分の1でもいいから・・・と思ってしまうのであった。