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原石

先日、昼休みにオフィスの外に出て、琵琶湖の写真を撮った。その日の午後に社内の取材でカメラマンをすることになっていたので、カメラのテストも兼ねて。

よく晴れた暖かい日で、琵琶湖も心なしか嬉しそうだった(?)

見て、このキラキラ具合!かわいいね。
水面に揺蕩う宝石が眩しくて、目を閉じてもまぶたの裏に残像が見えるぐらいだった。
一緒に琵琶湖の写真集を作ろうと話している大学時代の先輩に、画像を数枚送った。

取材の方の撮影も無事完遂したが、反省点も多かった。自由に話し、動いている人の自然な写真を撮るのは難しい。でも撮影担当として呼んでいただけたのは凄く嬉しかった。何よりも、取材の中でご自身の業務について熱く語る先輩の姿が眩しく、その熱意に心を動かされた。

過去に取材をさせてもらった別の方から連絡を頂いた。詳しくは書けないが、取材の時に私が発した言葉から着想を得て、ある企画を進められたそう。

取材ではいつも色んな方の想いに触れて感銘を受けてばかりなのだけれど、逆に自分の言葉が誰かの心の琴線に触れたのが嬉しかった。色んな人と想いを持ち寄って言葉を交わせるこの仕事、やっぱり飽きない。向いているかどうかは別として。


文学フリマで友達にもらった差し入れ。当日バタバタしていて見ることができなかったので、落ち着いてから家で開けると、手紙が入っていた。繊細で可愛らしい花柄の便箋は、その子が以前買ってくれた日記本『水辺の止まり木』の感想で埋め尽くされていた。
手紙の終盤には、こんなことを書いてくれていた。

「文章に限らず、えりさんの作品を見て感じるのは、原石を持っていて、そして磨く努力を日々怠らない積み重ねの人なのだなと思います」

お手紙(掲載許可貰いました、ありがとう友達)

この言葉で耐えきれず、ボロボロ泣いてしまった。
これから先の人生のお守りになる言葉。

最近、noteやSNSのコメント、LINEなどで、色んな方から本の感想を頂く。まず本を手元に置いてもいいと思ってもらえたことが嬉しくてそれだけで充分なのに、感想まで頂いてしまってはさすがに幸せにしてもらいすぎだと思う。感想を書くのって体力がいることなのに。本当に嬉しい。

意外だったのは、私の文章に救われた、という言葉を何度か頂いたこと。
そもそも自分のために書いていた日記だし、誰かに語りかけたり、大丈夫だよ、頑張ってと励ますようなことは書いていないんだけれど、私が日々を右往左往している様子が誰かの支えになれたなら嬉しい。

……「こんなことを言ってもらえた!」と嬉々として公開すると、間接的に自分をアピールしているみたいでなんかアレだな。私が言いたいのは、こんなに嬉しい言葉を誰かに手渡してもらえるのは有り難い、当たり前じゃないということ。優しい言葉を謙遜で無下にするのではなく、全身で受け止めて、そして自分も誰かの心に触れる言葉を花束にして渡せる人になりたい。

そう思えるようになったのは、最近見たNetflixの恋愛リアリティショー「あいの里」がきっかけだったりする。終始自信がなく遠慮がちだった「あやかん」というメンバーが、あるメンバーと仲を深める中でこんなことを言っていた。

「(誰かが)好きと言ってくれた自分に自信を持ちたい」

今まで自己肯定感の低さから「褒められる→そんなはずない、自分にはもったいない」という思考にしかならなかった私にとって、あやかんの言葉は革命だった。
以来、ポジティブな反応をもらった時に「いやいや、私なんて」と自信なさげに突っぱねるのはもうやめようと思った。あやかんありがとう。


自分は幼い頃、人と話すのが苦手で学校にあまり行きたがらなかった。だから文章や写真という、一人でも楽しめて、声に出さない感情表現がちょうど良かったのかもしれない。
2週間に1回、市立図書館で母と一緒に袋がちぎれそうになるくらい本を沢山借りるのが数少ない楽しみのひとつだった。小学5年生の時、日記を書き始めた。同じ頃、父親からオリンパスの小さなデジタルカメラを借り、行く先々で写真を撮るようになった。

あの頃の私へ。その日記も写真も、十数年後に沢山の人が見てくれるよ。仕事でも私生活でも、文章と写真をやっているよ。あなたが一人でやっていたことを「原石」と言ってくれる人に出会えるよ。

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