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『街道をゆく−三浦半島記』小栗上野介忠順と横須賀

 三浦半島の付け根にある横須賀、現在は米軍基地があり、戦前は日本海軍の重要施設がありました。横須賀という土地を海洋基地へと開発したのは、小栗上野介という幕末の旗本です。海軍奉行や勘定奉行を歴任した小栗上野介は、日本を近代化するためにフランスの造船技術を導入しようと、横須賀に大規模な造船所や製鉄所を造りました。これらの一大工業施設は、明治政府が引き継ぎます。
 小栗上野介は、幕府内で勝海舟と対立していて、薩摩や長州に徹底抗戦しようとしていました。そのためか薩摩や長州や土佐を描いた幕末時代劇では、大悪人のラスボスのような人物で登場します。
 しかし、小栗は、勝海舟やその他の幕臣達と、条約の批准のためにアメリカまで太平洋を往復した人です。海外を見てきたために、日本が西洋諸国に遅れていることを痛感したのでした。そこで小栗は日本をフランス共和国のようにする政治構想を持っていたそうです。
 
 薩長の官軍が関東へ攻めて来ると、江戸幕府は降参することになり、小栗は隠棲するために長野県方面へ向かいました。しかし、官軍に捕まって、裁判もなくその場で処刑されてしまいます。
 それから約37年後の明治大帝の治世、小栗の遺族達は、日露戦争後に海軍の連合艦隊司令長官東郷平八郎の家に招かれます。そして、東郷平八郎は「小栗さんが、横須賀の工場を造って下さったおかげです」と、丁寧にお礼をいったそうです。

 司馬遼太郎が思うには、東郷平八郎は官軍が小栗を処刑したことを謝りたかったのだろうと。でも、東郷は当時、薩摩の蒸気船の士官をしていて、全く小栗の死と関わりはなかったけれど。

 何にしても37年もたってるのに、小栗上野介の功績を戦勝の要因として数えている、東郷平八郎の謙遜の心に、明治時代の海軍将官の底知れない奥深さを感じました。
 

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