もしも、毎月なにもしなくても50万円が貰えるとしたら
withコロナの時代が到来して、なにが一番変わったかというと「自分の時間を過ごす時間」が少し増えたことだと思う。
例えば今までオフィスに通勤していた頃は昼休みもごはんを食べながらなんとなくPCを触っていて「休憩している」という感覚はあまりなかったように思う。
在宅勤務が始まってからはずっと家にいるのもなんなので、天気の良い日はお昼ごはんを近くの公園で食べることにしている。
本当に短時間でも外に出るだけでだいぶリフレッシュすることができるし、午後の活力になるのでとてもおすすめだ。
今日は本当に晴れやかな天気だったので、例に漏れずこじんまりしたパン屋さんでパンを買い、近くの公園のベンチに座ってもぐもぐ食べていた。
もぐもぐしながら考えていたのが、「例えば、毎月50万円をベーシックインカムとして手に入れることができるとしたら、わたしの生活はどのように変わるのだろう?」ということ。妄想の域を出ない話なのかもしれないが、実現可能性が全くない話でもないような気がしている。
仕事が「生きるために稼ぐ」という意味を失ってしまった時、わたしにとっての仕事は、そして社会全体にとっての仕事はどのように形を変えていくのだろう。
なにもしなくても毎月50万円が手に入るとしたら、まあ生活には困らなさそうだ。
子供ができたら、と考えるとわからないが、少なくとも自分一人が生きていくことを前提とすると十分すぎる金額だ。別にそんなに散財もしないし。
そうなると、仕事をするための理由として「生活のため」というものは一気に軸足を失ってしまう。
じゃあ何もせずに遊んで暮らすかな?と考えると、多分そんな生活は一ヶ月で飽きてしまうと思う。
自分ってなんのために生きているんだろう、と思うんだろうし、きっと何かを始めたくなる。
自粛期間を経て痛いほどに感じたのだが、人は何かを消費するだけの人生にきっと虚しさを覚えて、自分で何かを生み出したくなる、ということ。
他の人がどうかはわからない、けれど少なくともわたしはそうで、きっと周りの人たちも同じような思いを抱いていたのではないかと推察している。
そんな生活が訪れたときに、果たして今と同じ生活をしているのかどうか。
同じ仕事をしているのかどうか。
はたまた今と全く違うことに取り組んでいるのかどうか。
わたしはというと、もしかしたらそんな生活になっても今の会社で働き続ける可能性もなくはないけれど、打ち込むことや関わり方は少なからず変化するんじゃないかと思っている。変わるのが健全だとも思う。
そんな取り止めもない妄想をしてみると、思考の枠を外すことができて結構面白いなと思う。
大きく前提をずらしてみると、既存の枠組みに押さえ込まれていた自分が顔を出して、本来の欲求が見え隠れしたりすることがある。
だから、たまには突拍子もないことを考えてみると、今ある当たり前に押し込まれることなく思考することができていいと思うんですよね。
そんなことを考えながら、運よくみることができたブルーインパルスに夏の始まりを感じていた金曜日の昼下がりなのでした。