出口のない答えの見つけ方
自分の中で色々な正解が戦っている時。
なんだかわたしはとても難しい問題に直面したような気持ちになってしまう。
それはきっと、どの意見も正解にしてしまう情報がたくさん世の中に溢れているから。
少し前の時代ならば、良くも悪くもアクセスできる情報はもっと限定的で、
持っている物差しの数はもっともっと少なかったはずだ。
今はネットを開けば一つの物事に対する様々な角度からのものの見え方、物差しを手に入れることができてしまって、なんだかそれはとても幸福なもののようにも、あるいは、そうであるがゆえに不幸なもののようにも思えてしまう。
あの人の言っていることも、この人が言っていることもわかる。
でも、わたしはこういう風に感じている。
正解は自分で作るしかない。
しかし、もしかしたら自分の見方はどこかひどく偏った物の見方なのかもしれない。
ひどく偏った物の見方をしてしまう自分になってしまうことが怖いわたしは、自分に対して「こういう物の見方もあるのでは?」と提示をしてしまう。
そうすると、ああその考え方もわかるよね、と。その考えを引き寄せてしまう自分がいる。
ある事象に対して、Aという考えもBという考えも持つことができるし、CもDもEも存在している。
AからEまでを許容した後に、じゃあ自分はどの考えの上に立つ?という問いに答えるのがなかなか難しいことがある。
問題をややこしくしてしまっているのかもしれないし、これは決断力の問題なのかもしれないけれど、なんだかそういうことをじっと考えてしまう。
考えても正解が出る類のものではないのかもしれないけれど。
そういう時に、どう出口を見つけていったらいいのか模索中だ。
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