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その人といる自分のことを、どれ程好きでいられるか

<「その人のことをどれくらい好きか」よりも「その人といる自分のことがどれくらい好きか」で相手を選びなさい> という言説が当たり前のように叫ばれるようになって久しい。だいぶ耳馴染みのある論だとは思うが、言い得て妙、その通りであると思う。

でも、「この人といる時の自分が好き!」って思うことはなかなか難易度の高い(というかあまり実感の沸きにくい)ことなのではないだろうか。

例えば、と自分の過去の身に起きた体験談を綴りたいところだが、わたしの知り合いもこのnoteを読んでいることが多いことを知っているので、元彼たちの目に入る危険性も踏まえて具体的な事例に踏み込んで語るのは辞めることとする。わたしだったら自分との話が自分の元彼女に赤裸々に晒されていたら嫌だと思うので・・


さて、その人といる自分のことが好きと言える状態とは、どのような状態なのだろうか。
でもきっと、それは相手の地位や名誉、金銭的な状況に左右されるものではないのだろうと思う。
それらの外的な報酬に惹かれているということは、「その人といる自分のことが好き」という主語が自分に向いた状態ではなくて、相手に主語が向いている状態ではないかと考えるからである。(もしかしたら「この地位を手に入れている人を手に入れているわたしが好き・・・」という論理が働いてしまうこともあるかもしれないが)

いくつか考えられるものを挙げてみると、
・自分自身の自尊心(≒自己肯定感 ? )が満たされる
・自分の汚い部分 / 嫌な部分も見せることができる
・そしてそんな自分も受け入れてもらえている
ざっとこんなものだろうか。他にも思いついたら教えて欲しい。

要約すると、「わたしはここにいていいんだ」という感覚、とでもいうのだろうか。うーん、なかなか難しい。


例えば、どんなに賢くて、どんなに仕事ができて、どんなに尊敬できても
「この人は本当にすごい、でもそれに比べてわたしは・・」と思ってしまうと、その恋はなかなかうまくいかないのかもしれない。つまり、相手がすごいからと言って自分が幸せになれるとは限らない。

こんな話をする時にいつも思い出すのは、わたしの大好きな「君はペット」という作品。(だいぶ前の作品だが)

大手新聞社に勤める新聞記者・巌谷澄麗(スミレ)は、容姿端麗、高学歴という才色兼備のキャリアウーマン。でも、本当は繊細で恋愛に不器用。スミレが失恋した上に左遷という人生のどん底にいたある日、ダンボールに入った美しい青年・合田武志と出会う。かつての愛犬“モモ”に似ている彼を“ペット”として一緒に暮らし始めたスミレは、次第に彼との時間に心癒されていく。そんな頃、初恋の人・蓮實滋人と新聞社で再会し…。

とどのつまり、バリキャリOLが歳下男子をペットにするというやべえ話なのだが、読んでみるとこれが面白い。

以下少しネタバレになってしまうが、スミレの前には王子様のような蓮實さんが現れて恋仲になる。外見も、中身も、地位も名誉も文句なし。誰もが羨む理想の恋人。しかもスミレにゾッコン。非の打ち所のない彼氏だ。

でも、スミレちゃんはモモ(ペット男子として飼ってる人)にしか本音を出せない。弱みを見せることができない。蓮實さんの前では常に完璧な自分でいたいから。そんな自分を好きでいてくれていると思っているから。
逆に、モモにならどんな自分も赤裸々に曝け出すことができる。モモにならば見せることができる。

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なんだかこの漫画を見ていると思い出すのだ。

「その人のことをどれくらい好きか」よりも「その人といる自分のことがどれくらい好きか」で相手を選びなさい、という冒頭の言葉を。

言語化はうまくできないのだけれど、この言葉って、スミレちゃんが蓮實さんではなくモモを選んだ、この漫画のこの出来事が如実に表現していることなのだと思うのだ。

これって恋愛だけに当てはまる話ではないのだと思う。
同性/異性、有形/無形関係なく、人間関係においても、仕事環境においても同じことが言えるのだと思う。

その時の自分のことをどれだけ好きでいられるのか、
自分の人生なのだから、自分を主語に据えて生きていきたい。

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しらも
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