日本教を証明したコロナ敗戦国日本
誰が言ったかコロナの感染した世界、コロナ禍の状況が終わるのには4年かかると言っていたがホントにその通りになった。(岡田斗司夫さんの発言)
これをコロナ戦争と呼び、この状況はホントに大変で、経験したことのない混乱でもありました。
そして、日本はコロナ敗戦国となりました。
コロナ禍という世界の中での経験は自分の中でも大切な時間になりました。
新しい慣習というものを受け入れることになったり、それに反発する人がいたり、陰謀論や嘘の情報などの病気のパンデミック以外にも情報のパンデミックもありました。
しかし、そういうものを通して自分にとって、人にとって何が大切なのかということを知りました。
このコロナを経験したことによって、やはり人がなくしてはいけないものは何かということがわかったことはとても大きな収穫だったなと自分でも思います。
デジタルと会って直接話す大切さの違い
ZOOM飲みなんてものが一時流行りましたが、いまややっている人は見かけません。
仕事の会議などでしたらZOOMでもいいなとは思っていますが、友人と過ごす時間はやはり直接会って話すのに限ります。
この差は何かというと体験の情報量の差になると考えています。
友人と直接会って話すまでの時間、一緒にいる時間というものは意味のある時間になります。
これは本当に大事なことなのだなと感じました。
緊急事態宣言下の不要不急の集まりはやめてください……、こんな言葉を何度聞いたことでしょうか
こんなことを唯々諾々と聞き従ってしまう人間はおかしいことなのだと気づかないのでしょうか……
人と一緒にいることの大切さは、今回のことで改めて認識をされたのではないでしょうか
先日、アイドルのライブに行った時にマスクをしてならという条件付きでの声出しOKというものに参加しましたが、やはり制限のあったときのものとは異なるものだなと感じました。たかがエンターテイメントなのですがいいものだなと感じました。
こういったものは謂わばガス抜きであり、そのライブをみんなで作るという空間の共有はなんとも言い換えのできないものでした。
コロナによって配信などもはじまり、選択肢が増えたこともよいことだったかもしれませんが、やはり人が集まった時の熱気、場の勢いのようなものは生物であり、言葉では表せない見えない何かがあるのだと思います。
コロナ敗戦国日本
コロナ戦争が終わり、蓋をあけてみればコロナとはなんだったのでしょうか
300兆円のお金を使い込んで何がなされたわけでもありません。
自国製のワクチンの開発が可能なわけでもありません、新しい産業が生まれたわけでもありません。
では、人々が豊かになったかというと、すぐにはじまったウクライナ戦争で生活が困窮する人たちが多数生まれました。
わかったことといえば、日本の劣等性の再確認ができたということでしょうか
人の生きる意味をコロナという不安をコントロールして奪った国の責任は重いものであると考えています。
緊急事態宣言や移動制限は、たしかに感染症の拡大を抑えるのに役に立ちます。
公衆衛生上は適切な処置です。
しかし、これをなんら根拠をしめさずに、ただただ乱用した政府の責任は問われるべきであると思います。
人の生きる意味を奪ったこの「お上の言葉の空気」に自分で考え動く人間の市民とただ空気に支配されて生きていた空気の奴隷に分断したというこの責任においてです。
この空気という存在は山本七平がはじめて用いた表現です。
日本人に蔓延る日本教の証明をしたコロナ
今回のコロナ禍では日本教の存在を証明するような事象がいくつかあった。
中でも一番わかりやすいのはマスクについての問題であると考えます。
外ではする必要がないはずなのに、いまだにマスクをしています。
その理由の多くは他の人がしているから、他の人の目を気にしてマスクをしています。
そして、人に聞かれるとマスクは感染予防のためと答えます。本心では違うのに……
このように人は認知的不協和を起こしています。
この状態を作り出しているのは何が原因なのかと考えると答えは「日本教」のせいであるといえるのです。
この日本教にはドグマもなければ救済儀礼(サクラメント)や神議論(テオディツエー)もありません。
では、この日本教の教義は何にあたるのでしょうか。
それが空気というものです。
空気を教義として規範にするのが日本教なのです。
これを可能にするのは前提条件として日本がなんの宗教を持っているわけでもなく、規範を持っておらず、歴史的(時間)を持っていないからでしょう。
これを劣化した日本式ネオリベラルと呼ぶ場合もあります。
それは自分たちの芯となる歴史的時間の記憶を持っていないからに他なりません。
こうして、「今」しかみない人間は空気を規範にして生きていこうとします。
これをマスクに当てはめるとはじめに取り上げたことも理解ができるのではないでしょうか。
誰もいない外ならマスクをはずしてもいい→でも、他の人の目もあり、何か言われたくない(空気)→外でもマスクをしよう(認知的不協和)という風なかたちになります。
日本教の根深さをコロナで改めて認識をした次第です。
このように様々なことを教訓として残してくれたコロナ
今回のことで自分を見つめ直してみる機会として、立ち止まり振り返る機会を作ってみてもいいのではないでしょうか
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