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恋愛の終焉?現代日本における愛とロマンスの変貌

結婚の前には恋愛がある。いえ、それは今の場合はほとんどないかもしれません。
あるのは打算と利得を最大化するためのマッチングアプリというお手軽な検索ツールであります。
これにより、恋でもなく、愛はなくても自分の望む結果を叶えてくれるものを探してはそれによる結果を結婚というものにしているのでありますから、前のような恋愛、恋というものはある意味のリスクを孕み、コスパが悪いという物言いになるのかもしれません。

恋とはもはや現代ではできない問題として取り扱われようとしているのではないか
燃えるような恋というものが一昔前にはあったけど、それはストーカー扱いされたり、現実にあるのはお互いの気持ちを高めていく人間関係の在り方というものより、ロマンスというものの金銭のやり取りのパラメーターの結果としてのみ扱われなくなってきたのではないでしょうか

この辺の"シラけ"というものが若者の恋愛離れを加速させているのではないかと、『僕』は最近思えてなりません。
いくら恋愛や結婚は荘厳であるといっても聞き入れるための耳を持ってはくれないのでしょう。
結婚詐欺はロマンスと言われ、男の真剣な恋心は「おぢ」という代名詞に置き換えられてお金を得るためだけのものへと変わっていきました。
そこに加えて何でもを「キモい」という言葉に置き換えれられて捨てられていく人間を幾人かみます
おそらく現代の人々は昭和の歌謡曲の恋愛模様の価値観をきっと理解はできないでしょう
人に真剣に恋をすれば振る振られる前に、キモい、ストーカーと扱われハラスメントの事案にすらなりかねないのです。
「まちぶせ」や「神田川」のような歌詞はもう今の人たちには理解することができないのではないでしょうか


恋愛や誰かのためにという非合理的な営みというものは、鉄の檻の外に出るための練習でもあるわけです。
すべてを合理的に考えると何が起こるかというのは自明です。
それは自分も他人も取り替え可能な存在にしかすぎないというものに帰結するのです。こうなってしまっては地獄であります。
なぜかといえば、自分という存在や他人という存在は常に利得関係に縛られていて予測可能性の中にある合理的な存在であるということがわかるからです。
ゆえに、友達という他人といるときでさえ疑心暗鬼になるのです。
この疑心暗鬼ゆえに何でも話せる存在である友人や恋人などの近しい人間にも忖度をして何を話すか、自分が相手に捨てられないためにはどうすればいいのかということを常に考えないといけないわけです。
つまりは生活世界としての自分の休める場所というものはなく、常にバトルフィールドに身をおかなければならないのです。

恋愛というものを自分が傷付ついても、いや、傷つく覚悟で経験していくことが大切なのではないでしょうか

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