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結婚や恋愛は誰でもするという当たり前ではないということを説明する散文
恋愛や結婚というものは人間が生きていれば、当然それに沿うものであるという「当たり前」というのは間違いである。
これは『僕』の考えとしてだけではなく、一般的な常識として成立するかと思いますが一部の方々や近い家族や歳を重ねた人たちにとってはそうではなく「当たり前」と定着しているようにも思えます。
恋愛に向く人、結婚に向く人というのはやはりいるわけでこれはあくまでも個人の特性に依存するのです。
では、恋愛とは何か、結婚とは何かというものを考えていきましょう。
恋愛とは感情の次元の現象、感情として芽生えた恋愛というものは一種の衝動であり、コントロールをするということは難しいものです。
このコントロールというのは自分勝手な行動を許容するというものではありません。もちろん、法的根拠に基づく行動は律するべきですし、そこは理性というものが働くという場面ではないでしょうか
しかし、恋愛感情に基づいて、相手に会いたい、触れたいという欲求は当たり前の行動、感情ではあるということは書いておきます
結婚というものは制度の次元においての現象・契約に過ぎず人間の生きる生理的な行動に基づくものではなく、あくまでもその社会性を保つための仕組みという側面があると言っていいでしょう。
故にパートナーと共に制度での生活をする単位、つまりは家蔵という単位、その小さな社会形成の一、形態にすぎないというのがこの結婚というものの正体であります。
よく結婚に向く人、恋愛に向く人ということを耳にしますがあながち間違いではありません。
結婚に向かない人というのもいるわけです。
感情と制度が現実的に一致するとは限らないですし、それが恒久的に保証されるということも大人なら誰しもがわかっていることでしょう。
現代においてはマッチングアプリや結婚することを目的としているシステムが豊富ですが何も悪いことではないということです。
これまで述べてきたように結婚と恋愛というものは異なるわけですからその結婚という制度に基づく生活の安定というものを目的としてその同じ目的の人間をみつけるという手段としてはとても効率的であるという点をみればシステムは素晴らしいものでしょう。
昔の武士などの上の階級においては恋愛というものはなく、すべて結婚はお見合いでした。農民の結婚は恋愛結婚が多かったそうで。
現在においては結婚のきっかけはマッチングアプリという「お見合い」がきっかけでこのようにお互いの結婚という意思と目標が明確なうえで知り合うというのはとても合理的で昔のお見合いの仕組みや歴史を考えると由緒正しいものであるというお墨付きがあるといってもいいでしょう。
計算可能性の外にでない安心・担保された安定の制度
それがお見合いによる結婚と言ってもいいでしょう
おそらく「こんなはずじゃなかった」というのは少ないかと思います。
しかし、それは人間らしさというあやふやなもののない何とも言えない決まり事のママゴトです。
この障害や負担免除のシステムにおいて人間らしさ、人間だからこその楽しみというものを奪われているかもしれません。
が、このシステムに則っている以上はそれに気づくことさえないのです。
これを幸せというのかどうかは本人たちの問題なのか、それとも社会としての人間の権利の放棄なのかは定かではありません。
結婚というものは昔の風土で考えると子供の出産や教育しない、放棄をして
欲求のみの性行動、行為を取り締まる仕組みでもあったのですが、現在においてはそれが崩壊しつつあります。
さとり世代なんていわれてしまい、その性欲さえもない若者が増えてきており、欲求が存在しないのです。
そう考えると"禁欲"というものを制度で縛りつけたかたちの「結婚」というものはしない人が増えてくるのは当たり前なのかもしれません。