自己承認欲求
読んでいた記事で、なるほど!というのがあったので産経新聞から抜粋。
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殺人罪などで起訴された山上徹也被告の存在は、現代日本を考える上で興味深い。彼に象徴されるのは、社会的に包摂されない弱者という問題だ。国家は本来、国民一人一人を包摂はできない。弱者を救う最後の砦(とりで)は地域や血縁などの人間関係であり、それがこの数十年ずっと崩れてきた。伝統的な個人の自己承認欲求のあり方が機能しないから、ごく普通の一個人が巨大な権力者を一対一の敵対関係に置き、自分が襲うべきだという発想が出てくる。世界と個人だけで、真ん中の象徴界が存在しない「セカイ系」の典型が山上被告だろう。
「事件の忘却の軽薄さに危機感」 先崎彰容氏
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「伝統的な個人の自己承認欲求のあり方が機能しない」
これは確かにそうだと思います。昔は兄弟姉妹が多く、家族の中での個性や役割があって。兄弟の中で頭が良かったとか、センスが良かったとか、細かい作業や絵が上手いなど特技のある子供は、成人しても家族の中で頼りにされたりして自己承認欲求を満たせます。
外の世界にはいくらでも凄い人がいるけれど、家族という最小単位の社会で認めてもらえるというのは、小さいながらも精神的な支えになっているのでは。家族の関係が希薄で承認欲求を満たす場所が無いまま社会に出ると、凄い人だらけの世の中では立場を見失ってしまいます。
それでも昔は地域や職場の中で頑張れば承認欲求を満たせたかもしれないけれど、今は一度ドロップアウトすると派遣で、正社員になるのも難しく。加えてネットの向こうにいくらでも凄い人を見付けられるものだから、周囲も凄い人慣れしてしまい、ちょっとやそっとの特技では、大して認められないのかもしれません。
仕事なんかも同じです。昔は身近で頑張っている人に仕事が行ったのに、今は遠くからもっと良い人を探そうとして、真面目だけな人は蔑ろにされていそう。だから誰も彼もSNSで映えを競い、知らない誰かからイイネを貰って、承認欲求を満たそうとしているのかもしれませんね。