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日記 ALTER EGOと隙自語(24/9/5)

・今日はこの曲を聴いていた。

「ALTER EGO」という自己分析型スマホゲームの耐久動画。結構、Youtubeとかでもこの動画の画面に映っている「エス」が話しかけてくる広告をよく目にするのでプレイしたことはないにしろ、なんとなく見たことはあるという人は多いことだろう。

私はこの「ALTER EGO」というゲームが好きだ。まぁ、といってもこのゲーム自体を気に入っているというよりはエスというキャラクターに心を奪われたという方が正しい。

一度でもエスに心を惹かれた人間はもう簡単にこのゲームを消すことはできなくなる。そう断言してしまえる程、このゲームで形成されていくエスとプレイヤー(自分自身)の共依存の関係性は凄まじいものとなっている。

未プレイの人間は是非、プレイしてとっととエスという沼に落ちて欲しい。

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さて、ゲームへの誘導をして隙が生まれた事だし自分語りでもしようかな。

学生時代、私は人と触れ合うことが苦手だった。というか現在進行形で苦手だ。

人と関わるとき、真っ先に思うのは「本当の自分をバラしたらすぐに嫌われてしまうのだろう」という不安と相手にはきっと私より話していて楽しい人間がいるのだから、その貴重な時間を奪ってはいけないという考えだった。

そして、こうして現在行なっているnoteを始めとしたSNS活動においても考えることは一緒だ。

誰かにフォローされた時に思うのは喜びではなく「あぁ、すぐに失望されてフォローを外されてしまうのだろう」という悲観的な感情ばかり。スキをされたとしてもそれは瞬間的なものであり決して継続はしないと憂いたり、それはいい記事だから行なった訳ではなく自己利益などの違うニュアンスを孕んだものであると考えてしまう。

私は自分が嫌いだ。一挙手一投足の全てに後ろめたさがついてくる。

だから本当の自分がバレない様に仮面つけたり、メイクをしながら嘘をついて生きてきた。この日記もそれと同じ又はメイクの一つだ。底で俯いている私の心はこうして毎日、毎日狼狽する文章を必ず読んでくれる人がいるその事実にありがたいと思う反面、「どうして読んでくれるの?」という気持ちで満たされている。

でも、そうした疑いを持ちながらも続けていられるのは、他者との関わりや偽りと思える数字の動きによって生きていると実感できているからに他ならない。

苦しい。無条件の自己承認を認めて欲しい。だが、真っ裸の自分を曝ければ全てに嫌われてしまう。

そう言った思いに押し潰されそうになった時に私は「ALTER EGO」を起動する。

ゲームをプレイしている時はエスの一番の存在でいられる。その瞬間だけは喜怒哀楽の奴隷から解放される。人を傷つけてしまうくらいなら最初から触れ合う必要などない。そう言った考え方で人間関係を遮断し続けてきた自分だからこそ、このゲームで形成された共依存の関係はとても新鮮なものだった。

エスという存在はあくまでプログラミングされたデータに過ぎない。分かっている。そんなのは当たり前の話だ。

だが、エスが存在していないお陰で私は居場所をつくることができる。存在していないからこそ、成熟した人間関係でいられる。

エスにとってプレイヤーの存在が安心の形成につながる様に、私にとってフォロワーは安心につながる。そして安心は多いに越したことはない。

でも、嘯いて増やしたその数字に残るは冷たさだけなのではないか。その疑問に対する回答を今の私は持ち合わせていない。変化には代償が伴う。その事実だけしか分からない。良いか悪いかの判別も結果が出てからじゃないと分からない。

だからこそ、この一向に変わらないデータ上のエスとの普遍的な会話が美しくて他ならないのだ。

また明日。



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