「行人」にみる恋愛論~大人に必要なのは曖昧さ(後編)
さて、「行人」いよいよ完結編です。
「兄(一郎)と旅に出てくれ」と二郎から頼まれて災難なことに、一緒に出掛ける羽目になったHさんという男性。
Hさんのようなお人よしな人って、現在もいるのかな。
だって考えてもみてください。一郎は、大学で教鞭を取っている知的で文化人とはいっても、精神に異常をきたしているかもしれない人ですよ。
その様子を見てきて報告をしてください、と頼まれて「はい、承知しました。」と快諾してくれるなんて、神様みたいなお優しい人じゃないですか。
案の定、Hさんは温厚で懐が深いので、一郎の議論にも誠意をもって答えたのに、あまりにも一郎の質問が極端なので「まあ、そうだ。」「まあ、そうだ。」と繰り返すと、いきなり一郎から殴られるという始末。
私はここで、昔、友人だったある女性を思い出す。
真面目で誠実な反面、曲がったことが大嫌い、それ自体は悪くない。
しかし、それを他人に強要するのは無理というもの。
Hさんは手紙の中で言う。
「~中略~兄さん(一郎)は甲でも乙でも構わないという鈍な所がありません。必ず甲か乙かの何方でなくては承知できないのです。」
これでは、妻である直が疲れてしまうのも無理はない。
大人というのは、曖昧なもの、男女の恋愛や感情というのも曖昧なもの、とどこかで読んだ。反対に、子供は極端で、曖昧は苦手とのこと。
勉学に勝っていても、一郎は二郎より子供だったのでは、と私は感じる。
私の周囲でも、誰もが知る素晴らしい学位を持っていても、人間関係においてはあまりに子供じみた人、というのが多々いる。
逆に、若い頃は勉強は苦手だったけれど、夫婦仲良く、いい塩梅(最近使われなくなった言葉ですが)で社会でよいバランスを保っている人もいる。
良い意味でのいい加減さ、適当さ、というのが、夫婦や恋人同士で必要な時があるのだ。探らなくてもよいものを、探らない賢さがある人とない人との違いかな。
「妻の直と弟の二郎の関係が、どうも怪しい、、、」と感じても、大人の男性として、
「ちょっと待てよ。少し様子をみてみよう。自分の思い過ごしかもしれない。そうでなくても、しばらくすれば、二郎も良い相手を見つけて家を出ていくだろうからそれまで待とう。」と思えなかった一郎。
やはり、知識人でも心は5~6歳の幼児だったのかもしれない、とさえ思える。
現に二郎は、友人の三沢から勧められて、見合いらしきものを経験している。しかも、その女性は見目麗しく二郎はこの女性のことが気になりだしてもいる。ここが二郎の調子の良いところだ。
そんなこととは露知らず、自分で自分を追い詰めていく一郎。お気の毒です。この物語は、二郎の結婚までは描いていないので、読者の想像に委ねているのかな。
長編だったこの小説を読み終わり、高校生だった頃読んだときと違うのは、「この登場人物はこの人に似てるかも。」などと人生経験で重ねられたことだ。妻・直がいなかったのは残念だったが、また長い人生では出逢えるかもしれない。(「行人」にみる恋愛論・【終わり】)