Travis Japan(通称トラジャ)川島如恵留くんのソロコンサート"のえパラ"における「名脇役」(Sexy Zone)の演出から考えるジェンダー
2020年8月1日のSummer Paradise2020俺担ヨシヨシ自担推し推し緊急特別魂の川島如恵留ソロコンサート(通称”のえパラ”)が終わりました!!(このクレイジーなタイトルも、トラジャメンバーのソロコンサートの終盤に近付くと若干名残惜しいな...)
如恵留くんの歌とダンスのパフォーマンススキルの高さ、演出、手話、トーク、そしてグループやファンへの愛情を存分に感じられた公演でした。
あまりに圧倒されて未だに余韻が全く抜けないので、のえパラの感想をポチポチ打っていたのですが、この「名脇役」の曲についての感想が異常な程長くなってしまったので、この曲については別のブログ(noteだから記事?)として纏める事にしました。
では始めましょう。
①パフォーマンスについて
演出について話す前に、まずはこの「名脇役」という曲と如恵留くんのパフォーマンスについてお話させてください。
この「名脇役」は、今回ののえぱらで新しく知った曲の中で、好きな曲トップ3に入る曲です。
元々Sexy Zoneの曲でこういう曲があるという事自体は知っていたのですが、ちゃんと曲を聴いたのは初めてでした。
ものすご~~~~~~く綺麗で素敵な曲!!!!
ピアノ伴奏を如恵留くんでなく他の人がする事によって、如恵留くんの表現力が更にステージ上に表れるようになって、その表情に、身体の動きに、ずっと弾きつけられました。
如恵留くん、元々自身を「愛の重いタイプ」と色んな媒体で言っている様に、他者に対する思い入れが非常にに強い人なのもあって、この曲の歌詞内容や表現と如恵留くん自身の姿がとてもマッチしていて、映画の1シーンか何かを見ている様な気持ちになりました。(特に、「忘れさせてもくれなくて、むしろ忘れたくなんかないって」と歌いながら身体をくの字にして苦しみを表現するところと、終盤の「何にも知らないくせして、どうしたのなんて聞いてくんな」を歌い上げる時の如恵留くんの苦しげな表情が、あまりに素敵すぎて忘れられません)。
あとは、もう今まで何万回も如恵留くんのパフォーマンスに抱いてきた感想ですが、本当に本当に歌が上手い。
如恵留くんの透き通った綺麗な声は、人前で喋ったり歌ったりする仕事に本当に向いているなぁと良く思うのですが、それに音程の正確さや肺活量の多さ等色んな要素が加わるのもあって、本当に本当に歌が上手い(2回目)。
トラジャで歌を歌う時も、如恵留くんのパートやハモリ部分を聴く度「上手い…」と感じるのですが、特にソロで最初から最後まで1人で歌いきる曲だと、更に歌の上手さが如実に出て、本当に綺麗、本当に本当に歌が上手い(3回目)。
本当に人を惹きつける表現をする人だなと、あらためて感じました。
② 演出について
ここからが本記事のメインテーマです。
配信直後に似たような事をTwitterで呟いているトラジャ担の方も見かけたのですが、今回の「名脇役」における演出って、ジェンダーの面から見てとても興味深いなと私は思いました。
配信を観ていない方向け、又は既に記憶が曖昧になってきた方向けに説明すると、この曲ではステージ上に3人の人が出てきます。
1人目は勿論如恵留くんで、仲良い友達である「君」を好きになり、その人に対し自分の想いを打ち明けられず切なさに苦しんでいる「僕」を演じ、この曲を歌います。
2人目は少年忍者の青木くんで、彼は歌詞に登場人物としてではなく、この曲のピアノ伴奏役としてステージに出ています。
そして3人目が、少年忍者の檜山くんです。
如恵留くんは曲の間中何度も檜山くんの方を見ながら歌を歌い、檜山くんの方は全く如恵留くんには気づいておらず、如恵留くんの方は見ていない、という演出です。
この演出、そのまま捉えると、如恵留くんが演じる「僕」と、「君」である檜山くんとの間の物語だと考えられ、「男性である「僕」(如恵留くん)が、同姓であり親友である他の男性(「君」)に対して抱く想いを、その相手に伝える事が出来ずに苦しんでいる」という解釈をする事が出来るんですよね。
そう捉えると、何故この主人公の男性「僕」(如恵留くん)は、友人である「君」に対して自分の想いを伝えられないと感じているのか、その説明がより付きますね。
(勿論、同性愛=相手に想いを伝えられず葛藤して苦しむ悲しい恋愛、になる訳ではないですし、「僕」が「君」に自分の想いを伝えられないのも、性別ではなく他の理由があるのかもしれません。ここに関しても様々な解釈が成り立ちます。)
勿論、サマパラはジャニーズコンサートであり男性しかステージに立たないから、単にバックについてくれている少年忍者の1人に「君」の役を演じて貰っただけであり、「君」の役を男性が演じているという事に、特に深い意味は全く無いのかもしれません。
もしくは、如恵留くんが見つめる先の檜山くんは「君」ではなく、もしかしたら、「好きな人に想いを伝えられず苦しんでいた過去の『僕』」であり、檜山くんは如恵留くんの単なる昔の姿である、という捉え方も考え方によっては可能なのかもしれません。
でも、これはあくまで私個人の捉え方ではあるのですが、如恵留くんがあんなにも苦しい表情で「君」に対する切ない想いを歌い上げる際は檜山くんの事をずっと見ていた事、見つめる先の檜山くん自身は1人無邪気に振る舞っており何かに苦しんでいる様には見えなかった事、檜山くんが曲中に手に持ち時折読んでいた本は実は檜山くんと如恵留くんがのえパラ準備期間中に実際にやりとりしていた交換日記であった事、そしてこれまでの如恵留くんの各種媒体での性別についての発言を踏まえると、今回も如恵留くんなりのこの曲に対する解釈や、如恵留くんとしてこの演出に意味を含ませて、「君」役をステージ上に置かず如恵留くんとピアノ伴奏の青木くんの2人だけステージにいる演出ではなく、あえて生物学上の見た目が男性である檜山くんを「君」役に見立ててステージ上に登場させたのかなぁ…と思うのです。
本当私が個人的に推測しているだけではありますが。
如恵留くんのジェンダーに関する発言については、ファンの間においても時折話題になっていますよね。
去年8月下旬に如恵留くんと松田元太くん、松倉海斗くんの3人で名古屋でラジオ生放送のお仕事をした際、目の前にあるしゃちほこを3人とゲストの男性が口説くコーナーで、「しゃちほこを女性に又は男性に見立てて(口説きます)」と説明し、「男性...?」とどよめき笑いの起こった観客からの反応を受け、「愛の形に性別はありませんからね」と付け足した如恵留くん。(まぁ口説く相手はしゃちほこなんですが...)
同じく去年の12月21日放送のNHKらじらー!サタデーに、メンバーの宮近海斗くんの2人で出演した際、リスナーからの「男性ファンのことをどう思いますか」というお便りに対して「男性とか女性とかって分ける必要って無いと思うんですよ。」「自分が本当にこれが好きって思っていることとか人とか相手とか、そういうものに対してそういう壁って僕要らないなと思っているんですよね。」と話した如恵留くん。
今年2月、Music StationにTravis Japanがメインアーティストとして出演した直後ののえまる(ジャニーズwebに掲載されているブログの名前で、6月以前は月1更新、7月以降は不定期更新されています。ちなみに如恵留くんは毎日欠かさず更新しており、実質的に「定期更新」となっています。月額300円強で登録すると全ジャニーズタレントのブログを読めるのですが、如恵留くんのブログは非常に面白いので、興味ある方は一度登録してみて下さい。説明が長くなりました。)で、番組で披露した「愛のかたまり」という曲について、「”愛のかたまり”をしることで、愛の形は様々であることの重要性を知り、自分なりの愛の形をもつことに、なんのしがらみもなく生きていける世界を学ぶ」と表現した如恵留くん。
恐らく如恵留くんにとって、性別というのは単なる属性でしかなくて、人の志向やあり方を決めるものではないと考えているんだろうな。
如恵留くん自身、2018年7月にのえまるで自身が下ネタが苦手でありどうやったら克服できるのかファンに相談していたり、昔コンサートで混浴の話になった時に「如恵留が苦い顔してる」「紳士ぶんなよ!」と言われてからかわれたりしたみたいだから、なんとなくだけど、「男性は下ネタで盛り上がるのが好きなのが普通であるし健全、という価値観を前提とした社会で、男性として生きる生きづらさ」みたいなものをひょっとして感じたりしてるんだろうか...と私は勝手に思ったりしているのです。
(まあでも去年のサマパラ2019で自らオープンスケベ発言していたり、Jr大賞の「一番スケベ部門に投票しました」というファンからの声を受けて、「ニュースキャスターになりそう(部門)といちばんスケベ(部門)でどっちも1位が取れていたらそれってきっと歴史に残る快挙」だから「書こうか迷っている人がいたら、いまからでも川島如恵留に書き換えに行こうかっていうくらい」と書いていた位だから、私の単なる杞憂かな?とも思ってます。如恵留くんも恐らく色々考えて試行錯誤しているのでしょう、きっと。話が逸れました。スケベから離れましょう。言い出したのは私ですが。)
(ちなみに、如恵留くんがコンサートでからかわれたくだりついては、私は実際にこのやりとりを見た訳ではなくレポで文章として読んだだけなので、実際にどういった雰囲気でこの様なからかいが行われたのかは分かりません。ただ私がこのレポを読んだ時、私自身がかなり傷ついた悲しい気持ちになりました。
再び話が若干逸れてしまいますが、私は大学時代、周りの女友達の身体的特徴や性交渉の有無そして自分達自身の性欲等の、割と露骨な下ネタを言う男性が周りに多くいて、女性の身体を記号の様なものとして扱う様な言動に度々傷ついた経験があるのですが、それに対して「春ちゃんは下ネタ耐性がないからね〜」といった、まるで、下ネタを楽しむ事が出来ないこちら側に非があるかの様な言い方をされた事も多くて。
人の身体的特徴だったり性経験というのは、他人が面白おかしく冗談のネタにして良いものでは無い筈なのに、何故か「下ネタをいう男性とそれに付いて行ける女性」は”良い”もので、「それに不快感を示す人」は、それが女性であれば”耐性が無い””女性はそういう冗談が不快ものだから”で済ませ、それが男性であれば”(男であるあいつは当然下ネタが好きな筈なのに)下ネタに参加せず不快感すら示すなんて本当は嘘だろ。本当は好きなんだろ。”といった様に、他人の感情を一蹴する様な言動がなされてしまう空気に、学生時代の私はとても強い不快感と違和感を感じていました。
下ネタに限らず、何らかの理由で人が不快感や悲しさ、辛さといったマイナスの感情を抱いた際、例えその気持ち自体が自分には共感できない類のものだったとしても、その気持ちは尊重されるべきであるし、そういった他者の気持ちの尊重こそが他者の人格の尊重に繋がるのではないかなと私は強く信じているのですが、そう思い始めるきっかけとなったのは大学時代のこうした出来事でした。
なのでこのコンサートのレポを読んだ時も、(混浴ネタ自体は私の中では下ネタには該当しないトピックですし、一般的にも恐らくそれ程多くの人が不快感を感じる話題ではないのかなとは思うものの)、不快感を感じた理由はどうであれ、如恵留くんがその場の話題について不快感を感じている様子なのであれば、その気持ち自体は尊重してほしかったし、同じように嫌な気持ちになっていた観客がその場にいたかもしれない可能性についても思いを馳せてくれたら良かったな...と感じました。)
脱線が長くなりました。話を戻しましょう。
さて世の中には、見た目の性別や年齢等に基づいた一定の価値観が、「普通」「自然」だと見なされている事が非常に多いです。
「若い人は恋愛に興味があるのが普通だし、男性として生まれているのであれば恋愛対象は女性だろう」という価値観、「恋人間においては男性がリードすべき(デートは男性が多少なりとも奢るべきであるし、手を繋いだりキスをしたりするのは男性側からするのが普通である)」という価値観、「普通男性は同い年か年下の女性と付き合うもの」(だからあえて女性側が年上の設定時には、「年下彼氏」といった、年齢差にスポットをあてる言葉が使われる)という価値観。
そして雑誌やテレビ等の各種媒体では、性別や年齢に基づいたこうした様々な価値観に沿って、様々な質問がアイドルに対して投げかけられます。
例えばこれまでアイドル誌で数えきれない程見てきたであろう「好きな女の子のタイプは?」という質問は、「みんな他者に対して恋愛感情を持っているだろうし、ジャニーズアイドルは男性だから当然その対象は女性だろう」という前提に基づいていますよね。
恋愛観もアイドルが持っている価値観の重要な1つですし、それに関する質問をする事自体は別に悪い事では無いのですが、あまりにも毎回一定の価値観に縛られた質問ばかりがメディアによって発信されると、その発信された情報を受け取る側の消費者も、その一定の価値観を「普通」「自然」なものだと無意識のうちに自分の中にインストールしてしまうんですよね(前述の質問の例でいうと、「男性に対して『好きな女性のタイプ』を聞くのは普通、自然なこと、ひいては「男性は女性が好きなのが普通、自然なこと」という価値観です。)。
ポイントとしては、「無意識のうちに」というところで。
メディア側が何かを発信する際、「こうでなければいけない」「こうじゃなくちゃ普通じゃない」という価値観を明確には述べていないものが非常に多いのですが、同じ様な情報だけずっと受け取っていると、余程自分が気を付けていない限り、人はその受け取る情報を「普通、自然」の基準にして、時折それにはまらないものに触れると「普通じゃない」と感じる様になってしまうんですよね。
(再び脱線してしまって申し訳ないのですが、私は、恋愛に限らず、テレビや雑誌、公共交通機関内の宣伝広告等のメディアによって、人が無意識に一定の価値観を刷り込まれてしまっている現代社会の状況は本当に良くないと思っています。例えば「女性」「年齢」「容姿」という分野で考えると、雑誌を開いても都心のバスや電車に乗ってもテレビのバラエティ番組や情報番組をつけても、そこには「若く美しくスタイルの良い女性が、冬でも肌を露出しきっちり綺麗にメイクを施しファッションに沢山の時間やお金をかけ、いつも明るい笑顔でにこやかに対応するのが普通であり自然」という一定の価値観を刷り込む様な情報や宣伝広告に溢れていると感じます。
他にも「女性を性的客体としたエロ漫画、エロ本がコンビニ等の日常目にする場所に溢れているのは普通だしそれを男性が読むのは健全なこと」「政治・経済分野のトピックは男性が語り、子育てや生活に密着したトピックは女性が語るのが自然」「共働きで本来同じ位の忙しさの仕事をしている夫婦であっても、家事育児に対する第一次責任はまず女性側にあるのが自然であり、男性側は当事者ではなくあくまで『手伝う』側であるのが普通」というものや、テレビ番組等でよくある「偉い雰囲気を醸し出した中高年男性がメイン司会で、隣の若い綺麗な女性はそのニコニコしながらそのサポートにあたるが、数年ごとに交代させられるのが普通」というもの、他にも「家族」や「子供」という分野で考えれば、「お父さんとお母さんが両方いて離婚せず家族ずっと一緒にいるのが普通・望ましい」、「家族なんだから分かりあえるはず」、「女性には母性本能があるのだから、無条件に子供を可愛く思うしどんなに大変でも無償の愛情を注げるはず」「手間暇かけて凝った料理を作るのが愛情の証であり普通なこと」「子供は友達と一緒に遊ぶ事が好きなのが普通」といったものでしょうか。
特に東京は、バスや電車等の公共交通機関における宣伝広告がこれでもかという位溢れていて、毎日の通勤通学時に何かしらのメッセージや情報を受け取る事になってしまいます。心身ともに元気な時は何も感じないのですが、仕事等で疲弊して心の防衛力の様なものが低下していると、私は駅を使う事ですらしんどく感じてしまう事が多かったです。今は東京から離れた場所に住んでいるのですが、バスや電車そして駅構内の宣伝があまりに少なくシンプルで驚きました。バス内の広告なんて10個も無い位ですし、窓にも宣伝が全く張り付けられていない。非常に雑音フリー。
脱線が長くなりました。元々の話に戻ります。)
メディア側が同じ様な情報をずっと受け取っていると、無自覚に、いつの間にかその受け取った情報を「普通、自然」だとして自分の中の基準としてしまう、という話をしていました。
問題なのは、大抵の場合こういった基準は、その基準にあてはまらない人を否定する価値観になっていたり、人に一定の「〇〇せねばならない」という強迫観念を与えたり、人や組織その時その時にベストな選択肢を選ぶ際の大きな障害になってしまっている事だと思うのです。
例えば「恋愛」、その中でも「同性愛」について見ると、「男性は女性を好きになるのが普通、自然」という基準は、世の中に一定程度存在する同性愛者の方や無性愛者は「普通でない、不自然」という否定に繋がりうるものとなります。
なので、自分が何か情報に接する時は、自分がそのコンテンツから受け取る情報に含まれている価値観を吟味して取捨選択するという慎重さが必要になってきますし、テレビや雑誌、書籍やエンターテイメント等のそもそもの情報発信側も、もっと多様な価値観や多様なケースを前提とした情報を発信してほしいな、と思うのです。
話をのえパラの「名脇役」の演出に戻します。
今回のこの演出は、特段「同姓愛」自体にスポットライトをあてたものではなく(そもそもそうじゃない解釈の余地もありますし)、あくまで「友達である相手に想いを伝えられない苦しさ」に焦点が当たっているのですが、こういった演出をその様な形で、さらりと自然にやってくれた事がとても良いなぁと感じたのです。
最近は、「同性愛」をテーマにした映画やドラマ等の作品が多く出てきています。世の中には様々な性的指向がある事に光が当てられてきている事は、非常に良い事だと思っているのですが、やはりまだ「同性愛」自体が特殊なものである事を前提とした、「同性愛ゆえの苦しみ、葛藤」の面に大きなスポットライトが当たっている事が多いんですよね。
私がメディアに求める理想的な情報発信の形としては、「異性愛であっても同性愛であっても、恋愛には素敵な面と苦しい面、色々な面があるよね。そしてそこに性別は関係ないよね。」という、性別に縛られない価値観をあくまでさらりと自然に発信する形です。
そして今回の「名脇役」の演出は、「僕」の「君」に対する想いが「同性愛」であるからこその苦しみも勿論あると思いますが、「異性愛であっても同性愛であっても自分の気持ちを素直に相手に伝えられない苦しみは同じように存在しており、たまたま今回はそれが同性愛であった」という捉え方が出来る事にこそ、最大の意義があるのではないかと感じました。
私の心の中には、これまで数十年間にわたり数々の漫画やアニメ、ドラマや映画、小説に触れてきた中で「男性が男性に恋心を抱くのは普通でない、自然ではない」という価値観が根付いてしまっているので、この演出を最初見た時に、「え?檜山くんに対して如恵留くんが片想いをしているの?男性同士??いやいや私の捉え方が違う??」と色々頭の中で考えてしまったのですが、次にどこかで似たような演出に接した時、恐らく私は今回程その演出に対して違和感を感じる事は無くなると思うのです。
単純に素直に、「君」の性別が何であれ、「あぁこの曲の主人公は好きな相手に対する想いを上手く伝えられず苦しんでいるのだな」と、性別に関係なくその演出をより自然に捉えられる様になるんじゃないかと思うのです。
というのも、私は、「その人がそれまで接してきたものの平均値が、その人にとって『普通』『自然』になっていく」と考えているので、これまでと異なる考え方や価値観に触れた時、最初は大きな違和感を感じたとしても、似たような経験を積み重ねていくことによって、少しずつ自分の中の平均値が変わっていき、自分にとっての「普通」「自然」の幅が大きくなるのだと考えています。
その結果、他者へのジャッジメントが少なくなり色んなものをありのまま受容できる様になる事で、生きづらさを感じる人が減ったり、自分や周りによってベストな選択肢を躊躇なく選んでいける様になっていけるんじゃないかな。
丁度、5月ののえまるで、如恵留くんが「“普通”の幅を拡げてみてください!」「大きくなった”普通”を持っていると、どんな事も受け入れられるようになると思います。」と書いていた様に。
今は男性同士の恋愛ものは「腐女子」といった言葉から表される様に「腐」ったものとして特別視されて扱われる事も多いですが、そのうちそれも「普通」「自然」なものとして捉えられるようになると、世の中は更に優しい場所になるんじゃないのかな。
(まだ脱線しますが、そう考えると、自分が他者と関わる中で、相手の言動に違和感を感じた時や「そうじゃない」と感じた時は、少しだけ勇気を出してその考えや意見を表現してみる事って、とても大事なことなのではないかと思うのです。
そういった場面でモヤモヤをスルーしてしまうと、その相手にとってその時点で持っている「普通」「自然」はそのまま何の変容もなく続いていき、またいつか他の誰かを傷つけてしまう可能性が高いけれど、自分が勇気を出して「自分はこう思う」「こういう考え方もありなんじゃないか」と言ってみる事で、その相手にとって「普通」「自然」の幅が広がりうる可能性が大いにあるのではないでしょうか。
以前職場の人と話した時に、「自分は娘や息子と話して、彼らから『お母さんそれは差別じゃない?今はこういう考え方もあるんだよ』と言われる事で、それまで自分が無意識に持っていた男女差別意識といった古い価値観に気づいてそれを修正する事ができた」と言っていた人がいたのですが、こういうのも、もしもそのお子さんが『自分の親は差別的だな…』と違和感を感じたままそれを何も口に出さないままだったら、そのお母さんの価値観はずっと変わらないままだったと思うのです。
私自身は子供の頃から、感じた違和感を口にあまり出さないタイプの人間だったのですが、今は出来る限り1つ1つの場面で言い方に気を付けながらも、少し勇気を出して自分の考えを言ってみる様にしています。まだまだ難しいことも多いけどね!)
1つの曲の演出から、まぁまぁな長文記事となってしました。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございます。
今回私がこの演出に対して抱いた解釈や意見は、勿論私個人の主観的なものなので、人によって色んな考えや意見があるのだろうなと感じます。
もしも元々この曲の演出について考えや意見があった方は、いつか何かの機会にその考えを知る事が出来たら嬉しいなと思います。
そしてこの記事のうち、曲の演出以外の部分について何か考えた事、感じた事がある方は、それもまたいつか何かの機会にお話できたら嬉しいなと思っています。
あらためて、如恵留くん、とても素敵な演出とパフォーマンスをありがとう!!! 青木くん、檜山くん、素敵なピアノ伴奏と演技をありがとう!!
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