美しさに見惚れる。
自分の美しさにハッとする。
そんなことを言うと、周りが赤面するほどに自分のナルシズムを実感する。
が、私が言いたいのは自分の容姿がいかに美しいかという話ではない。
私は私の生き様がふとした表情に現れた時に
ハッとするほど自分の美しさに見惚れてしまうのだ。
|電車に窓に映る私の美しさにハッとした
ある日の仕事帰り。
地上から地下鉄へ入る日比谷線に乗っていた。
外の景色が地下に映ると、吊り革に捕まって立っていた私の顔がふと窓にくっきり浮き出る。その顔を見て思わず自分の美しさにハッとしてしまった。
メイクなんぞ下地と眉毛だけ。髪も適当にくくっただけ。
着ていたダウンは襟にシミがついていて、そろそろクリーニングに出さなくてはなと考えていたものだ。全身のコーディネートはおしゃれを度外視した完全防寒コーデである。
なのに真顔で立っている私はどことなく生気に満ち溢れている。
肌つやも良い。よく寝たからかな。
…と、同時に思い出した。
20代半ばの頃、通勤時に満員電車に揺られている自分のあの頃の顔は相当に疲れていて年齢に見合わずとても老けていたなと。目の下のクマもひどく、でもちゃんと寝ている。なのに疲れを感じるような顔だった。
美しいなんて微塵にも思わない。
私、不細工だなぁ。と、諦めに近い気持ちで電車に揺られていたあの日のことを。
今も昔もそう大差がないのに
私の感じ方が大きく違うのは何故だろう。
それはきっと、生きることに自信がついてきたからだと思う。
|自分の生き方に責任をとる
20代の頃は自分の人生に自信の一つも持てなかった。
私以外の周りは“ちゃんと”しているから。
フリーランスなんだか、フリーターなんだか
わからない毎日を過ごして
好きなことを仕事にしているつもりでも、実家暮らしという事実が自立できていない自分の至らなさを痛感させていた。
普通になれない私。
かといって泥水を啜る覚悟もない私。
自分の生き方にまるで責任が持てなかった。
…と、思っていた。
けれど、そんなうやむやな20代を経て、30代の今。
当時の私を今の私の視点で見て投げかけたくなる言葉は
「よくやってるじゃん、私」
「その葛藤が、今の私を作ってるよ」
「諦めないでいてくれてありがとう」
この言葉に尽きる。
実家暮らしだろうと
周りに比べて出遅れていようと
私が私の理想とする働き方を諦めずに探求していた。
お金なんてすぐに稼げなかった。
惨めだなと思うこともあったし、人に言われた。
それでも、運命を切り開くために行動した。
失敗した、そしてもう一度行動した。
自分の生き方に責任を取るっていうのはね
自分の望む生き方を実現するために諦めないっていうことなんだ。
そうして少しずつ理想を形にしていった今。
私は20代の頃よりも活き活きとした表情で今を生きている。
そしてその顔に自分でも目を奪われるくらい
美しいと思ってしまうんだ。
|やり続ければカタチになる
経験がなくともやり続ければ何かしら形になる。
このことを実体験レベルで理解しているか、していないかでは後の人生に大きく差が開くと思う。私は決して頭の良い人生の歩み方をしているわけではない。むしろ、人生の歩み方としては遠回りしている部類の人間だ。
もっと要領良く生きていけたならば、大学に進学し在学中に社会人コミュニティに参加したり、ビジコン出してみたり何かしら社外の人間と学部内のコミュニティ形成に尽力しただろう。そして、20代半ばで起業をして30代半ばの今は会社を法人化させたりできたのかもしれない。
いや、私はそもそもそんな人間ではないので
ifの話をしてもこうはならなかったかもしれないが。
ただ、何事においても誰でも継続すれば形にはなるものだ。
これに関しては絶対的な自信がある。
私が20代で続けたことは“書き続けたこと”だ。
おかげでライターとしてのキャリは確かなものとなった。
何か一つ、成功体験が生まれると自信になる。
自信を持てると表情に出る。表情に出ると美しくなる。
美しくなると人を惹きつける。人が人を呼んで新しい挑戦が生まれる。
というプラスのスパイラルが出来上がる。
仕事もパートナーシップも同じことが言える。
20代の顔は、自然の贈り物。
30代の顔は、あなたの生き様。
50代の顔は、あなたの功績。
心の師であるガブリエル・ココ・シャネルの名言の一つであるが、まさにそうだなと実感する日々だ。
美しさとは造形のことではない。
美しさとは知性であり、品格であり、生き様だ。
その生き様という名の美しさに磨きをかければかけるほど
のちに大きな功績を作ることとなる。