公認不倫。それは新しい時代の幕開けか。
公認不倫。夫婦が互いに、もしくはどちらか一方に公的な恋愛関係を結ぶパートナーを容認すること。つまり、不倫を認め合う夫婦のことを指す。
これについては、賛否両論さまざまな意見があるだろう。男女の友情は成立する・しない以上の水かけ論が生まれるので、あえて私はここでその是非を問うつもりはない。しかし、つい先日のクリスマスイブ。無事に離婚届を出し、夫と正真正銘の離別を果たした私が改めて感じる「公認不倫」というものについて、少し話したいと思う。まずは本題に入る前に私が離婚をした経緯から紹介しよう。
| 離婚、アリかもしれない。
離婚を思い立ったのは2019年の1月。ちょうど1年近く前のことである。これと言って、明確な理由があったわけではない。だからこそ、なぜ離婚する必要があるのか?と再三、両親や友人からも言われてきた。
強いていうなら、人生の根幹である生き方が真逆過ぎたことが原因だ。「結婚生活」という言葉に対して、あなたはどういうものだと捉えるだろうか?夫婦二人で、良いときも悪いときも助け合っていくこと?それとも、平々凡々だけれども安定した暮らしを築いていくこと?夫と私は、この結婚生活に対する考え方がまるで違うということがわかった。
夫にとって結婚生活とは、平和の象徴で、お金をしっかり稼いで嫁子どもが何不自由ない暮らしをすることだと言う。私にとっての結婚生活とは、決して平和の象徴ではない。むしろ今後起きるであろうあらゆる人生のトラブルを、どう二人で乗り越えていけるか切磋琢磨し合うような関係を想像していた。
こうなると「波風を立てたくないから話し合いに応じない夫」と「結婚生活をより良くするために話し合いで理解を深めたい嫁」の考えが衝突するのだ。3年間の結婚生活、色々あったけれど離婚を視野に入れた大きなキッカケはここだったと思う。
|離婚できると確信した、些細な出来事
とはいえ、離婚を視野に入れた話し合いをしたからといってすぐに離婚を決められるものでもない。夫にも私にも離婚を決める覚悟と心の準備が必要だった。なので、一度は結論を保留にして半年間、互いに離婚について考える時間を設けた。
話し合いが出たのが1月だったので、リミットは6月。じっくり悩んだ。離婚をした後の仕事や生活、自分にはもうパートナーができないのではないかという不安、夫と離婚をした後で後悔するのでは?という恐れもあった。本当に正しい決断ができるかどうか、1週間先の自分の生活さえ不確かにすら感じた。そんな中、離婚をしようとあっさり決められた出来事があった。
それは、ある男の子との出会いだった。彼は7つ年下の若い男。もちろん、あまりの若さに最初は彼を恋愛対象にすら見れなかったし、その場かぎりの出会いで終わると思った。しかし、年下の彼は何がよかったのか知らないが思いの外、私に懐いてきた。素直に懐かれると、なんとも可愛いものがある。純粋にその好意が嬉しかった。と、同時に「30歳をすぎ、所帯じみた私を見ても『キレイ』という褒め言葉をくれる子が1人でもいるのか。人生は捨てたものじゃないな」と心底、感謝した。
ほんのちょっとした出来事だが、そのことが私の背中を大きく押してくれたのだ。彼が本気で私を褒めてくれたかどうかなどはどうでも良く、嘘の言葉であったとしてもその一瞬の出来事ひとつで自分の未来にちょっとした希望を持てた。そして、今なら離婚できる。たとえこの先、生涯独身になったとしても。そう思えた。意外にも大きな決断は、ほんの小さなキッカケによって動くものだな。
|公認不倫という狡い考えがよぎる
私の場合、離婚理由は不倫などではない。だが、皮肉にも離婚を決める直前に新たに胸をときめくような出会いがあったことで1つの狡い考えが頭をよぎった。それが、公認不倫だ。
先にも伝えたが、夫との結婚生活そのものは何不自由なく暮らすことができていた。夫は家事を私に言われずともやるし、夫との毎日の暮らしに不満はない。不満があったのは、夫の生き方、人間性、在り方、男としての甲斐性のなさだ。それは言い換えると、人としては嫌いではないが、男として好きにはなれないというもの。だが、その状態で結婚生活を続けるとなると苦しいものがある。まず、子どもは望めない。なぜなら触れられたくないから。さらに、恋のときめきもなく淡々とした生活をあと数十年も続け、好きでもない男と暮らすなんて拷問でしかないと思った。
でも、待てよ?
夫とは日々の暮らしを淡々と続けながら、恋愛はよそで楽しめばいいのか。自分がそのスタンスをOKとする代わりに夫の恋愛も容認すればいい。そうすれば離婚をせずとも安泰な暮らしを確保しながら、時々刺激も味わえると。世の中にはびこる固定概念を壊してしまえば、途端にストレスフリーな生き方ができるではないか!そう感じた。
......が、これは詭弁だ。
まず、夫がそれを許すかどうかだし、許したとしても恋愛相手であるパートナーがそんな自分だけリスクを負わない都合のいい関係を望むとも思わない。ただ今回の場合、私が心をときめかせた相手である7つ下の男の子は、立場的にも結婚をまだ考えられないような年頃なのである意味で都合の良い関係を築くにはお誂え向きな相手ではあった。でも、不誠実さ極まりない間柄にしたくはなかったので提案どころか、一瞬だけでもそんな狡いことを考えた自分が恥ずかしくなった。
しかし、公認不倫に需要があることは間違いないと、この時、この瞬間、自分の身をもって知ることになる。難しいが条件さえクリアできたら、安寧な暮らしに加え刺激的で甘美な生活が待っているのだから。
|公認不倫は円満夫婦が選んだ苦肉の策?
もう少しだけ、公認不倫ついて深掘りしたいと思う。私の場合は、子ナシ夫婦であるため世の夫婦に比べればいくらか自由度が高い。それでいてお互いにまだ30代前半という若さ。やり直しがいくらでもきくのだから、他の離婚ケースから比べれば割とイージーモードでオサラバできる。
しかし、これが子どもを持つ夫婦の場合。当然自分らの意志ひとつで簡単に離婚は決められない。結婚生活に全く不満はなく唯一、性生活に不満があるという夫婦も離婚を決めきれなくて深く悩んでいるであろう。このほか、親の介護やらパートナーの病気、怪我など大小諸々のしがらみがあるケースも。
そう、離婚というのは決して簡単にできるものでもないのだ。私はかつて「嫌なら離婚すればいい」と思っていたが、実際に結婚して思うのはそんなに簡単に離婚を選ぶことができないという実情だった。上記で説明したようなしがらみがなくても、ただ自分の戸籍に「バツ」がつくというだけでかなり抵抗はある。バツイチ、バツニは世にごまんといれど、いざ自分がその当事者となるとその重みは違う。もう今の世の中、バツイチを「結婚に失敗したヤツ」と認識する人もそうそういないが、いかんせん当の本人が「失敗した」というレッテルを自分に貼るのだ。誰も結婚に失敗したくてしているわけではない、よほどの理由がない限り踏み切れないのが離婚なのだ。
公認不倫はそうした、色んな理由があって離婚を選べない人が編み出した円満な結婚生活をするための苦肉の策のようにも取れる。結婚生活を無理に続けることが正解ではないが、愛がなくとも結婚生活を続けるしかない人にとって公認不倫というシステムは非常に有効なガス抜きとも言えるだろう。
元来不倫嫌いの私でさえ、こういう条件下の中で思わず色んなことをうやむやにして「公認不倫」という形でそれぞれの関係をおさめる手段を考えてしまったほどだ。人は自分に甘く、都合が良いからモラルを盾に正論を振りかざしても、なんの意味もない。やっちゃう時は、やっちゃうんだ。公認不倫は場当たり的であろうとも、一縷の望みをかけた「幸せな未来」のための解決策にも見えてきた。
| 結論、公認不倫を選ばなかった理由
私の場合、公認不倫を夫に持ちかけようと思えばできた。それらしいメリットをうまくプレゼンすれば夫も公認不倫に承諾する可能性も十分にあり得たし、恋の相手として白羽の矢を立てた年下の男の子からしても、私が離婚するより不倫関係を続けたほうが、多分気持ち的には重たくないだろうとも思えた。
でも、結果的に私は夫にも懐いてくれる年下の彼にもそんな話を持ちかけることなく「離婚」する道を選んだ。理由はたった一つ、不誠実な自分を到底、好きになはなれないと思ったからだ。
いくら夫がOKを出したとしても、いざ自分の妻が堂々と不倫をしていたらどう思うだろうか。同時期に自分にも可愛い彼女ができれば何も思わないかもしれない。が、彼女がいなけりゃ随分と面白くない話だ。「誰がお前の生活を支えてやってるんだ!」と、野次を飛ばしたくもなるだろう。そうなればもう、円満だった結婚生活は余計にこじれるばかりだ。それだけではない。もちろん、年下の彼に対しても不誠実だと思ったからだ。
年下の彼の私に対する気持ちは、火遊びをしたいというものではなかった。少なくとも一人の人間として好いてくれて大切にしたいという気持ちが彼から毎日送られるLINEや電話で感じ取られた。もし遊びたいだけの関係であったとしても、私がそうじゃないと思うのならその時点で私が不誠実な態度を相手にとって良いはずはない。どちらに対しても至極単純な話、公認不倫は厚かましいほど自分にとって都合の良い話だと思ったから口にすることもはばかられたのでやめたという話。
でも内心、魅力を感じないこともなかった。
もっと事情が違えば行動に起こしたかもしれない。
だから否定はしないけれど、私にはできないと思った。
|公認不倫は超難関な条件をクリアせねばならない
結論、私が公認不倫について感じること。
それは「公認不倫」を採用する夫婦があってもいい。
だけど、それは夫婦円満になるどころか、修羅の道をたどることにもなる。そういうリスクを踏まえた上で覚悟を持って臨むものだと捉えている。
その上で私がもし今後の人生で公認不倫なるものを採用することがあった場合、きっとこういう条件を課すであろう。
・夫、妻どちらも互いに恋愛感情がない
・夫、妻どちらにも同時期に恋愛のパートナーがいること
・夫、妻の恋愛パートナーが不倫関係を納得していること
・常に4者それぞれが冷静な話し合いができること
大まかに分けてこの4つの条件が全てクリアすれば、公認不倫制度は円滑に進むと思う。しかし、これはマジで難しい。まずそもそも同じタイミングでそれぞれに恋人ができることがほぼない。どちらかに相手ができたから焦って自分も恋人を作ることはできても好きという感情が追いつかないケースがほとんどだろう。
また、いざ相手に恋人ができればたとえコチラに恋愛感情が全くなくても、全く面白い気分にはならない。それは昨日今日あらわれた恋人では築き上げることのない、夫婦だけの歴史と信頼感があるから。恋愛的な好きはなくても、夫婦としての情があるうちは、パートナーの恋人を容認しようにも全く面白くない感情が働くことは目に見えている。
つまり公認不倫は悟りを開くレベルの高い精神性が備わっていないと成り立たない。それも全員が。いやいや、無理だろう。だって人間だもの。
| 公認不倫、新しい時代の価値観になり得る?
つまるところ、公認不倫というシステムは新しい時代の価値観として浸透して行くのか。それは正直言って、いまの段階では浸透しないと私は結論づけている。
先にもいったように、世の中は私を含めそんな出来た人間ばかりじゃないから。公認不倫を容認するということは、夫婦または夫婦と不倫関係にある独身者それぞれに大きな我慢を強いることも多くなるからだ。離婚できるなら、離婚しちゃったほうが本当に楽である。もちろんそれが簡単に出来ないから、公認不倫というものに魅力を感じている人が多いとは思うが......。
とはいえ今後、不倫は悪であるという考えは少しずつ薄れていくだろう。不倫はいけないもの。だけど、いけないものだからやっちゃダメで片付けられるほどシンプルではないことは誰もが知っている。そしてケースバイケースで不倫が生まれてしまう状況下があることも私たちは知っている。
不倫に対する価値観は多少変わるかもしれない。でも、だからといって公認不倫が安易に取り入れられるものでもない。取り入れるなら自己責任でそれ相応のリスクを背負う覚悟と人への迷惑をかけることを踏まえた上で勝手にやればいいという認識になるのかもしれない。否定はしないが、私はやらないし、やれない。
もしやれたらライターとしては非常に面白いネタにはなりそうだが、まだその領域には達せないものだ。