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私、デミロマンティック

LGBTという概念が広く認知されるようになって早10数年。

どうやら知らないうちに最近は
LGBTQIAやLGBTQ +と頭文字の略語が増えている。
人の性嗜好はより細かに細分化されているようだ。

そんな情報を得て、私はこう思った。
『人を愛するっていろんな形があるのだなぁ』と。

と、同時に私はこの件について
どこか他人事な視点を持っていることに気づいた。

でも、私はごく一般的なストレートだから。
LGBTQIAに該当しないマジョリティだ。

すごく偏見的な思考を持っていたことを恥じた。
そう気づいたのは、ふとネットメディアを漁っていてあるキーワードに辿り着き、自分がLGBTQIAに該当する性嗜好を持っていたという事実を目の当たりにしたからだ。というよりも、私が該当する性嗜好にもしっかりと区別的な名前がついていたという事実に気づいたからだ。

異性愛者にも同性愛者ほか、特徴的な性嗜好を持つものと同じように
細かな区分や名前がついていたことをあなたはご存じだったろうか?

|ルックスで好きになるのがわからない。


「結局、彼氏のどこが好きって…顔なんだよだなぁ」
「わ!今すれ違った人、めっちゃイケメン!」
「私、いつも恋愛は一目惚れから始まるの」

仲の良い女友達や同性の知人が時にこんな言葉を漏らす。
その度に私は、はて…という疑問が浮かぶ。

そんなにルックスって大事なのかな?

いや、綺麗事ではなく。見栄を張っているでもなく。
私には顔で人を好きになるというのがよくわからない。

イケメンを認知・区別することはできる。
好きなタイプの顔立ちもあるし、かっこいいと思うことはある。

が、それが好きとイコールでは結びつかないのだ。

こう言うと、一部の人からは
またまたぁ〜!いい子ぶってない?(笑)
なんていうシニカルな反応が出てくる。

そうなのかな、見栄張ってるだけかな。
ちょっと自分を俯瞰して考えてみる。
けど、どう考えてもピンとこない。

歴代彼氏は、いっちゃなんだが
特別イケメンでもなければ、顔の系統はそれぞれ違う。
…あ、いや大体、目が細い人ばかりだったな。

てことは私は目が細い人を好きになるのか?
と言われてもこれも、そういうわけではなさそうなんだ。

じゃあ、私
どこで人を好きになるだろう?

|信頼関係で恋をする、デミロマンティック

私が相手を好きだと自認する瞬間。
それは“この人なら信頼できる”と確信を持てた時だ。

この人は、信頼に値する人だ。
嘘がない、誠実な男で、ユーモアがあって、居心地が良い。
そう感じられた時、初めてその相手への見方が変わる感覚を覚えた。

するとどうだろう。
これまで何とも思わなかったその男の顔が
何倍にも輝いてかっこよく見えて
その男に似た芸能人が好きになったりするもんだ。

私にとって、信頼できるかどうかは
恋愛において最重要項目だと理解した。

そしてそうした信頼や絆を持った相手に
恋をする性嗜好を持つ人のことを
デミロマンティックというのだそう。

デミロマンティックは
相手の性別よりも信頼や絆が強いことの方が重要。
自身の信頼関係の深さによっては、ストレートだった人が同姓に恋をすることもあるのだとか。

そこまでか…と言われればよくわからないが
実は高校時代に身近な同姓の友人に恋をするような感覚を覚えたことがある。

絶対に男でないと恋ができない。
同姓に恋をするのが気持ち悪い。
私にはそういう感覚もないのだ。

時と場合、状況によっては
もしかすると同姓に恋をする可能性もあるのだろうなと
今もそんな風に感じることがある。

|性嗜好は変わる?

とはいえ、今現在の私の立ち位置は
性自認は女で性的志向は男のヘテロセクシャル者だ。
その上で恋愛の傾向である性嗜好はデミロマンティックということだ。

ただ、これは昔からそうだったかといえば
そうも言い切れない。

それこそ小中学生の頃は
相手の性格など特に知らずに
かっこいいと言われるクラスメイトに
淡い恋心を抱いていた記憶もある。

となれば、一目惚れやルッキズムだった過去の自分もいるので
一目惚れする人の気持ちが全くわからないわけでもない。
そういうことも、そういう時期もあるだろうという感覚でいる。

ということは、私は大人になって様々な恋愛を経験し
その上で今の私はデミロマンティック傾向になったのだと思う。
もちろん、昔から人と人の信頼や絆に敏感だった帰来はある。
36歳という年齢になって今、その傾向がより強くなったのだろう。

|キッカケはやはり離婚の経験

人を好きになることに真剣に向き合いはじめたのは
やっぱり離婚が大きなキッカケだったと思う。

それまでの恋愛は好かれれば好きになる。
追われて付き合うというようなもの。

渦中は自分もちゃんと好きだと認識していたけど
今思えば、本当ほ本当に好きかと言われれば疑問が残る恋愛ばかりだ。

離婚は私にとって相手選びを大きく失敗したという経験だった。
相手にとっても悪いことした、家族にも迷惑をかけた。
自分の恋愛なのに、人に迷惑をかけたという後ろめたさがあった。

だから次はちゃんと自分にぴったりの相手を選ぼう。
この人こそはと思う人を自分の意志で探そう!そう決めた。

それ以降、自分と向き合う時間も増えた。
私ってどんな人が好きなんだろう?

色々と出てくる答えを羅列してみるけれど
そしてそれに当てはまると思える相手を好きになってみたけど
結局、パートナーが音信不通になり自然消滅。

次に出会った男とはセフレ関係になったり
次こそはと出会った男は既婚者だったと後になって知った。
ようやく誠実そうな人に出会って付き合ったと思ったら
彼からは「理想の彼女じゃなかった」と振られた。

こと恋愛においては、散々な結果である。
この人なら絶対大丈夫!と、私が信じられる相手がいい。
今の私は強くそう思える相手を探している。

この経験が私の性嗜好を強く形づくることになったのかもしれない。

|区別・区分・名前は、自分を識るためにある

とはいえ、デミロマンティックは
滅多に恋愛感情を抱かないとも記載されていた。
それでいうなら私は該当しないのかもしれない。

簡単に心を許しはしないものの
人からは恋多き女と言われることもあるし
好きな人は常に据え置いていたい一面もある。

ただ、今後誰かと付き合う・結婚すると考える場合
もっと深く、時間をかけて相手との信頼を結んでから
恋愛関係へとステップアップさせていけたらと思っている。

別に恋愛傾向や誰を好きになるかは自由だから
今更自分は、デミロマンティックか否かという
区別・区分する必要もないのかもしれない。

時にそういうカテゴリ分けをすることが
人をそういうカテゴリに分けようとする意図が
その人を苦しめることに繋がるとも言えないしね。

だけどね
私はこのデミロマンティックという性嗜好があると知った時。
すごく安心したんだ。

あ、そうか。
私ってそういう傾向で人を好きになっていたのかも。
…って思うと、他の人のいう恋愛のセオリーに自分を無理に当てはめなくてもいいと思えるから。それに、名前をつけるというのは一種のアイデンティティでもある。

私はデミロマンティックなんだ。

そう言うことで、自分を一つ深く識れたような気もする。
もちろん“今は”そういう気分なだけである。

あなたはどうだろうか。
あなたの性嗜好はどうだろう?
どんな人に恋をして、どんな経験をしてみたい?

そしてLGBTQIAはマイノリティの人のためにある言葉じゃない。
自分がマジョリティだと思っている人にこそ
ちょっと考えてみてほしい。

自分を識るために。



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