信じるとは何か。
この人は信じられる。
時に、人は相手の振る舞いや言動を見て
そう強く確信を持つことがある。
私も幾度となく人を信じてきた。
しかし、信じていても
裏切られたと思ってしまうような出来事は起こる。
その度に深く傷つき、人を信じるのが怖くなる。
恋愛や友情関係は、特にその傾向が強い。
さて、このときあなたは何を思うだろうか。
信じた自分がバカだったと反省する?
いや、自分を裏切った相手が悪いと怒りに身を任せる?
私は、そのどちらも違うのだと
今はそう思うようになった。
信じるとは
相手に対してではなく自分を信じること。
信じた末に傷ついたとしても、良しとすること。
その傷すらも愛する覚悟を持つこと。
決して相手を責めないこと。
相手の考えを尊重すること。
そして、自分を労ること。
そこまでできて、はじめて
人を信じたと言えるのではないかなと。
そう思う。
|信じたいから信じるのでは、ない。
ー好きな人を信じたいのは皆一緒だから、気持ちわかるよ!
友人にこんなことを言われた。
その友人は、私と私の好きな人の共通の女友達で
私たちの関係の経緯を見守ってくれた一人であった。
私は彼の行動や振る舞いに何ら疑問は持っていないのだが
彼女の視点からすると、都合よく私を扱っているのではないか?
という疑いの目がどうにも晴れないようだ。
冒頭の一文は、私の気持ちに対して理解のある言葉に見えるが
実際のところ、彼女は私のことも、私の好きな彼のことも
全く信じていないのだと感じて、少し残念に思った。
というのも、私は
好きな人を信じ“たい”。なんて、思っていない。
彼を信じると決めた自分のことを信じているのだ。
私は私を誰より信頼しているから
彼を好きだと思う私の、今この瞬間の心を信じている。
結果、それで私が思うような振る舞いを
彼がしなかったとしても正直まったく問題はないのだ。
無論、その時に沸き起こる感情は別かもしれないが。
なら、それが分かった時点で
離れればいいだけの話である。
現時点では、離れる理由も信じられないと疑う要素も
私の視点では何一つないのだから問題はない。
このことを友人に何度も伝えているのだが
なかなかどうして伝わらない。
感覚が違うということか。
と、分かってもらうことを諦めた。
結果、彼女には
誰を好きでいるか、どう生きていきたいかは私が決める。
それが私にとっての一番の幸せだから。
と、伝えたら謝罪してくれた。
この私の発言も人によっては
意地を張っているように思われるのかもしれない。
すももは、そろそろ良い年齢なのだから
早く再婚するには、すぐ結婚してくれそうな人を選ぶのが幸せなのでは?
といった枠に人は当てはめたがるものなのだ。
その枠外にいる人間は不幸そう…というフィルタが
潜在的にあるのかもしれない。
|私が私を信頼していれば、それでいい。
話はそれたが
信じるということがどういうことか。
何度もいうが、自分を信じるに尽きる。
人を信じようとすると
相手が望む振る舞いをしてくれなかった時に
不安定さが出てしまうのではないだろうか。
そしてそういう人はいざ裏切られた時にこういうのだ。
こんな人だと思わなかった!
私は、そんなダサいことをいう大人にはなりたくない。
勝手に期待して、勝手に裏切られた気分になって
あげく好きな人を罵倒するような人になんて
まっぴらごめんである。
相手に期待するからそういう言葉が出る。
じゃあ、誰に期待すればいいか。
自分だ。
もし自分を信じていたなら
信じた人に裏切られるようなことがあっても
自分がその時、信じたいと思ったのだから仕方のない。
次はこの経験を活かして、今度こそ素敵な関係を結びなおそう!
と、自分の責任と捉え、前向きに気持ちを切り替えられる。
自分を高めるというのはそういうことだ。
人の見る目を養おうとする姿勢が
人の見る目を研鑽させていく。
そこに確信が持てるようになればなるほど
人を信頼するのは容易いことだ。
幾度も傷ついて人の嫌な部分もたくさん見てきた
この私が信じられると思うのだから、この人は間違いない。
と、いつか自分の見る目に強い信頼をおけるようになる。
もし傷ついても大丈夫。
そのたびに、私は何度だって乗り越えてきたじゃない。
私だから、大丈夫。
それが私にとって
自分を信じるということであり
人を信じるということになる。