怖い話『揺れている』
暗闇にのっぽの男が揺れている。
そう気づいたのはある日の夢の中だった。
俺の部屋には、むかし姉貴が使ってた古い姿見がある。その中に、黒いコートを着たのっぽの男が揺れているのだ。冗談だと思うだろ?
だが生憎、冗談なんかじゃあない。冗談みたいに気の抜けたコート、目深に被った山高帽の萎びた男が揺れている。それは気持ちが悪いくらい自明のことだったから、夢を見ているその時は全く奇妙だと思いはしなかった。
「でもやっぱ異様なんだよな、こうして思い返してみると」
俺はずずっとストローを吸い上げながら、ファミレスの向かいの席に座る友人に向かってボヤいた。
「ほう、というと?」
「コートはくしゃくしゃ、帽子もくしゃくしゃ。ただ揺れてるっていうよりかは何か見られてる気がするし、なにより」
ここで俺は目一杯の効果を狙って間をおいた。
「顔が思い出せないんだ。そいつの」
しかし、友人はあくまで冷静だった。
「ふーん。見たのか?」
「見たわけじゃない。でも確かに見えてたはずなんだ」
俺はわかって欲しい一心でそう言い募った。
「一瞬だったんじゃないのかよ」
「一瞬なんかじゃない。夢の間中、ずっと」
友人は舌打ちをして合成皮革の硬いソファにそっくり返った。
「けどさ、お前、夢なんてそんなもんだろ」
「というと」
「夢の中じゃあ文字はあるけど読めはしない、でも何が書かれているかはわかってる……同じく人の顔もしかり。そういうもんじゃないのかよ」
たしかにそうであるのに違いはなかった。妙に賢いやつだ。俺は感心して「うん」と答える。
「そういうもんかな」
「そういうもんだろ」
友人はそう切り上げて、今まさに取り掛かっている課題レポートの入ったパソコンをペンの先で弾いた。
「ま、とにかくこれを終わらせないことには明日の授業に出られない。さっさとやろうぜ」
仕方がない。その日の話はそこで打ち止めだった。
そいつはどこへでも現れた。
例えば家の洗面所、磨いたシンクに冷蔵庫、トイレに風呂場、通学途中のショーウィンドウ、はては5限にふと見た窓ガラスにまで映り込む。そいつは夢の中であればどんな場所だって構わないようだった。一体どんな了見で、こんなところに写り込むのかも皆目検討がつかない。そんなふうにひとりごちる俺の前で、今日もそいつは揺れている。もちろん、ここは夢の中だ。不規則に、存在を気取られるほど大袈裟ではなく、でも確かに揺れている。一緒に映りこんだ景色を見るに、俺のいる場所からおおよそ目測3mの位置で……、いや2mか?
俺はそこまで考えてゾッとした。まさか、な。
そんなわけないじゃあないか。あいつが徐々に『近づいてきている』なんて。
「それで昨夜は眠れなかったって?」
友人は向かいの席で腹を抱えてゲラゲラと笑っている。すっかり定例と化したこのファミレス勉強会も、回を重ねればマンネリ化して、ろくすっぽ真面目にやろうなんて気は起こらない。必然、しょうもない雑談に花は咲く。課題は1ミリも進んじゃいない。俺は会話の流れでこの話題を出したことを早くも後悔していた。
「悪いかよ。だって気味が悪いじゃねぇか」
抗議の意をこめて軽く投げたガムシロップがこつんと奴の頭に当たる。
「いってぇな。そう言うお前は気にしすぎなんだよ。気にしてるから夢に出てくる。それで余計に気になってくる、その繰り返し」
「確かにな」
くああ、とあくびをする友人は、もっともらしいことを言って姿勢を正した。全くもって、今日も今日とて一理ある。それがどうにも癪にさわる。俺はむしゃくしゃして、拾い直したガムシロップを一息にカップに注ぎ込んだ。
「でも、気にしないなんて無理だろ」
俺は思案した。思案しながら文句を言った。
「あんなに揺れてるものを無視するなんて夢の中でも不可能だ」
「まあわかる。俺も見ないようにするのは骨が折れたしな」
と、友人。
「は……?」
「あれ、言ってなかったっけ。お前に話を聞いた日、夢にそいつが出てきたんだよ」
友人はなんでもないことのようにそう言って、くるりとペンを回した。
「え、はぁ!?」
俺は混乱した。あいつが夢に? 俺以外の人間の前にも? そんな不気味なことがあってたまるかよ。
「……それから?」
「あー、なんだったかな。最初は見ないように頑張ったんだ。でもそいつ、見ない間にどんどん大きくなりやがる。ムカついたから、こう、手近な椅子を手に取って……」
ばん、と友人は空っぽの手を振りかぶる。
「まさか鏡、割ったのか」
「そう。夢の中なのに感触やけにリアルでさー。変な感じだったな」
俺は呆れ、そして半分慄きながら友人の顔色を伺った。
「それで、その後は?」
「なんもない。じゃなかったら、こうしてピンピンしちゃいないだろ」
「ならいいけどさ……」
まったく、なんてやつだ。もはや呆れを通り越して尊敬の念すら湧いてくる。寺生まれのTさんをも超える勇姿を見せてくれたことには敬意を表そう。だが鏡を割った? 夢の中で? 一体どんな理性と発想があればそんな行動に至るのか。否、そもそもそんな明晰夢めいたことがなぜ可能なのか、是非とも詳しく聞き出したい。だが、友人はケロリとした口調で「さあな」と言うばかりだった。
その夜、俺はまた夢を見た。
放課後に友人と駄弁っている。日の落ちた5限の後、サークル待ちの空き教室で俺らはSNSを見ながら取り止めのない話をしていた。
「あ、わり。トイレ」
立ち上がった俺に、友人は「俺も」と言って立ち上がった。
「野郎が揃って連れションかよ」
顔を歪めながら軽口を叩き合う。
「タイミング合わせて来るなよな」
「合わせてきたのはそっちだろ」
友人が俺をどつき、俺も負けじと足を蹴るふりをした。
「第一、夢の中でまでお前の顔を見るなんてさ〜」
と、俺が毒づく。
「現実で見飽きてるんだわ、こちとら」
すると、友人は妙なことに目をぱちくりしてこう言ったのだ。
「……お前、ここが夢だって知ってんの?」
「……え?」
その時だった。俺はふと、友人の肩越しにアイツが揺れているのに気がついた。
男子トイレの洗面台、広々と張られた一枚鏡。俺たちから1mもないすぐそこに、ゆらり、ゆらりと黒いコートが揺れている。山高帽の影の下、どうしたって顔があるはずのその場所は、見ている側からぼやけてしまう。
だが、俺は確かに知っていた。ソイツは確かに「笑っている」のだということを。
「ッおい」
俺は焦って友人の腕を引いた。
「あ?」
「そ、そこ、その……」
震える指で背後の鏡を指し示す。だが友人は気怠そうに振り返り、首を傾げただけだった。
「ああ、『割れてる』な」
ゆらゆら、ゆらゆら。
次の日、友人は授業に来なかった。長々と鳴り響くコマ終わりのチャイムと共に、一斉に学生の波が引けていく。あっという間に誰もいなくなった教室で、俺は呆然と友人の姿を探していた。悪夢に魘された名残りだろうか、あの揺らめくコートの気配が嫌な尾を引いて、不穏な予感が拭えない。俺は今やすっかり、あの悪夢に取り憑かれていた。
どうしよう、とりあえず寮を訪ねてみるべきか。既読のつかないトークアプリ画面を睨め付けながら、俺は幾度も思案した。だが、どうしても踏ん切りがつかない。馬鹿馬鹿しいとわかっているのに、夢で友人が言った言葉──ここが夢だって知ってんの?──が、俺にはひどく不気味に思われた。
「まあ、やっぱやめとこう。今日はどうせサボりだろうし」
そう決めてしまったはいいのだが……
「あー、あいつ入院したらしいよ」
その夕刻、そう証言したのは、サークル幹部の女子だった。
「入院? 事故? なんで?」
混乱して尋ねる俺に、彼女は眉を寄せて黙り込んだ。
「なんだ、君なら知っていると思ったけど……」
「もったいつけずに教えろよ。何かあったの」
彼女はキョロキョロと周りを見渡すと、声を低める。
「あのね……警察に通報されたらしい」
「はぁ?」
俺は動揺して声を上げた。女子はしぃっと俺を非難し、さらに声を低めて続ける。
「頭、おかしくなっちゃったって。寮で暴れて、逃げ回って、大変だったらしいの」
「それは……」
「同じ寮の男の子が、電話で知らせてくれたんだ」
知ってるのはそれだけ、そう言って彼女は自分の仕事に戻って行った。
俺はどうしていいかわからなかった。だって、こんなことになるなんて誰が想像できた?
いつの間にかじっとりと汗ばんでいた手を握りしめて、俺は小さく身震いした。
どうやら大変なことになったみたいだ。
それからというもの、夢を見るたびソイツはもう、俺のほとんど真横に「居」た。
トイレ、風呂場、ショーウィンドウ。ほとんど俺の身体の端に重なるようにして、黒いコートが揺れている。もはやその輪郭のぼやけた顔さえも、はっきり笑っているとわかるほど、俺らの距離は縮まっていた。
俺はもう、ヤツから目を離せなかった。少しでも目を離せば、1ミリ、また1ミリとヤツは距離を詰めてくる。ほんの一瞬、たとえばよそ見をするような一瞬ですら、やつが移動するのには十分らしかった。そうして1週間が過ぎる頃、俺はもうヤツを見つめ続けるのに疲れ果てていた。さりとて、鏡のない場所へは行く勇気など出るわけがない。だが、ヤツはどうしたって近づいている。わずかに、だが確かに、ゆらり、ゆらりと1ミリ、1ミリ。俺は気づいた。ヤツは、「瞬きをする間も近づいてくる」。
──絶望だった。そんなの、どうしたって勝ち目がないじゃあないか。
ぱちり。また少し距離が縮まる。俺は自分が瞬きをしていたことに気付いた。ほとんど無意識だった。
息が詰まりそうな気配。影のようにヤツは鏡でゆらめいている。ここに存在しないはずなのに、俺にはもうずっと、カビ臭いコートの臭いが鼻の奥に染み付いて離れない。
「ッくるな……!」
俺は無我夢中で走り出していた。ゆらり、男は揺らめいて恐ろしい俊敏さで俺に追い縋った。足音は聞こえない。姿とて見えない。ただ、俺にはわかっていた。ゆらり、ゆらりと、確実にヤツは近づいてくる。
息が上がる。心臓が破れそうに痛む。喉が焼けて血の味がする。だが、俺は走り続けた。
視界の端、流れゆく窓ガラスに踊り場の鏡、全てにヤツが映り込む。
「くそっ、来るな、来るな……!」
冷や汗が吹き出し、視界が霞んだ。どれだけ逃げても、ヤツの影が、俺のすぐ真後ろにちらつく。
「来るな……ッ!」
次の瞬間、錯乱した俺はそのまま大きな階段を、一足飛びに飛び降りた。鳩尾を突き上げるような浮遊感。瞬く間に地面が近づく。あ、しぬ。そう思った次の瞬間、ふっとすべてが暗転した。
目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。助かったんだ。そう思った瞬間、俺はどっと安心した。一気に安堵の汗が吹き出して、抑えていた震えでベッドが軋む。ひとしきり震えたあと、俺はパジャマがびしょびしょになっていることに気がついた。どうにも気持ち悪い。時刻は3時09分。朝までまだ時間はあるが構いやしない、着替えてやろう。そう思って立ち上がり振り返った俺は──、
姉貴の古い姿見に、ヤツがゆらりと揺れているのを見た。
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