美味しすぎない「まえがき」
スマホひとつあれば、誰でも美味しいカレー店に巡り合える。初めての店でもオーダーすべき看板メニューを知っている。あのラーメン屋のスープは平子節がポイントだし、隣の店の主人は有名ホテルの料理長だった。業務用スープを温めたラーメンなんか食べずに済むし、冷凍食品を揚げただけの洋食はサヨナラだ。むっつりとしたスタッフのいる店は華麗にスルーしよう。
そう、世の中は美味いものに溢れている。美味しすぎる店が飽和している。外食をしてはSNSに感想を書き込み、その一節を見かけたフォロワーが同じ感動を目掛けてお店に向かう。評論家を気取り、井之頭五郎よろしくアレコレ考えながら飯を食う。気に入らない態度の店員がいれば糾弾してやる。
こんな一連の流れを否定する気はないが、外食は本来もっと気軽で楽しいものではなかっただろうか。
皿に盛られたチキンライスにハンバーグ。赤色テーブルが回転し、椅子の高い背もたれに寄りかかる。給仕さんの制服や、厨房からチラリと見えるコック帽に心ときめいた。ノスタルジックなんて陳腐な単語では片付けるべきではない。今もワクワクする空気がレストランにはあるはずだ。
外食はライブだ。いい音楽を聴きたいだけならば、自宅のピュアオーディオに耳を傾ければいい。ライブには音がある、画がある。温度も臭いもある。スピーカーからは感じることができない要素があるからこそ、ライブは楽しい。外食も同じだ。味だけで測るには勿体ない魅力がたくさんある。
美味しさだけを求めるのならば、食べログを参考にした方が良い。でもスマホを捨てるからこそ見える景色が外食にはある。そして「美味しすぎない」は「不味くない」と同義のように思ってしまうかもしれないが、決定的に異なるのはそこに愛があるかどうかということは知っておいてもらいたい。
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