峯田和伸と田中和将と私。世界がひとつになりませんように。
銀杏BOYS、元GOING STEADYの峯田和伸さんがBussfeedのインタビューを受けた。正直私は感動した。
NIKEのCMによって美化され歪められていく差別に、素晴らしいと何も疑問を持たないリベラルを謳う差別主義者と、日本人に差別はないと叫ぶ愛国を謳う差別主義者。そして双方の嘲笑的な言論に差別の解消は望めないと改めて確信する虚しさ。
世界がひとつになりませんように。その通りなんだよ。世界はひとつになんかなれるはずがないし、世界がひとつになるとしたら、多くの抑圧や差別される人たちが蔑ろにされる世界なんだよ。そう私は思う。
ヒトラー生むよね、下手したらそうなると思っている。それは差別を無視して世界が一つになることを望む人たちの意見が固まってかもしれないし、反差別を謳って差別をする人たちへの反感が集まった結果そうなってしまうかもしれないし。
人の死は大喜利じゃない、当然のことだと思う。何かの話題に、なにも興味なくても何か意見を持っている風に見せかける、ご冥福をお祈りします、いや、死んでから振り返ったって遅いんだよ。死んでからしか振り返れなかったから、私は津野米咲さんへ簡単にご冥福をとか言えなかった、作る音楽とギターが好きでも、ボーカリストの違いだけで受け入れられずに、興味の外に追いやられて、何か私が主張できるものってなにもないよなって思った。
けれども、峯田さんにに一方向に流されているとか、ヒトラーを生むと言われて、それに馬鹿にされたと憤慨して、お前がヒトラーを生むと安易に書き込む人たち、そういう安易な書き込みが、ヒトラーを生みかねないって峯田は言っているじゃん、もう少し立ち止まって、ちょっと私の考えうる範疇ではないから、コメントを差し控えてみようかな、とか思わないのかな。
声を上げれば変わるって言うけど、Twitterの外にはその声に関して、気持ち悪いと思っていたり、関わりたくないと思っている人もたくさんいるかもしれない、けれども、何なのかわからないままムーブメントだから声に便乗する。そういうことに嫌気がさすことによって、上げた声によってはじかれた存在が峯田なんだと思うよ。
そんな、私も多くの画一的な議論に弾かれた存在だと思うし、このインタビューの中で、メッセージは投げつけないけど、そっと置いておくことで、自発的に自分の作品に触れてほしいって想い、私の大好きなGRAPEVINEの田中和将さんが、文學界の記事で語った自分の作品に関して思うことと、思いは違えどメッセージを伝えに行かないってスタンスは似ていると思った。
「私は自分の作るものが芸術だとも娯楽だとも、人の役に立つとも思っていない。あるとすれば、私以外の手が入って、バンドの何かが作用して、聴き手の何かが作用して、やっと有意義なものが産まれるかもしれないという期待である。私と似たような者の居場所が生まれるかもしれないと。」
こう田中和将さんは自分の作品に関して語ったし、
「意味わからなくてもいいんだよね。この言葉って何だろう?って思って、何週間か後にニュース見ながら「あっポストトゥルースって、そういえばあの歌の歌詞にあった!」みたいな。そこで何かつながるものがあるかもしれないしね、その人にとって。だから、「これはこうなんだよ」っていう自分のメッセージとかあったとしても、それを投げることはしない。ヒントじゃないけど、答えはこっちからは出したくないんですよね。聴いてくれた人が「何だろう?」と思って、自分からヒュッと入ってきてほしいから。」
峯田さんはこう歌詞に時事的なフレーズを入れることを語った。
自分のメッセージを伝えたい、伝える必要がない、そのスタンスの違いはあれど、自分から何かに引っかかって集まってきてほしいって作品への想いは一緒なのかなぁってそう感じた。
さて私だ。正直私は過剰に群れて一方向に進んでいくことが大嫌いだ。
私の好きなバンドって、大体コンサートででみんなが画一的な楽しみ方をするアーティストではない。楽しく友達と踊っている人のすぐ横で、一人で腕を組んで微動だにせず聴いていたり、お酒も入って泣いている人の横で、素面で馬鹿だなぁ可愛いなぁと笑顔でいる人もいたり、本当に自由で、メッセージを押し付けるアーティストってほとんどいないなぁと思う。
アーティスト自身が自由とか歌う必要がない、SNSでわざわざレインボーフラッグ掲げて私は寛容ですと主張する必要もない、そのアーティストの意見とファンの意見が真っ向から対立してもそれが味になる、そんなアーティストが私が好きになるのかなぁと思ったり。
ただ私は、みんなが一つになることを望むようなアーティストは好きになることはないんだろうなって感覚はある。
ただやっぱり、世界がひとつになりませんように、この想いはすごく私は共感できる。
私は世間的に見ればトランスジェンダー当事者で、トランス女性と表現されるような存在である。けれども正直、最近のLGBT活動とか、レインボーフラッグを掲げる活動って本当に苦手で、理解者としてプロフィールにレインボーフラッグを掲げている人は正直関わりたくないと思っている。
私のLGBTって存在に関する考え方と、レインボーフラッグを掲げている人たちの考え方は相違があると思っているし、わざわざそういうものを掲げないと寛容になれないのかなぁって思うし、わざわざ寛容であることを主張しなければならないことにはすごく違和感がある。
そしてレインボーフラッグな思想に弾かれてしまった当事者たちもたくさん見ている。こういうものを見ると、峯田さんの言葉が強く身に染みる。
Twitterとか見てると、みんなひとつの方向に流れちゃうでしょ。たとえば「政治家のここが問題だ、ひどい、辞めろ!」とかさ。「いいね、いいね!」「みんなが言ってるんだから、そりゃそうだ」って何の疑問も持たずに。悪いことは悪いけど、その中で「ん?どうなの、これ」っていうこともあるかもしれない。だけど、そういうことも考えないうちに、ダーッと一方向に流されちゃうじゃん。ヒトラー生むよね、このままいったら。怖いなと思うよ。
大きな潮流に乗って身を任せた結果、そこから弾かれた人が見えなくなってしまう、そんなうちに自己矛盾を生んでいる自分を否定することにもなってしまう。こんなのは私は嫌だし、だからこそ何かを象徴として一つになろうとする社会的な動きってすごく苦手だ。
トランス女性は女性だ、無条件に女性の権利を認めるべきだ、手術をすることは人権侵害だ、とか言われても私は全く賛同できない。
私は身体の成長しているう上では男性であるし、筋力も大きいし小柄とはいえ女性の中では大きい体となる。そんな存在が女性の中に入ることは、私が逆の境遇なら脅威だと思うし、安易に認めてはいけないとも思う。
また私はどちらの性別で生きるにしても、男性器が自分の身体にあるってことが苦痛だったし、自傷的な性逸脱も経験した。そこから抜け出したいからこそ、手術を望んで受けたし、それによって心が救われたと思っている。けれどもどそれを人権侵害だというのは私は心外だし、執刀医の名誉も侵害されていると思う。
だからこそ私は大きな潮流には身を任せたくないし、過剰に意見を言いたいとも思わないし、世界がひとつになりませんようにとすごく思う。
世界がひとつにならないことが、傷つけられ続ける人を少しでも減らせると思うから。