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違和感を拾うこと

投稿する論文をチェックしはじめた。英語の読み書きはできても、あるいは日常英会話ができても、専門的な用語の連なりが適切な表現かどうかを判断するのは難しい。日本人が全員日本語のどんな論文でも読み書きできるわけではないように。

ある言語ではありうる文の流れが他の言語では不自然ということはあって、それにひっかかるためには膨大な他言語への曝露が必要だ。経験がわずかな差を拾う。差を拾うことがまた経験となる。

違和感は慣れという川の中から顔を覗かせる岩のようなもの。日々恐ろしい速さで過ぎゆく流れの中でその違和感を見つけ、とらえられるかどうかが、この世界を俯瞰するため、問いを立てるための足がかりであるときがある。その問いがなければただ流れに身を任せているのと同じ。その岩を掴みとどまることが、新たな発見を生み、新たな視点を与え、流される者と差がついていく。

人と差をつけるというときの差はよく資格を指すことが多いけれども、有資格者同士ではどう差がつくのか。経験だろうという人がいるが、流れてるだけの経験に価値なんてあるだろうか。

わずかなわずかな違和感を拾い続けてきた差が、ひとてまの差が、結果的に大きく異なった人を作り上げる。人生に大逆転はそうない。それをみんな夢見るのは、もちろんなかなかないからだ。そんなわずかな望みをただ座して待つより確実に変化を積み重ねていくことの方が、はるかに安定した心持ちで、早く新たな土地にたどり着ける。


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