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本について

「みのりさんと水族館のお話するためにもっと本読んで勉強します!」

以前後輩からそんなことを言われました。いや、全然自分ごときと話すのに下準備なんて要らないよ……とは思うのですが…。
ましてや、そう言ってくれる彼らのほとんどは私の学生時代なんかよりよっぽど勉強してるし、賢いと思うのです。恥ずかしながら私は学生の頃、動物福祉という単語すら知らなかったのですから……

ただ、そんな彼らと話していて「ん?」と思うところもあります。彼らの言う「本」や「勉強」は、ほとんど水族館や水産学、自然科学、環境保全などに関係することばかりなのです。
私がふと別ジャンルの本の話をすると、途端に興味をなくしてるのがわかります。彼らが言う「たくさん勉強します!」というのは「たくさん(水産や水族館、自然科学を)勉強します!」という意味なんだろうなぁと思います。
もちろんそれらを勉強して無駄だとは思いませんし、立派なことです。

しかし「たくさん勉強して、新しい観点から考えたい」と言う人が多い割には、出てくる意見は(言っちゃあなんですが)当たり障りのない意見なのです。その狭い界隈(水産界隈、水族館界隈など)の中でなら出そうな意見ですが、「その考えは聞いたこともない!」みたいな意見や考えはここ数年見ていてもあまり聞きません。

私ごときと話すのに勉強してこい!いろんな本読んでこい!!とは言いませんが、同時に「もっと水族館・水産以外の本も読んでほしいなぁ・・・」とも感じました。

本記事では私が思った他ジャンルの本を読む大切さや面白さ、さらに深く考えて「そもそも本は必要か?」的なところまで話を進めます。


他分野の本からしか得られない知識


私は水産学や水族館関連の本しか読んでいなかった時代、こんなことを考えていました。

「もっとより深く水族館を知りたい!」
「より良い普及方法を学びたい!」


恐らく私にオススメの水族館本などを聞いてくる後輩たちはこういうマジメな思考で聞いてきてくれるのだろうと思います。それ自体はとてもいい事ですし、全く否定しません。私も聞かれたらマジメに返しますし、おすすめ本も紹介します。

その後私は水族館に就職し、場を移しつつも約3年間水族館界隈にいました。そこでうつ病と診断(完治してます)され、挫折し、界隈を離れてしまって今に至ります。
自分にも周りにも絶望して、私はこんなことを思いました。

「自分はなんでこんなに弱いんだろう」
「自分がうつ病になったのはなぜなのか」
「自分が頑張れなかったのは自己責任なのか?」
「もっと頑張れよって周りには言われるけど、頑張るってなんだろう」

そんな想いの答えを知りたいがために、他ジャンルの本を漁り始めました。最初は主に己の心の弱さを知りたいがために、精神科学や心理学の本を漁りました。

すると、思いのほかここに自分が知りたい以上のことが書かれていました。これらの学問は脳科学や人間の進化・本能にも関係していたのです。

私はふと「もっとこの分野を深く知れば、生き物の上手い普及方法などを認知・脳科学の観点から論じられるのでは?」と考えました。
水族館や動物園関係者の悩みの種のひとつであろう「生き物・自然科学の普及方法」。それらは様々な展示方法や解説技術などの観点で論じられることはありましたが、ヒトの脳科学や心理学、認知の観点で語られているのはあまり見たことがありません。

本来他ジャンルを読み始めたのは自分の気持ちを整理したかっただけです。しかし、こうした本には思いがけず自分にとってタメになることがたくさん書かれていたのです。そこで私は「自分が興味を持った本は、ジャンル関係なくなんでも読もう」と思うようになりました。

自分なりに咀嚼していい


こうした他ジャンルを用いて自分の界隈を考えることは、考えようによってはただの拡大解釈と言われてしまうかもしれません。水族館のことを語りたいなら、水族館だけで語るべきだと。

しかし、そんな水族館も最初は貴族の権力誇示に使われていたということや、もっと前は博物館の前身だったということ、博物館ができたきっかけはフランス革命であるということ、では何故そのフランス革命が起きたのか……というように派生して考えると、ひとえに水族館を語ると言っても様々な分野から考えることができると思います。
水族館を語るなら水族館からはみ出してはいけないという考えは、私からすると正直言って浅すぎます。今になって界隈のお偉いさんたちが水族館には役割がなければならないと言い出したのも、言ってしまえばかつて見世物小屋に過ぎなかった水族館を存続させるためのただの拡大解釈です。でもそれに異を唱える人はいませんし、今後の水族館を考えるうえで必要不可欠なのは言わずもがなです。

また本は文字だけで構成されているというのも良い点です。

例えば

「朝日が昇ってきた」

という文を想像する際、雲ひとつない空に太陽が顔を出している画を想像する人もいれば、雲がかかった空に朝日が顔を出している画を想像する人もいます。もしかしたら朝日はほとんど雲に隠れているかもしれません。また朝日は地平線から顔を少し出しただけなのか、それとも地平線から全体を出して昇っているのか、これも人によって違うと思います。
その人の状態や気持ち、価値観などによって、「朝日が昇る」のシチュエーションは様々なものとなります。

このように、その文章をどのように解釈するかは人によって違います。私が読んだ脳科学や精神科学の本の著者たちは、私がその考えや研究内容を水族館や水産学に当てはめて考えているなんて、想像もしなかったはずです。でも本の良さというのはまさにここです。読み手によって様々な解釈があっていいと思います。
(故に私は「おすすめの本おしえて!」とだけ言われてしまうと口を噤みます。その人の状態や価値観がわからないから、おすすめと言われてもそれは「私にとって良いだけ」だからです。)

本かネットか?


さて、こういう話をするとそもそも「本なんかコスパ悪いし読まなくていい」「本はいらない、ネットでいい」派閥が出てきます。確かに時間はかかるしお金も必要だし、コスパも悪いと思います。一部の人は「本を読まないと成功しないぞ!」とか「本にしかいい情報はない!」と反論しますが、本を読まなくても出世したやつは私の周りにもたくさんいるので、正直関係ないと思います。
それでも私は本は読んだ方がいいぞ〜と思っています。たとえコスパが悪くても、本でしか得られない栄養素があると思っています。その理由を記していきます。
例によってまた遠回りしながらにはなりますが、お付き合いください。

(そもそもコスパ悪いって言葉が私はそんなに共感できないです。貧乏人も大金持ちもどうせ最期は等しく4ぬだけだし4んだら意識なんてないんだから、そんなにコスパ良くしたいなら4ねばいいんじゃないの?って思っています。)

フロローの嘆き


ヴィクトル・ユゴーの著作「ノートルダム・ド・パリ」というフランス文学があります。ディズニー映画「ノートルダムの鐘」の原作になった小説です。
この小説に出てくるフロローは劇中でこんなことを嘆きます。

「やがて石の書物は紙の書物に敗れてしまうだろう」

これは「石の書物」すなわち「本物の大聖堂や教会に行って実物を見る大切さ、儀式を執り行う大切さ」というのが、本の普及によって「紙に書いてあることだけを知識として取り入れれば本物を見なくてもいいや」という価値観に変わってきてしまっていることを嘆いているのです。
「本 vs ネット」、最近で言えば「本・ネット記事 vs YouTube・TikTok 」の構図と近い事がかつてのフランスでも起こっていたのです。

体験が大切な理由


このフロローの嘆きは現在の水族館界隈においても同じような主張する人がたくさんいると思います。

「水族館の展示物を通して本物の自然に興味をもってほしい!フィールドに出て欲しい!」

私も同じようなことを考えております。特に自然や特定の生き物の生態をテーマに展示をする際は必ずそのテーマになる自然を見に行くべき、野生の姿を見に行くべきだとずっと思っていますし、業界の先輩方にも言われました。本物を見ないと展示に矛盾点が生じますし、説得力もないと思います。

また本物をきちんと知っている人が作る作品はやっぱりスゴいものが多いです。アニメ監督の新海誠さんは東京の都会の景色を知っていてかつそれを本気で美しいと思っているからこそ、「君の名は。」に出てくる新宿の光景はとんでもなくカッコよく描写できるのです。
ジブリ映画で宮崎駿監督が描く飛行機も非常に力を込めて作画しているのがわかります。宮崎駿監督は本物の飛行機のカッコ良さ、空を飛ぶ素晴らしさを何より知っていたのでしょう。本物を知っているかつ本気で好きだからこそ、あんなにもカッコよくキマった画になるのだと思います。
水族館や動物園で展示を見ていても、本当に愛が詰まっていると感じる展示と、それを感じない展示がある気がします。こうした本物の良さを知ってるか知っていないかの違いなのではないでしょうか。

解剖学者の養老孟司さんが知識と経験(体験)の違いを「バカの壁」という著書で説いています。例えば、女性のお産の痛みというのを男性は死ぬまで経験できません。どれだけ知識としてお産の大変さを学んでも、それを"理解"することは出来ないのです。
同じように、展示にしろアニメの作画・映画の演出にしろ、本物を知らない人がそれを作ってもやはり説得力に欠けると思います。

本は体験になる


フロロー的には紙の書物など許せないでしょうし養老先生の言う本物の体験にはなりませんが、私的には紙の書物すなわち本であっても、上記したフィールドワークのような体験に近いものを得られると思っています。

ネット(特にXやYouTubeまとめ動画など)は表面的な情報しかわかりませんし、またそうしたメディアは受動的です。それは養老先生の言う「体験」にはなりません。知識として情報を知っているにすぎません。
本は小説はもちろんのこと、教養新書などでも基本筆者目線でお話が展開していくため、没入しながら読むことが出来ます。主人公に憑依出来ます。自分と生まれも育ちも環境も違う著者の目線を追体験できます。特に海外書籍だとその国ならではの価値観でお話が展開していくので、非常に面白いです。

何も本に没入したからと言って、著者や登場人物に100%同意しろとは言っていません。都度批判したり、疑問に思ったりしながら読んでいいです。
共感できない本、理解できない本に出会うと疲れます。読んでいて苦痛だったり、眠くなる本もあります。しかし、私はそれでいいと思っています。


本物の自然を見に行くことも本物の大聖堂を見に行くことも、なかなか骨が折れますし、時間もお金も体力も要ります。そしてせっかく行ったのに何も感じなかった、特別感動しなかったことも多々あります。でも、それは決して無駄なことではありません。というか、それを無駄にするかしないかはその人次第です。
本も同じで、全てに共感する必要はないです。私も内容は理解はしたけど8割以上納得できなかったという本もありました。大切なのはそのあとで、そうした状況をいかに自分の糧にしていくかです。共感できてもできなくても、その内容を自分なりに抽象的な概念に落とし込み、自分を取り巻く様々な場面に照らし合わせて考えられるかです。

ただ、これはなかなか難しい作業だなとも思います。海外に行って"何か"を感じて帰ってこれる人と「あー楽しかった」だけで終わる人では、圧倒的に後者の方が多いはずです。本を読んで「楽しかった」で終わらず、自分なりに咀嚼できる人は少数派な気がします。
ここまで書いておいてなんですが、私も咀嚼するのは苦手な方です。ただ、ゆっくりでも一歩ずつ考えていったら、割と自分の糧にできるようになってきた気はします。

本はトレーニング

ここまでの話をまとめると、本は一種のトレーニングであるとも言えます。

本を読むのは時間やお金の投資も必要だし、読んでて疲れるものや中々理解しにくいものもあります。でもそうしたものをフィールドワークと同じく、ちょっと苦労しながら体験していくことで得られるものがあります。脳みそが運動不足にならないように、本を読んでちょっとしたトレーニングを継続した方がいいというのが、私なりの本を読むべきだと言う解釈です。ジムに通うみたいなものですね。

栄養バランス

逆に言えば、トレーニングばかりして休息を取らないのも変だと言えます。本が好きすぎる人は何故かSNSやYouTubeにいいものなんて無いと決めつけ対立構造を煽ります。しかし、かつてアメリカで新聞が流行り、識字率が上がっていた理由は「新聞に有名人のありもしないゴシップネタがたくさんあったから」です。今で言う2ちゃんねるの掲示板やYouTubeのまとめ動画、TikTokのショート動画となんら変わりません。しかしそうした一見しょーもなく見えるコンテンツのおかげでアメリカ人の識字率があがり世論を形成していったということも事実です。
YouTubeのまとめやTikTokのショート動画を「しょーもないなー」と思いつつも、結局ついつい観てしまいます。私の中でそれは休息と捉えています。本を読んで疲れた脳みそを癒すために、そういう時間も必要だと思います。
また意外にも、そうした一見しょーもないコンテンツの中に新しいアイデアや発見が埋まっていることもあります。かつてのアメリカでしょーもないと思われていた新聞産業が一大コンテンツになり、その後のアメリカにおける様々な歴史的事件を広めるに至った要因と考えると、同じようなYouTubeやTikTokを一概に蔑ろにすることにもなにか違和感を覚えます。

フロローに言わせればそもそも読書にふける私は大馬鹿ヤロウですし「活字を読むこと=神聖な事である」なんていうのは、ただの勘違いです。

だからといってネットばかりに踊らされて栄養バランスが偏った食事をしても良くないよ!と思います。ネットを見る時間が1日に1時間だとしたら、そのうち10~15分は読書に当てるのがちょうどいい気がします(持論ですが)。

以前書いたAOAO感想レポートに「色んな水族館があっていい」的なことを書きました。これは今回の「本もネットも必要だよね」に近いと思います。本も水族館も栄養バランスのとれた食事が大切だと思います。

今現在も読書にハマっている私ですが、読書ばかりしすぎて流行りについていけない、新しいものをどうしても拒否してしまうなんてことになってしまったら、それは恐らくおカタイ老人のはじまりです(笑)。そうならないために、適度に流行りを取り入れつつ、でも本は死ぬまで読み続けようと考えています。

オススメ本

記事の最初の方に「オススメ本を紹介するのってムズィんだよね」的なことを書きましたが、そうは言ってもどこから入ればいいのか分からない人も多いと思います。なんでもいいから、みのりのオススメ本を教えてくれよ、それから読んでみるから!って人もいる気がします。

そのため最後に、みのりが読んで「おもしろかった!」って本を数冊紹介して本記事を終わろうとい思います。


海底二万里 上・下 ジュール・ヴェルヌ(新潮文庫)

これだけは絶対に外せません。文学作品であり、SFであり、私たち魚好き、海好き、水族館好きにはたまらない小説です。作者のジュール・ヴェルヌがパリ万国博覧会の水族展示を見たことでインスピレーションを得た作品とも言われています。すなわち水族館展示が生み出したSF小説です。それを聞くと、興味が湧く人もいるのではないでしょうか。自分の中でこれを超える海洋冒険小説はいまのところありません。また、これを読むと東京ディズニーシーの海底2万マイルやミステリアスアイランドがちょっと楽しくなります。


タイタンの妖女 カート・ヴォネガット・ジュニア(早川書房)

これもSF小説です。ものすごく理不尽な世の中を、とってもコミカルに、そしてバカにしながら、お笑いにしながら描いているのが本当に衝撃でした。この小説は爆笑問題の太田光さんが一番好きだと公言している小説でもあります。太田さんがなんであんな過激な時事ネタをバンバン言うのか、この小説を読んでなんとなくわかった気がします。本ではありませんが、この本を面白い!と思った方は是非SF映画「メッセージ」も観てみてください。


水族館の文化史 ひと・動物・モノがおりなす魔術的世界 溝井 裕一(勉誠社)

タイトル通り水族館本です。が、内容はほぼ世界史を中心とした文系の内容です。そういった側面から水族館の歴史を解き明かし、今日における水族館を考察する、目からウロコな本です。水族館を自然科学のみで考えればいいと思っている昔の自分の貧弱な頭に叩きつけてやりたい一冊です(その時にはまだ発売してなかったので仕方ないですが・・・)。


サピエンス全史:文明の構造と人類の幸福 上・下 ユヴァル・ノア・ハラリ (河出文庫)

人類史の本です。人類(正確にはホモ・サピエンス)がいかにして台頭し、いかにして地球の支配者になったのか。
めっっっちゃ面白いです。そして読みやすいです。読みやすいけど読むのに時間がかかります。5ページに1回くらい目からウロコな大発見があるからです。いちいち立ち止まってしまって、全然読み進められませんでした。この本で指摘されていることは、水族館や環境教育でも応用可能だと思います。
ただ、章によってはかなり残酷な話も容赦なく展開されます。元気が出ない話も多いです。しかし、そうした事実から目を背けるわけにもいきません。面白くも残酷な真実に、是非浸かってみてほしいです。
余談ですが、この本の著者ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエル在住の方です。ユダヤ教のど真ん中にいてこの本が書けるという、その勇気もまたすごいなと思いました・・・。


言ってはいけない ー残酷すぎる真実ー 橘 玲 (新潮新書)

いわゆる教養本です。もうタイトル通りです。延々と耳に痛すぎる話が展開していきます。正義感が強い人は中々受け入れられないと思います。しかし著者はそんな反論の余地など許さないがごとく、書かれていることはすべてエビデンスに基づいているとして引用した論文や研究を全部載せています。もう八方塞がりです。紹介しておいてなんですが、"不快な本"です。
でも面白いです。そして知っておくべきだと思います。著者の橘玲さんは別の著作においても、人間の感情論を一切除外してロジックだけで話を展開していきます。社会や人間の見方が劇的に変わる一方、この本の内容を軽々しく自慢してはいけません。いわゆる「正論で相手を叩き潰す」話なので、少なくとも恋人にこの話をしたら確実にフラれると思います。気を付けてください。私もこの本や関連した研究内容に基づいた(ロクでもない)話を展開したせいで友人と何度かケンカをしました()
一個だけこの本のデメリットですが、身も蓋もない現実だけを突き付けられて、具体的な解決方法は何も示してくれません。イジワルです。でもそれを考えるのは、読んでいる私たちの役目なのかなとも思います。


失われたものたちの本 ジョン・コナリー(創元推理文庫)

最後のオススメ本です。ファンタジー小説です。(かなり)残酷なファンタジー世界に迷い込んだ少年の異世界冒険譚です。ジブリの宮崎駿監督も非常に強い影響を受けた小説です。
なんで最後に紹介したのかというと、上記の「サピエンス全史」や「言ってはいけない」などの身も蓋もない現実だけでは人間疲れてしまうからです。難しい本や教養本を一通り読んだ後にこの本を読んだら、なんだか救われた気持ちになりました。この本で描かれる残酷な世界は、上に紹介した本の残酷な真実や、つらい現実世界に似ています。それでも、そんなつらい世界をさまよう人々に勇気を与えてくれる本です。そんな勇気なんてまやかしかもしれません。ファンタジーかもしれません。でも、そういうファンタジーも世の中には必要だと感じさせてくれる本です。
ほんの一瞬でも心を救ってくれるファンタジーは、現実的に考えすぎてつまらない人間になってしまった私のような大人にこそ必要なのかもしれませんね。


さいごに

いっぱい本読んでほしいです。それだけです。
そしてそれらをもとにして、いろいろ考えてみるのも中々面白いと思います。逆にみのりに読ませたい本があれば、是非コメントしてほしいです。

ではまた。



めっちゃ余談 ~SFの醍醐味~

私はSF小説をよく読みます。特に海外SFが好きです。巨大ロボットが出る、カイジュウが出るなど、男の子的な理由で好きなのもありますが、もうひとつSFの醍醐味だと思うのは時代の先が読めるようになる、新しい価値観への思考実験(と言う名の遊び)が出来るからです。
上で紹介した「海底二万里」は潜水艇という乗り物が存在していなかった時代に書かれた潜水艇を主役とした小説です。そのため、今現在より海の中というのは異界の存在だった時代です。しかし今現在においても、小説の内容に古臭さや嘘臭さをあまり感じないのです。それどころか劇中で主人公が「近いうちにラッコは絶滅してしまうだろう」と考察するシーンまで出てきます。現在ラッコは人々の努力により個体数を回復しつつありますが、彼らが絶滅してしまった未来も十分あり得たでしょう。作者ヴェルヌの未来を考察する能力には驚愕します。
海底二万里は潜水艇がない時代、かつ帝国による植民地侵略が盛んに行われていた時代に、"もし潜水艇と言うものが存在していたら"人々はどう振る舞うのか、植民地支配で虐げられた人間はどうなるのか、未来の科学技術が帝国に知れ渡ったら・・・という所にまで視野を広げて物語が展開していきます。ただ「潜水艇だ!未来の乗り物だ!すげー!!」では終わらないのです。"もし"そうなったら、人々の価値観や社会はどう変わるのか、それがわかるのがSFの面白さです。例えば「将来コンピューターを脳や目に埋め込む技術が普及するだろう!」とソフトバンクの孫正義さんは言います。それは便利かもしれませんが、倫理的にどうなのかという問題が生じますし、身近な家族や恋人との関係も変化していくかもしれません。技術として可能でも、それに伴う社会変化の考察は何故かあまりされません。スマホの普及とSNSの発展で生まれたのは生活が便利になっただけではなく、新しい価値観や習慣(スマホ依存など)も生まれています。
「銀河帝国の興亡」というSF小説で著者のアイザック・アシモフは総人口が"京"(10の16乗)に達した世界を描きました。作家であり化学者でもあったアシモフは、京に達した人類社会なら未来予想が可能ではないかと考えました。例えば一円玉に含まれるアルミニウムの個々の原子の動きは予想できませんが、それが一円玉になったら原子の動きが相殺されて個々のアルミニウム原子は考えなくても計算が可能です。一円玉を使うのにいちいち含まれるアルミニウム原子を計算している人などいません。それと同じように、人口が京まで達したら、個々の人間や国は考えなくても未来予測が出来るというのがアシモフの考えたSF世界です。中々面白い視点です。このように、未来世界の思考実験をするという"お遊び"がSFの面白さだと思います。
もちろんSFを読んだからと言って確実にその通りの未来になるとは言い切れませんし、全て科学的に辻褄が合っているわけでもありませんので、あくまでも"遊び"です。如何にもそれらしい科学っぽい理由をつけSF的な要素を出し、そしてもしそれが存在したら人々の価値観はどう変わってしまうのか、社会はどう変化するのか、それを"真剣に遊ぶ"のがSFだと思っています。「タイタンの妖女」も、私たちが考え付きもしないようなSF要素とそれによって生まれる新しい価値観が登場します。こういった「SFの醍醐味」は楽しみながら学べる最高の教科書だと思います。
今日においてテクノロジーはどんどん進歩していき、それに伴って多様な価値観が認められる社会になりました。そんな中で、今後水族館はどう変化していくのか。これを自然科学・動物福祉・教育普及など、それらに留まらずSF的な観点から考察してみるのも、なかなか面白いのではないかと思います。

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