遥かなる統一労働運動
ソ連崩壊後、たとえソ連とは違う社会主義を目指していた団体も、ある意味シンボルだった労働者の祖国が綺麗さっぱり無くなると、方針の転換を余儀なくされました。西側自由主義流の社会主義である福祉国家路線は、当然税金という形で市民や有権者にお願いするのでソ連崩壊後は言い出しにくい政策になりました。結局、それでソ連は崩壊したじゃないか?と聞かれると長い説明が必要です。だから手っ取り早く社会主義政党は、資本主義と妥協どころか同質化する道を選びました。 労働運動の力の源泉は右派左派に関わらず製造業労働者にありましたが、第三次産業、とりわけサービス業の従事者増加によって産業は大きく変わりました。そうしてサービス業は目に見えた売上という指標があるため、その雇用は製造業より不安定。そういう産業の構造が違うのに製造業労組とサービス業労組を混同させて労働運動を語る人は注意が必要です。適当な事しか言っていませんよ。
資本側も別に国内に留まらず世界で拠点を作るのが当たり前です。民族資本が死語になり、グローバル展開する企業の事を褒めちぎっている現状今後そういう企業の方が褒められます。外資は日本資本の競争相手として有益なライバルでしたが、あちらが冷戦以降資本が巨大化する中でもはや日本産業も体よくグローバル企業になれた所しか生き残っていません。端的に言えば、日本の製造業の大半は外資の競争力に大敗しました。理由はいくらでもあると思いますが、ひとえに一度の成功体験に拘ってしまった事です。チャンピオンになっても常に防衛戦をしなければなりません。挑戦者ならかなりの無理な負担を従業員に強いることになります。日本の産業界はそのどちらも逃げ続け、ものづくり大国である過去の栄光にいつまでもすがっていました。現在は力を蓄える時で生半可に国際競争という言葉は使わない方がいいです。今製造業が国際競走に晒されるなら、それは壊滅の道しかありません。
現業職の漸減は労働組合の人材減に繋がり、その指導者は大卒総合職に限定されました。大卒総合職の運営が全て悪いというわけではないですが、会社同様労働運動すらエリート化が進めば現業の労働者は、労組官僚を会社の上司以上に嫌うものです。執行部はバランスよく様々な層から選ばないといけない。こうしたエリート主義は現在「リベラル派」という言葉で都合よく美化されます。私はリベラルという言葉はむしろ嫌悪感を抱くので、その言葉を押しまくるのはバランス欠いていると思いますよ。リムジンに乗ってリベラルを唱えても、白けてしまうのが世の常です。
労働運動にセクトは問わない
私はTwitterでは、反共を拗らせた労働組合の人間と言われた事がありますがその辺は細かくもう一度言っておきますと、労働組合と会社員としての個は別物。会社員なら業務時間は会社のために働くべき。労働運動は就業時間外に行うべき。熱意あれば、就業時間外に本当に自分のやりたい運動はできるはず。そしてもう一つありますが、セクトに属する人間が労組に入ってきても問題なし。もちろんセクトに属さない人間の方が警戒心が無くなりますが、セクトに所属しても労働組合に所属している以上、セクトの色を出すな、あくまでこの組織の労働運動に徹しろという立場です。かつて私たちの同志組合員に日本共産党どころか第四インターナショナルも解放派もいたのですよ。でも彼らはセクト色を出さずにあくまで組合運動が組合内ではそれを中心にしていた。運動を乗っ取ろうとする人間は右翼だろうが新左翼だろうが断固闘います。総評所属だった労組にもガッチガチの右翼民族主義者もいたのですよ。でも組合運動において間違いなく私達は同志だった。そういう事が無くなって久しい時代になりました。私の世代ですらそう感じるのに、若い世代のギャップは果てしないでしょう。労働運動自体、非常に狭い枠組みの中で内輪だけの運動になりました。うちに籠った運動は、外からの批判に目を閉ざすだけなので本来なら危機感を持つべきなんですが、熱狂の渦にいる人達はその熱狂しか見えず、その熱狂が冷めた思い通りな結果が得られなかったら、あっさり諦めるか自分で自分の擁護をする2択です。自分の事を客観的に見れるのは自分が気づくしかないです。動画の良さや写真の写りで左右されるような運動は必ず行き詰まる。そう遅くもないうちにです。
真の労戦統一
日本の労働運動は統一に失敗しました。と言っても海外のナショナルセンターも分裂や脱退を繰り返し、全てが一致した真の労戦統一は限定的です。ある労働組合の分析で連合の組織内の得票率は年々低下気味と言われます。その報告には説得力があり、私達は手段のための行動を選ぶ愚をしている暇はありません。ただ前述した通り、組織は一セクトの乗っ取りを許すわけではなく、自主性と組合民主主義を守る態度はこれからも必要です。私は全労連を批判しませんが、全労連をセクトの下に置く日本共産党に対して、政党による組合支配を辞めろと言い続けます。トロツキーは労働組合なぞ甘やかす必要はない。あくまで生産性を高めるため機能すればいいという労働の軍隊化を唱えましたが、日本共産党も似たような傾向があります。連合は民主党支持組織と言われ、私達自身も概ねその方針に言いたい事はあってもかねがね従っていますが、別に民主党は私達の上部団体ではないです。もっと言えば民主党自体、連合の政治部でもないはずです。そうした原則さえ守られると労戦の統一は部分連合を経て、もう少し柔軟に対応ができるはずです。
労働者日本共産党後援会を作るならまだしも、その責任者は全労連や地方労連の議長が務める。でも日本共産党は労組を支配していないという理屈は通らないはずです。自民党も似たような強引な理屈で業界団体などを支配していますが、日本共産党も同じです。利権構造の下、独立した組織を傘下に置き言い訳だけは達者になった政治屋。全労連の運営から日本共産党は手を引くべき。
そしてもう一つ、何度も言うように私たちはセクトは問わないが、組合内でセクト活動は大いに批判します。特に創価学会の労組組織内での選挙活動は、衆院選前なのか度が過ぎています。組合会議は就業時間内には行わないと同義で組合内の集まりで布教活動しない。かつて守れていた事ができてなくなっているのは、組合と同じように組織力が低下しているからだと思いますが、容認はしない。日本共産党と公明党は実によく似た組織です。民主的な運営を行わず、脱会者を悪様に言う態度。必ず自分たちが正しいと言い張る姿。自分達の不祥事はできるだけ黙して語らない振る舞い。特に公明党の未来は暗いものになるでしょうね。ファシスト化した党と宗教団体はいずれ手痛い目に遭います。
組合は政治運動は行うが、政党ではない!
強く言っておきたいです。連合も全労連もその報道がされるときは政治団体としてのナショナルセンターです。運動自体が選挙=政治運動になってしまいその責任は当然組合にあるのですが、何度も言うように私達は立憲民主党だろうが、国民民主党だろうがその下請けでもなく、ましてや全て一致する事はなくても労働組合の根幹を破壊するような行動を取ったら当然民主党にお灸以上のものをすえる行動を取ります。実際民主党性権は自動車労組はともかく自動車産業には手取り足取り優遇し続け、自動車会社の経営陣やその恩恵を得て重要大臣にまで昇格した自動車総連組織内が文句を言う筋合いはありませんが、それ以外の労働者、自動車産業でもその恩恵を受けられなかったものは民主党政権を徹底的に糾弾してもいいのです。こうした一部産業の優遇は民主党政権以降の自民党政権でも続けられています。その産業で働く労働者は置き去りですが、産業自体は利権や予算は十二分に配られているのです。
民主党政権の総括とは、結局そう言う事です。やっている事が自民党並みの縁故資本主義で、自民党並みのネオリベラル。そうしたイメージをいつまで払拭できないのは彼らの怠慢です。政党は堂々と草の根の市民の政党だと言いましょう。そして労働運動も、もっと草の根の農村、漁村、下町に入って大衆行動を起こさないといけないです。労働組合を見る目が冷たくなっている。どうしようもなく最後の切り札を抜こうとしても大衆の支持を得る事ができず、最後には押し切られる。組合の専従になりたての頃、元連合会長の笹森清はこういった講演を全国の若い組合員にしていました。自己満足の運動はもう見切って次は労働運動から大衆運動に深化させるべき。自ずとそうした大衆運動は極右の願望を打ち砕き、グローバル資本主義に対抗できる最良とは言えなくても最低限の希望を示す事ができるのです。