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曙太郎と祖国 日本

 90年代相撲界サラブレッドである兄弟が藤島部屋に入門。父親である藤島親方は彼らの四股名を貴花田、若花田で売り出し「若貴ブーム」が世の中を席巻します。父である藤島親方は名大関と言われましたが、子の2人には当然横綱という世間のプレッシャーがあったのです。
 時同じくしてハワイ出身のチャド•ローウェンという若者も東関部屋に入門します。東関親方は元関脇高見山。外国人出身力士としては草分けの存在でCMにも出演した人気力士の1人でした。2メートルを超えるという長身でしたが細身でした。新弟子時代は、問題にもなりましたが当時の相撲界はパワハラと言う言葉では片付けられないほどの暴力の温床。日本語もよくわからないチャドは電話番を任された時兄弟子から「日本の電話は出る時にもしもし亀よと答えるんだ」と言われたので律儀に守っていたというエピソードがあります。しかし電話を出た時、他の人は亀よなんか言っていないのでそこから切り替えてちゃんと電話番の役目を果たしました。チャドがずば抜けて才能があったのはこうした柔軟性と吸収力でした。
 チャドと同期入門は異様に人材が揃い「花の六十三年組」と呼ばれるぐらい一時代を築いた力士も多かったです。若貴だけではなく後に現役最多記録を次々塗り替えた魁皇、元小結で新弟子時代から圧倒的な実力者だった和歌乃山などが存在し相撲経験がなかった、と言うかあるはずがなかったチャドは特に若い頃は目立つ存在ではありませんでした。その後チャドは1年の猛稽古に励み、出稽古で前頭筆頭若瀬川に胸を借ります。結果としてチャドは若瀬川を病院送りにしました。ただ大きいだけのデクの棒扱いだったチャドは1年で急成長を遂げていたのです。1990年9月場所には若花田と共に新入幕を果たしています。四股名は珍しい一文字でした。ここから関取「曙」の歴史がスタートしたのです。


目指せ!横綱

 曙に対する期待は大きかったです。元々は大学スポーツでバスケやアメフトを兼任するほどのアスリート。潜在能力は抜群で実際周囲の期待以上の活躍をしても、まだまだ満足できない自分がいたと後に語ります。その高い身体能力を活かし、ズバズバ大物を倒していき92年には初優勝を遂げています。奇しくもその年の初場所では最大の好敵手だった貴乃花も初優勝を遂げています。ただ外国人力士だった曙は何かと土俵外で物言いがつけられました。アメリカ出身の曙にとっては日本食は毎日食べるのは苦痛でちゃんこにケチャップをかけて食べるなど何かと奇抜にも見えた曙。本来は温厚な性格ですが、土俵を前にすると太々しい面構えになり、また憎らしいほど強いと言われた曙。白鵬の現役時代もマスコミから総攻撃でしたが、曙の時代はもっと相撲界に支持がありもっとバッシングされた時代でした。何でも風格が備わっていない、振る舞いが横綱ではないなどとにかく曙には横綱にはしたくないという本音が透けて見えました。強いのも横綱の証ですが日本の国技である相撲の頂点は、目に見えるものでも数値に表れるものでもない「日本人らしさ」が必要でした。さらに最大のライバル貴乃花はその点相撲一族として存在感があり、何かと当時は比較されました。
 しかし憎らしいほど強い曙は貴乃花よりも早く横綱に昇進します。若花田改め若乃花や貴乃花の1番は平成の名勝負の一つでした。曙の相撲スタイルは長身を活かした突き押しが特徴でしたが、反面その長身によって下半身の負荷が重く現役時代後半は膝の故障との闘いでした。小兵の舞の海が案外曙キラーだったのはやはり下半身が弱点だったからです。実を言えばアメリカ時代から膝には爆弾を抱えていましたが日本のマスコミは「体重が重すぎる。横綱としてのベスト体重は」など評論家気取りのような論調も目立ちました。
 最後は膝の故障の悪化で相撲界を引退した曙。海外マスコミは称えました。海外のマスコミぐらい称えてくれないと困ります。海外では閉鎖的な日本相撲界に風穴を開けたグランドチャンピオンでしたが、曙は双葉山の名言「我いまだ木鶏に足りえず」を座右の銘にしていました。木鶏とは闘鶏において何事も動じない木彫りの鶏のような様をさし、中国の荘子の言葉です。昔のアスリートはただ強いだけではなく博識でもありました。曙にとって相撲は自分の体の一部でした。

新しい伝説の始まり

 曙は輝かしい功績を持って相撲界を引退しました。96年には日本国籍を取得し引退後も部屋が持て親方になれるよう準備します。師匠の東関親方がそうだったように。しかし2003年曙は相撲協会を退職します。このことは様々な憶測が飛んでいました。師匠東関親方の不仲、経営者として金銭感覚の不安などです。どんぶり勘定が当たり前、ごっちゃん体質の相撲協会に金の使い方を指摘されたくないですが、曙の性格上厳しい上下社会の相撲界において親方においてもそれが厳しく律せられる組織体制は合わなかったでしょう。その年大晦日に当時バラエティに引っ張りだこだった格闘家ボブ•サップと大晦日に対戦することを決定。Kー1に転向しました。
 天下の横綱がなんと格闘界に殴り込むわけです。相撲ファンだけではなく格闘技ファンもこの熱い一戦に目を向けました。当時知名度抜群だったボブ•サップとの一戦は曙の大敗でした。倒れ込んだ瞬間は紅白歌合戦よりも視聴率があったそうです。ボブ•サップは明るいキャラクターで人気者でしたが彼も元はアメフトの選手であり格闘技はその後に始めたものでファンが多かったですが決して技術が優れていたわけではなく体格の良さで相手を圧倒する大味なタイプでした。それでも当時のボブ•サップにはなんとしてでも気合いと根性で乗り切るという姿勢は非常に感じられたものです。曙もその執念は決してボブ•サップに劣るものではなかったのですが、相撲と格闘技はやはり別物でした。格闘家転向後の曙はほとんど勝てていません。横綱時代が嘘のようでした。囃し立てていた人たちもいつの間にかいなくなっていました。よくアンチは人気のバロメーターと言われます。アンチすらいなくなった無関心は大歓声を浴び続けてきた人にとって恐怖でしょう。ですが、それは終わりではありませんでした。この失敗が新しい挑戦の始まりになるのです。
 2005年にプロレスに転向します。力士からプロレスラーになる事は珍しい事ではありませんが、曙は横綱時代とは一新しコミカルなキャラクターになっていきます。当時グラビアアイドルともプロレスショーを興行しました。なんのかんの言っても元横綱の知名度は当時のマスコミも放ってはおかなかったです。相撲部屋の親方にならなかった曙は格闘団体の社長になっていました。曙の格闘家転向時代、相撲界はようやく長年にわたる慣習「かわいがり」を含めた悪弊が世の中に明るみに出ました。そのために若い関取候補が命を落としています。曙の活躍と相撲協会の重い腰を上げながらの改革は良くも悪くも比例していました。

曙と相撲、日本

 あるアメリカの興行の日でした。滅多に起こることのない曙は珍しく機嫌が悪かったそうです。知り合いの記者が尋ねると彼は自分の取り上げ方に不満を抱いていました。記者の問いに曙は「俺の中心はどこに行っても相撲なんだ。俺と相撲の関係がおかしくなるような記事はやめてほしい」と言ったそうです。彼にとって相撲は生き様でした。アメリカで期待されていた巨漢同士のぶつかり合いを行わず相撲を披露したそうです。唖然とする観客を前にして曙は「相撲をまた広めることができた」と上機嫌でした。誰よりも相撲を愛したハワイ出身の日本人、それがチャド•ローウェンでした。当時のマスコミの報道もあり若貴兄弟との関係は現役時代は最悪でしたがお互い引退し、そのわだかまりは溶けていました。
 曙の死のニュースが報道された時、私は用事を済ませていました。帰宅してテレビをつけると大物アスリートの元通訳の出頭が1番のニュースでした。曙らしいです。決して主役には周りの妨害に遭ってなれないが印象に残るヒール。ヒールは悪役であって悪ではないのです。曙贔屓の私はなんとなく自分の最期も後進の邪魔になりたくないというヒールらしからぬ優しい性格の曙らしい始末のつけ方にも感じられました。教え方がうまく横綱だけでなく親方としても一流になれると言われた曙ですから相撲協会に残っていると必ず改革派の旗手として先頭を走っていたに違いないです。というのも贔屓の引き倒しなんでしょう。
 54歳随分早く逝ってしまわれました。ですが曙が最後の最後まで見せ続けた相撲愛は必ず受け継ぐ人がいます。やり残した仕事は誰かが絶対に引き継ぐものなのです。曙太郎に哀悼の意を表します。未来の相撲界に栄光あれ。


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