山川菊栄の物語(後)
明治時代の終盤に差し掛かった頃、女子英学塾在学中の青山菊栄は救世軍のボランティアの手伝いをしていたある日、訪問先の紡績工場を見学します。ろくな暖房器具もなく、底冷えする床に裸足で座っている女工達。よく見てみると自分より遥かに若い少女達でした。救世軍の山室軍平は優れたキリスト教の牧師でしたが「労働とは神聖なもの」と言って女工達を称える言葉を繰り返していました。菊栄は内心ハラワタが煮えくりかえります。「一睡もせず冷たい機械に囲まれたこの姿のどこが神の恩寵なのか?奴隷のような労働が素晴らしいものか!」
母は儒学者の家柄の娘で父も松江藩士で事業家だった青山菊栄の人生は同世代に比べてはかなり恵まれたものでした。学問をしっかりと修め、あとは家格に相応しい家に嫁ぐという人生が彼女に取って波乱がない人生になっていたでしょう。ただ彼女はそうした安心安全の人生を捨て、1人の革命家として大正時代や昭和の激動を駆けていきます。良家のお嬢さんも警察にマークされ、時には身柄も拘束される事態になった菊栄はある男性と出逢います。10歳年上の山川均という男です。山川は日本初の社会主義政党である「日本社会党」に1906年に入党した筋金入りの初期社会主義者です。こうして山川の仕事を手伝った菊栄は出会って10か月も経たずにスピード結婚。社会主義者山川菊栄の物語はここから動乱を駆け回る姿を見ることができますが、今回はそれが本題ではないので割愛します。伊藤野枝との廃娼論争があったように彼女は女性解放運動の先駆けであり、当然エピソードも満載ですが彼女の人生においての全盛期は戦後になってからです。太平洋戦争が終わり、大日本帝国が解体され民主主義国家として産声を上げた日本国において菊栄はGHQから、ある大役を任される事になります。日本には労働を管轄する省庁がなく、全て内務省という巨大組織に抱合されていましたが、強すぎる権限にGHQはこの省庁を解体し改編を行います。時は日本初めての社会主義者がトップに立った片山哲内閣が成立していました。彼らの尽力で労働行政を管轄とする労働省が設置されましたが、その中でさらに思わぬ副産物も得られました。主に婦人労働を担当する労働省婦人少年局のトップに山川菊栄の登用が期待されていました。太平洋戦争が終結すれば、復員兵が続々と戻ってくる嬉しさの反面、銃後を支えていた女性労働者の雇用問題も危機に直面していました。そうした課題をクリアできるのは、戦前から女性解放運動に取り組み、労働組合や女性労働について知識もある山川菊栄も有力な候補者でした。そして当時与党になっていた日本社会党にとっても彼女のような政治運動は行うが、それほど政党色が強くない人材が成果をあげれば、社会党の得点となる思惑もありました。新生日本の労働行政に爽やかな新風を送り込む人材。しかし国家機構は国が滅びても官僚組織はそのまま残存するものです。現在はGHQの言いなりだが、そのあとは時計の針を強引に戻す。そうした旧弊は新生国家には一定の貢献をしたのも事実ですが、組織の権益を守るため後ろ暗い事も平気でやってのけるものです。山川菊栄はそうした古い澱みがまだ色濃く残る官職の世界に飛び込みました。彼女の人生は血気盛んの若い20代の社会主義運動家の時代が全盛期ではありません。その本番は後半生にありました。
山川菊栄婦人少年局長誕生
当初労働省初代婦人少年局長の人事案は医師の山本杉が予定されていました。後に全日本仏教会の理事になる山本杉は、旧内務省の官僚に待望論がありました。その中で新生日本で誕生した初の女性代議士の加藤シヅエ、日本社会党婦人部長である赤松常子はGHQの労働課に掛け合い、戦前社会主義運動の代表的な人物である山川菊栄に接触します。GHQとしても旧内務省の権限が残るのを嫌い菊栄に正式に就任を打診。戦前の女性解放運動家ですが、現実主義に基づいて中から改革を進める覚悟を持った菊栄は快諾しました。ただ伏魔殿とも言われる霞ヶ関の世界。GHQも菊栄が共産主義者かどうかの身体検査は受けたそうです。過去の活動で警察にマークされたという事実は、当時の状況が例え全体主義による思想警察の手によるものだとしても蹴落とす道具にするのがサラリーマンだけではなく、公務員も組織人として生きる以上避けては通れません。歪みきった大日本帝国のおかげで今も官僚として地位を保つ人間は戦後直後においても、巨大な人脈を誇っていました。菊栄としても1年繋いであとはバトンタッチする考えでした。女性参政権が認められても、女性代議士の人数は39名で次回総選挙で党派を問わず落選しましたが、ガラスの天井を破るためあえてブルジョワ政府の官職に就いた菊栄に待ち受けていたのは苦難の連続でした。
山川菊栄婦人少年局長の仕事の最初の1年は法整備と地方職員室の設置でした。日本の民主化のために土台づくりが必要である感じた菊栄は全ての都道府県に設置する婦人少年地方職員室の職員は全て女性を採用するという方針でした。当然この意見は旧内務省組の官僚に反対論が根強いものでした。労働省初代事務次官である内務省出身の吉武恵市は同郷の佐藤栄作側近として後に保守政治家になりますが、彼が強く反対意見を出しました。吉武は自分が直接圧力をかけるのではなく、菊栄の部下にあたる婦人少年局婦人労働課長の谷野せつを使ってその改革案を潰そうとしました。と、こういう事が社内政治と言うものです。地位の高い人間は自分の手を汚さず、相手と同じ属性の人間を使う。谷野の説得は「全員女子採用は憲法違反となる」という反対意見を出しましたが、菊栄はその反対論を押し切り、「地方職員室の主任は全員女性。職員もできるだけ女性優先」を通達しました。当時多くの職業で女性のキャリア形成は戦争終結で閉ざされていたので政府による大々的な改革は必要不可欠でした。菊栄はラジオ、新聞に広く呼びかけ、応募も山川菊栄直送、全国を飛び回る活動にでます。こうして集められた女性職員たちは意欲は高いが、行政能力として低いと見られていたので菊栄は職員を育てるため講習会の実施など急ピッチで行いました。当然法整備のためにも奔走せねばならないので、菊栄の仕事はかつて社会主義運動家時代よりある意味においては忙しいものになりました。法整備が未発達の婦人少年局の業務内容は以下の通りです。
①婦人及び年少労働者に特殊の労働条件並びに労働問題の調査に関する事項。
②婦人の地位の向上その他婦人問題の調査及び連絡調整に関する事項。
③家事使用人及び家族労働問題並びに労働者の家族問題の調査に関する事項。
④婦人労働問題、年少労働者問題及び婦人問題の啓蒙宣伝に関する事項。
⑤地方における婦人労働問題、年少労働者問題及び婦人問題の委員会に関する事項。
⑥婦人労働問題、年少労働者問題について地方官庁、都道府県及び関係方面との連絡に関する事項
今でも通じる話は多くありますね。時は待ってくれませんでした。
全速前進!労働省婦人少年局
そうして急ピッチで整えた地方職員室の活躍は目覚ましいものでした。長崎県職員室では看護師の労働実態を調査しましたが、原子爆弾の被害の土地で県や市も実態把握が難しい土地で婦人少年室が1番最初にその把握に勤めました。法整備が未発達だったため、かえって縦割り行政の弊害を受けず、いわばドラマの特命係のように取り組めたわけです。山形県職員室では少年少女の売買行為が戦後も行われていましたが、労働基準監督署が整備されてそれは解消しました。ただだから貧しさから解決された訳ではないので、その相談援助は全て婦人少年局の業務になりました。分刻みのスケジュールです。
その間においても、労働大臣所管の諮問機関である婦人少年問題審議会を設置。様々な建議が答申され、その実行において大きな推進力になりました。「日本国有鉄道法第33条に対する建議」「売春等処罰法案に対する建議書」「年少労働者の労働条件と環境の改善向上に関する具体的方策について」「女子の職場拡大方策中、看護婦問題について」こうした答申や建議は全て1年以内に行われています。地方職員室の活躍があってもですが、戦前の山川菊栄という人物が起こした社会主義的婦人解放運動がボトムアップとして行政を動かしていました。現実主義で課題にあたる菊栄の大活躍は全国に拡大。毎月1日に発行された「婦人少年局月報」は当時としては異例の世界の婦人労働者の比較のデータや課題の設定、調査報告が掲載され当時の状況がよく理解できる貴重な一次資料です。特に実態調査は菊栄肝煎の方針で官公庁職員、製糸工場女子労働者、看護婦、家内労働など多岐に渡り、その職場の実態把握、労働者の出身地、宿舎の様子、労働条件、仲介業者の存在など戦後すぐとは思えないほど綿密な調査が行われていました。当時の婦人少年局はアメリカ労働省婦人局のノウハウが活かされ、労働基準法の整備に当たっても現場の実行力が担保されている婦人少年局の調査を法作りに役立てました。
さらに婦人労働者や年少労働者を福祉増進キャンペーンや保護運動なども婦人少年局主導で行われました。その時のスローガンは「もっと高めましょう 私たちの力を 私たちの地位を 私たちの自覚を」というような権利も主張するが義務を果たすことが労働者として重要だという極めて穏当なものでした。しかしこの活動に内務省の流れを汲む男性官僚には大いに不評でした。「国費を使って贅沢な運動をしている」その大事な国費を太平洋戦争に全てベットし、破産した内務省に言われたくないですが、戦後は産業の復活もまだ再建が遠くこうした啓蒙運動は一部から不評を買っていました。ですが、なにぶん後ろ盾がGHQ労働課。「女はすぐにアメリカ軍に言いつける」という批判もあったらしいですが、国家を傾けて全ての人の生活を台無しにした旧内務官僚の驕りもまた市民感情に好かれたものではなかったです。こうして山川菊栄局長のもと順風満帆に活動していた婦人少年局に冷戦の影が潜んでいました。きっかけは第三次吉田内閣の成立でした。
婦人少年局の衰退
社会主義政権である片山哲内閣が倒れると、吉田茂内閣は公務員定数の削減を打ち出します。公務員の雇用の増加は復員兵の職場の確保という側面もありましたが、中華人民共和国の成立、占領軍であるマッカーサー元帥によるドッジ・プラン、シャウプ勧告など猛烈なインフレが発生し、中小企業の倒産が相次ぎその手は公務員定数削減まで手をつけようとしていました。その点で切りやすかったのは、婦人や年少労働者を扱う新進気鋭だが、組織としては新しく熟練度はまだこれからという労働省婦人少年局でした。女子労働は結婚前のお小遣い稼ぎにすぎない。民主化した日本とは言えこうした帝国の亡霊のような偏見はまだ色濃く残っていました。山川菊栄局長の活動は婦人労働者よ、声をあげよう!そのためには自覚を持って働こうという極めて穏健的な内容でしたが、旧内務官僚から言わせてみれば、単なるアカの思想でした。社会の役に立つ婦人労働者の育成を掲げていた婦人少年局のスローガンが頑迷な共産主義運動になるのだったら、今の日本はまごう事なく共産国家です。ただ太平洋戦争の失敗を大して反省していなかった旧内務省の一部はこれ幸いに山川菊栄局長の解任を目指していました。これぞ唾棄すべき社内政治というものですが、奥の院を知り尽くした官僚は政策より出世競争の方がその闘争本能に火をつける事がありました。当時の官僚制度において役職は1年交代の箔付以上の意味を持たず、つつがなく適当に表彰式を行い、また次のポストを目指す体制において山川菊栄局長の活動は異例でした。婦人少年局の傘下にも監視役が存在し、また財界の支援を受けていた吉田茂内閣は労働組合そのものには冷淡でした。彼は戦後復興の立役者と言われていますが、マッカーサーの方針を小判鮫のように付き従い、達成できただけでその政策が正しいのなら、吉田以上にマッカーサーの占領政策を右派はもろてをあげて、賛美しなければなりません。随分とGHQ陰謀論者も右派には多いのですが。
GHQ印の労基法の改正は吉田茂率いる民主自由党の一つの方針で、財界に巨額の献金を受けていた与党は内心菊栄を罷免したくてしょうがなかったのですが、周囲の要望もあり職に留まっていました。辞表自体はすでに出していたのに労働大臣自体が受理しません。完全に根回しが成功したタイミングで「正当」な理由をつけて追い出す。それが旧内務官僚が大日本帝国で力をつけた一種の闘争本能でした。遂に現実になったのは、1951年の事です。労働協約促進にかんする女子労働者への教育活動草案の省議に対し、論争が行われました。労働協約に関する事項は労政局にあり、婦人少年局の処理能力では足りないという攻撃が行われ、組織の動揺を防ぐためギリギリのタイミングで能力不足を理由に菊栄を解任しました。民主自由党政権下で菊栄は常に辞表を持って職務にあたっていましたが、流石にこの不誠実さは怒るより、呆れでした。こうした労働省の社内政治について、ナショナルセンター総評の婦人部が労働省にかけ合ったところ、彼らの回答は「人事院が決めた事だから」というものでした。こうした組織において責任逃れの方便だけは数が多くあります。吉田茂内閣は婦人少年局廃止まで踏み込んでいました。これを機にGHQの「ミンシュカ」というおままごとからおさらば。官僚は婦人労働者よ年少労働者みたいなものに囚われるのではなく、もっと大局を。とでも吉田茂も思ったのではないのでしょうか?さて一度アリが一穴を開けた運動は簡単に流れが止まらないのです。
全国に広がる民主主義
51年9月婦人有権者同盟、大学婦人協会、労組・政党婦人部などから構成される婦人少年局・児童局廃止反対協議会を結成し、全国で街頭活動を実施。その波は労組や革新側だけではなく保守政党を支持する婦人や選挙権のない年少労働者も中核の一つでした。こうした運動の広がりは婦人少年局や地方職員室が職務に対して誠実であった証左です。婦人参政権が導入され、有権者の半分は婦人となり民主自由党も対策として婦人部長をおいていました。そうした懐柔策のような軽い提案に対し、民主自由党は己の判断の甘さを痛感した事でしょう。そうした全国に広がる民主化運動に恐れをなした民主自由党、労働省の旧弊の官僚たちは当初のプランから軟着陸ができるように策をめぐらせたのですが、これは策士策に溺れるという事です。GHQも事態を重く見て婦人少年問題審議会会長である藤田たきに菊栄の後任として打診しましたが、藤田は断りました。無くなるかもしれない部局のトップになれとは人を馬鹿にした提案です。藤田はそれを逆手にとって婦人少年局の存続と引き換えに局長に就任しました。
その後の歴史はご覧のとおりです。女性の地位向上は国際的な運動となり当時では考えられないことが今では当たり前です。女性が職場で誇りを持って働くことですら、否定された時代に比べると急速な社会変革が行われました。
山川菊栄の活動は戦前は女性解放運動家兼任社会主義者でした。もちろんその運動において過小評価されるものではないですが、数々の有名人に比べれば歴史の教科書に掲載される1人にすぎないです。ですが彼女の全盛期は戦後にありました。菊栄は後に「どんな失敗があったにしろこの間あくまで良心的に行動し、主張をまげなかったこと」が反動的な動きに対して草の根運動でひっくり返すができたと述懐しています。
ジェンダー平等の予算を削って減税しろ!無駄だ。と言い張る人が増えた現代において山川菊栄の名前は再評価されるべきですが、そうした社会の変革にどっしりと成長させてもらいながら、さらにフリーライドを決め込もうという主張は大変残念です。一ミリも大日本帝国の旧弊に同調する気もないですが、当時の官僚もまさか減税ポピュリズムが大暴れをする世の中は嘆いたでしょう。そうした思想の根っこは内務省の旧弊たちと同根で、自分がどれだけ使ってもいい他人のお金には無頓着になるものです。減税の結果、道路の補修がされなくなれば文句をつけそうな人が減税に浮かれきっており、結果として力を溜め込むことになる富裕層はとりあえずダンマリを決め込んでいる。たまに「努力しても税金で取られる」という主張を戦前と同じように繰り返す。人間とはなかなか学習できない生き物です。
山川菊栄の生き方は、簡単に信念を曲げるどころか信念もない男たち、女性初という名の権力が欲しくて信念なき男に追従するしかない女たちが現代社会で増えていくなかでその名に値打ちが出てくると感じています。自分の人生を簡単に諦めないという強い信念も必要だと確信しています。