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zenpaku
Hvalaセルビア‐2:阿鼻叫喚のセルビア
1999年、南半球は翌年に迫ったシドニー五輪とミレニアムに浮かれていた。
祭りのように浮かれたオーストラリアのシドニーで、私もまた、そんな機運を享受して生きていた。街は開発が進み、きらびやかに発展していく。
私は、そんな街で小さな小石に躓くような出来事はありながらも、休日には映画を観たり、公園やビーチでくつろぐ平和でのびやかな日々を過ごしていた。
ある日の午後、私は平和な国でソファーに寝ころびながら、チョコレートアイスクリームを食べていた。たぶん、その夜のお出かけの予定をぼんやりと考えながらテレビのチャンネルをパタパタと変えていたように思う。
そこで偶然に映し出された映像。
鬼気迫る恐怖に慄く人々顔、灰色の煙があがる廃墟と化した民家、そして、映像の中央を無数に飛び交う黒い弾丸の影。
バルカン半島のコソボ紛争だった。
プラトーンやプライベートライアンよりもはるかに恐ろしい地獄絵図に私は思わずのけ反った。
なんだ、これ?なんだ、これ?あ、これは「本当の戦争」だ。
1999年、バルカン半島はユーゴスラビア紛争の真っ只中にあった。
朝昼夜問わず「ババババババーッ、ドムッ、バババッ」。歩けば標的。
近所のお店にトイレットペーパーを買いに出かけた帰り道に、銃弾に吹っ飛ばされ命を落とすアナーキーな日常。・・・ありえへん。
そんな「ありえへん世界」で少なくともそのテレビ映像が撮影された時刻まで、その少年は生き延びていた。
1999年、私たちは同じ地球で同じ時代を生きていた。
しかし、その日常は似ても似つかないものだった。
※To Be Continued「Hvalaセルビア‐3」へ続く。