【エッセイ】うたえなかったから 長尾早苗
ドロシーに憧れていた少女時代があった。
あんな風に可憐に歌えて踊れる芯の強い女の子をミュージカルで見て、すっかり彼女のとりこになった。
ドロシーとは、『オズの魔法使い』に登場するカンザス州育ちの農場の娘のことだ。
いつかドロシーを目指したかったし、歌手になれると思っていた。子供のころの夢なんて、そんなものだ。
お風呂でいつも歌をうたうわたしは、丹念にリンスもコンディショナーもしていく。次の日学校に三つ編みにしていくための、長く黒い髪を。
いつだろう。いつだったろう。
結婚して流行り病の時代になってから、めっきり歌をうたうことが減った。
引っ越してすぐのマンションの防音がなされていないのもあるのだろう。時折隣の部屋の模様替えの音が聞こえる。
どうしてうたわなくなったのだろう。いつから音楽をあきらめてしまったのだろう。
他人の目を、いつだって気にしていた気がする。
自分の詩がどう読まれているのか、自分がどう見られているのか。
そんなことを考えていたら、自然と「笑顔」がデフォルトになった。
「早苗ちゃんって、歌下手だね」
誰も言ってくれないけれど、気がついていた。
わたしには宇多田ヒカルもミスチルも歌えないということにも。
それだからわたしは、旋律に近い形で詩を読む。
ポエトリーリーディングというものに出会って、自分の声がまんざらでもないことを知って。
わたしは劇的に変わった。
誰かと話すことは苦にならなくなったし、失敗があっても「えへへ」で済ませられることもあることを知った。
詩と音楽はとても似ている。
以前、すべての学問の根底は音楽だということを少女漫画で知った。
ことばを乗せてうたえなくても、わたしはうたえなかったから、今日も詩を読む。
※長尾早苗さんが「木漏れ日の中で」「サボン」を寄稿した詩誌ラヴァーグ創刊号はこちらで購入できます。