ヒロアカ42巻431話 描きおろしを読んで
2024年12月4日に「僕のヒーローアカデミア」の最終巻、42巻が発売となった。この42巻には、週刊少年ジャンプに連載した430話までに加え、作者の堀越先生による38ページの描きおろしである431話「More」が追加されている。
日本時間で0時、42巻を電子書籍にて読むことができた。その感想または自分なりの解釈を以下に述べることとする。
●時系列
以降の解釈にはあまり関連性はないが、まず時間軸および緑谷たちの年齢を整理したいと思う。
雄英高校での緑谷たちの卒業シーンの描写から「8年後」、どこかの中学で進路希望の話をしている場面から、430話は展開される。「いよいよ受験生だ」というセリフから、中学三年生になったばかりの4月だと思われる。
ここで、「いつから8年後なんだろう」という疑問が沸いた。
卒業式から8年後だと考えると、高校3年生(17または18歳)から8年後なので、緑谷たちは25歳または26歳かと思われるが、その後の障子の「8年前蜂起した彼らへ」というセリフから考えると、「卒業式から8年後」ではなく「大戦から8年後」と考えるほうが妥当である。
これは42巻の「洸汰くんは公表年齢(8巻公表時5歳。現在6歳)だとまだ高校生になれません。」という部分からも読み取れる。
緑谷たちの卒業式時点で、洸汰くんは8歳、そこから8年後だと仮定すると、洸汰くんは16歳となるため、この記載は必要ではない。つまり洸汰くん(誕生日は12月12日)は、本当は林間合宿時点で6歳で、大戦終了時で7歳、そこから8年後で15歳。つじつまを合わせるためにこの記載が必要だった。
そして、大戦終了後に緑谷たちが高校2年生(16または17歳)だったことを考えると、現在A組みんなの年齢は24歳または25歳となる。
緑谷が教師になるためにどこかの大学の教育学部等に進学したとすれば、教師生活3年目のまだまだ新米教師、ほかのA組のみんなと同じように大学には進学せずに教師になったとすると教師7年目、そこそこ慣れてきた頃合いであろう。(大学にもヒーロー科はあるらしいので、高校卒業後大学に進学している生徒がいる可能性もアリ。)
●「THE・あとがき」を読んで
私は作者のあとがきに書かれたこの文言を見てハッとした。
単行本発売前は描きおろしは430話の続きなのだろうと思っていたけれど、430話の最後に「42 私が来た!(完)」というマークがあること、また週刊少年ジャンプでは430話までしか掲載されていないことから、431話は「僕のヒーローアカデミア」という作品の続きとしてではなく、「キャラクターをヒロアカというドラマから解放し、感謝を示すために描かれた」ものだと理解した。そして、巻末ではなく”431話の前に”あとがきを差し込んだことにもこの描きおろしを描いた意図を示したいという作者の意向があるのではないかと読み取れる。
以下、作者のいう「ドラマからの解放とキャラクターへの感謝」ついて掘り下げていこうと思う。
●ドラマから解放とキャラクターへの感謝
「ドラマからの解放」つまり、10年間にわたって続いていた「僕のヒーローアカデミア」という物語からの解放である。「OFA(ワンフォーオール)とAFO(オールフォーワン)」を巡る大きな渦」に巻き込まれ、彼らはひたむきに「ヒーロー」をやり続けた。この物語の中核を担う彼らは、どんなに痛くてもどんなに苦しくても「ヒーロー」であり続けなければならなかった。
そして、大戦が終わった今もその痛みを抱えている。
この2つの要素を読み解くには431話を丁寧に見ていく必要がある。特筆すべき描写を抜粋していく。
431話は麗日の夢にトガヒミコが現れるシーンから始まる。
トガの好きなスズメの舞う、穏やかで平穏な世界。
場面は変わり、麗日の個性カウンセリングに協力するかつてのビッグ3、通形ミリオ、波動ねじれ、天喰環が登場する。
天喰が麗日に「じゃあ今は自分の為の時間も取れるんだ?」と聞いていることから、以前から麗日は休む暇もなく個性教育の仕事に心血を注いでいることが読み取れる。それに対して麗日は、
こう答えていることから、「ヒーローとしてやっていることが自分自身がやりたいこと、その時間は元々取れている」という考え方をしていることがわかる。
その後、ヒミコが1か月くらい前から夢に出てきて何かを伝えようとしているのではないか、と蛙吹に相談する麗日。二人は肩を寄せ合って、「じゃあ夢の内容思い出さなきゃね」と、そこにトガの敵意などは全く感じていないような優しい空気を纏っている。
場面は再び転換し、切島を助手席に、緑谷を後部座席に乗せスポーツカーを走らせる爆豪。爆豪に軽口を叩く緑谷、そこにはかつてのようなビビってしまう彼はおらず、また、怒鳴り散らす爆豪もいない。平和で平穏な幼馴染だ。
ふと、爆豪は緑谷にこう聞く。「おまえ教師(しごと)辞めねェの?」
緑谷は「うん」と答え、爆豪中心となってA組みんなで共同出資を行ったことにより完成したアーマードスーツでのデータ収集は、授業のない日にやっていると答える。
困っている者に須らく手を差し伸べて、みんなを救おうとする、心の底からヒーロー然とした男、緑谷は死柄木弔(志村転狐)を救えなかった後悔から、「ヴィランになる前に救いたい」という理由で教師という道を選んだのだろう。誰も取りこぼさず、みんなを救けるために。
この点で、麗日と緑谷は共通している。麗日は渡我被身子を、緑谷は志村転狐を救えなかった後悔があり、二度と同じような顛末を辿らないために「自分がなすべきこと、やらなければならないこと」を定め、行動している。
緑谷の上記の返答から、緑谷をサイドキックとして自身の事務所へ入所させたいという誘いを断られることとなった爆豪。そんな緑谷に対し爆豪は「ふーーーーーーーーーーーん」と不服気に反応した後、こう発する。
1つ目の言葉について、爆豪は緑谷のことをいじめ、見下し、ヒーローになりたいという緑谷の思いを否定していた過去があるからこそ、「俺が言えることかわっかんねぇけど」と前置きをしたのだろう。俺はお前を散々見下してきたから、俺が言えるようなことかどうかは分からない、といった意だ。
そのうえで、「自分のことをもっと高く評価しろ、自分が本当にやりたいと思っていることに気づけ」というメッセージを送りたかったのではないか。
また、この点について、緑谷が切島から「緑谷おめー今誘われてんだよ事務所に」と言われて初めて自分が爆豪に事務所に誘われていると気づくことから、「俺がお前を事務所に欲しがるほど高く評価していることに気づけ、自分を価値ある存在だと自覚しろ」という意味にも取れる。
2つ目の言葉について考える。「皆特別は誰も特別じゃない」と爆豪が緑谷に言った、その真意は何なのか。緑谷は「なんだァ…?」とその意がつかめない様子だった。
私の解釈はこうだ。
爆豪は緑谷のことを「あいつはは根っこの部分で自分を勘定に入れない」と評している。つまり、緑谷は己自身のことよりも、相手を救けたい、何かしてあげたいという気持ちで動いてしまう。そして、皆が特別だから教師も、ヒーローも、皆を救うための活動(講演云々のくだり)も全てやろうとしてしまっている。本人はそれをやりたいことというけれど、でもそれは自分の本当の特別に向き合っているわけじゃない。己自身の中にある感情ともっと向き合ってやれ、という意味だと。
「須らく、みんなを救ける」しかない緑谷に、「もちろんそれもお前だ。でもそれ以外のお前もいるだろ、ちゃんと見てやれよ」という爆豪なりの助言だと感じた。
緑谷のことを「あいつはは根っこの部分で自分を勘定に入れない」と評している爆豪だからこそ、緑谷にかけられたセリフなのだと。
つまり、爆豪は「事務所に入ることを断った」緑谷に不満を感じたわけではなく、「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られて、「自分自身(主体)または自分自身が本当にやりたいこと(欲求)」に気づけていない緑谷がそこにいることに得も言われぬ不服を抱いたのではないか。
これは、私が麗日に感じたものと共通している。
二人とも、「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」を「自分自身(主体)または自分自身が本当にやりたいこと(欲求)」だと混同している、あるいは取り違えているのではないか。
そこに「主体」や「欲求」があることに、蓋をしているのではないか、と。
そして、作者のいう「ドラマからの解放」はこの、蓋をしていた「主体および欲求」に本人たちが気づき、その蓋を開けてあげることなのではないか、と。
その様子は轟にも当てはまる。
ここで、轟は「なりたい自分=ヒーロー」以外の自分自身(主体)に気づき、自分が好きなこと、やりたいと思ったこと(欲求)を叶えるために石川のお椀と箸づくり体験教室に行くことを決める。
家族間での確執、軋轢、摩擦…その先に待ち構えていた如何ともしがたい残酷な現実。それらすべてを乗り越え、「ヒーロー」としてだけではない轟焦凍、「ヒーロー」としてだけではない轟焦凍自身としてやりたいことを、彼は見出した。
そして、かつてのB組の黒色と希乃子が交際関係になっていることや、上鳴と耳郎の恋愛関係について言及している様子からも、かつて大戦の渦中にいたみんなが「主体・欲求」に目を向けられるようになっていく様子が描かれている。これこそが、ホークスの掲げた、理想の「ヒーローが暇を持て余す社会」が目前まで迫っているようだと感じさせるような…。
ふと、緑谷の視界に麗日が入る。食べ物を頬張る麗日を見つめる緑谷。これは429話で、おにぎりを頬張る麗日をみつめる緑谷の描写と重なる。
429話では、緑谷は麗日が抱えるトガへのやりきれない後悔の念に気づき、後を追いかける。
431話ではどうだろう。431話でも同様に、緑谷は麗日が抱えるトガへの想いに気づいたかのように思える。それと同時に、「自分でも――気付かなかった自分か…」という文言のあとに麗日を見ることから、自分の中に、麗日への何かしらの感情を持つ自分がいることに気付いたのではないだろうか。
場面は変わり、緊急出動要請がかかるが、すぐに制圧。宴会はお開きとなる。ほうぼうに散らばる皆だったが、「もっと…もう少し話したかったな」と思いながら帰路につく麗日を緑谷が追いかけてくる。
これは緑谷が爆豪の言葉や、轟やほかの人たちの話を聞いて、自身でたどり着いた「主体」と「欲求」だ。
つまり、ここでの緑谷は義務や責務にとらわれているのではなく、「麗日に何かしらの感情を持つ」主体(自分)と「麗日ともっと話したい」という欲求に気づき、それを原理として行動している。
では、なぜ麗日だったのか。
理由はいくつも考えられるが、描きおろしおよび本編で読み取れる内容から論理的に考えてみる。
緑谷が麗日に近づく前に「僕の ヒーローだ!」というコマが挟まれていることが大きなヒントになるだろう。蔑称だった「デク」というあだ名に「頑張れ!!って感じでなんか好きだ」と新しい意味を与え、一人で戦うことを決め、ぼろぼろになった緑谷を守るために「まだ学ぶことが沢山ある普通の高校生なんです」と涙ながら主張した「僕のヒーロー」である麗日を「特別」だと思うのは、きわめて自然な感情の流れなのではないだろうか。緑谷をヒーローたらしめたのが爆豪やオールマイトであるとすると、緑谷を個としての人間たらしめていたのは、いつも麗日であったのだ。
一方、麗日は。
頭の中でトガの声が聞こえる。
トガに背中を押される形でデクに近づく麗日。
彼女もまた、ヒーローとしての義務や責務を優先するばかりで、ずっと心の奥に閉まっていた緑谷への恋心(主体・欲求)を取り出せる形となった。
ここでいう、トガの「好きに生きてね」というセリフは「思い通りに生きてね」という意味と、「好きという気持ちに正直に生きてね」という意味の両方に捉えられる。
主張をまとめよう。
作者のいう「ドラマからの解放」とは、「ヒーロー」として「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られていた彼らが、蓋をしていた「主体および欲求」に気づき、その蓋を開けてあげること。
また、「キャラクターへの感謝」とは、上記のように、主体および欲求に気づく彼らを描くことで、「今まで長い間ヒーローとして生きてくれてありがとう。これからは自分自身を見つめて、好きなことやりたいことをしていってね。」という作者なりの贐(はなむけ)だったのではないだろうか。
431話の最後では、「もっと話したい」という緑谷に、麗日が「気が合うね!」と返し、顔を真っ赤にした二人が手を取り合って終わる。
ロマンチックに手を繋ぐわけでも抱きしめあうわけでもなく、二人は互いの手を固く握り合う。まるでそこに何らかの決意が込められているように。
●緑谷と麗日、二人の関係について
以上述べてきたように、私は「この描きおろしで作者が伝えたかったことは何なのか」という点にフォーカスして解釈を行ってきた。
これからは「緑谷と麗日、2人の関係」という主題のもと、今までの解釈を踏まえて深堀をしていこうと思う。「この作品の結末は緑谷と麗日の恋愛に帰着する」つまり「恋愛が軸となっている」というような捉え方をしていない私にとって、このトピックに言及するのは無粋かと思ったが、種々の感想を見るに、描きおろしの感想のなかでいちばんの火種になっているトピックなのではないかと感じたため、自分なりにたどり着いた解釈を述べていこうと思う。このトピックはカップリング論争に関わってくる可能性があるため、前述のトピックより増して一個人の解釈に過ぎないということを念頭に置いて読み進めていただきたい。
まず、「緑谷と麗日はカップルとして成立したのか」という点について。
「カップルとして成立」というと、
1. 交際関係に至ること(結婚もここに含まれる)
2. 恋愛関係に至ること(お互いに恋愛感情があるが交際してはいない)
3. お互いに特別な感情の矢印を向けあうこと
という3種類の解釈があり、個々人によってその定義は異なるように見受けられる。読んでいる方は自分はどれにあてはまるか考えていただきたい。
ここでは3種類すべてに言及して、2人の関係を考えていこうと思う。
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まず、1の「交際関係に至ること」をカップル成立の定義とした場合、「カップルは成立していない」だろう。
この二人は「交際関係に至ってはいない」ことは如実であるかと考えられる。結婚はおろか、抱きしめたりキスをしたりで終わっているわけではないことからそう判断した。ここはあまり読者によって意見が割れる部分ではないと思う。
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次に2の 「恋愛関係に至ること(お互いに恋愛感情があるが交際してはいない)」をカップル成立の定義とした場合について。
この「2人が恋愛関係に至ったか」に関する読み手の意見が割れているように感じる。緑谷が麗日に向ける感情が「恋愛感情」であると断定するか否かは、読み手の受け取り方に委ねられているからだ。(麗日から緑谷に向ける感情は、本編で丁寧に描かれているように恋愛感情だと考えている。)
緑谷が麗日に向ける感情を「恋愛感情だ」と受け取る人もいるだろうし、「恋愛感情ではない」と受け取った人もいるであろう。これは読み手の受け取り方次第であり、それは「自分がどう感じるか」なので、私が言及すべきところではない。
以下、私はどのように受け取ったか、一個人の解釈を述べる。
私個人は「緑谷が麗日に向ける感情はこの時点では恋愛感情ではない」と受け取った。そのため、前述の定義に沿うと、「カップルは成立していない」ということになる。なぜ、この時点では恋愛感情ではないと思うに至ったか、理由は3つ挙げられる。
1.特別を自覚したであろう瞬間である、宴会で麗日を見つめる緑谷の表情に注目。この時点で恋心を自覚していたら、出動要請がかかる直前の緑谷の表現は赤面等、明白な変化が描かれているのではないか。
2.麗日を追いかけてきて、「もっと話したい」という緑谷の顔が真剣そのものであること。恋愛感情を自覚して「もっと話したい」というのであれば、緑谷のこれまでの反応から考えると過度に赤面すると思われる。文字通り、「もっと話したい」という欲求の表出だ。
3.本編での恋愛に不慣れなクソナードであるという描写や、描きおろしでも「鈍感」だと描かれている緑谷が、爆豪や轟の言葉で自分の気持ちを考えるに至ったこの瞬間に、自分が抱いているのは恋愛感情である、と果たして気づくことができるのか。
もちろん、今後麗日とのやりとりを通して、緑谷が麗日に抱く感情を「恋愛感情」だと自覚する可能性はあると思うが、それはこれからの話であり、物語のこの瞬間においては、恋愛感情を自覚するまでには至っていないのではないか、というのが私の解釈だ。
なぜならば、前述したように、緑谷は麗日を「僕のヒーローだ!」と評しており、そのコマが直前に挟まれているからだ。この「僕のヒーローだ」という表現には、尊敬、信頼、感謝、そして憧れが複雑に絡み合っているといえる。ただし、この感情は必ずしも恋愛的なものに限定されず、緑谷が「ヒーロー」という言葉に込める特別な価値観(強さ、優しさ、理想像)を反映したものと考えるのが自然だと、私は考えた。
そのため、この時点で緑谷が麗日に抱く感情を「恋愛感情である」と断定はしなかった。もっと複雑で、説明しがたい感情であろうと。
(緑谷からの麗日への感情を「恋愛感情」と受け取っている人を批判するものではないことはご理解いただきたい。受け取り方は人それぞれだ。)
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最後、3について。
「お互いに特別な感情の矢印を向けあうこと」をカップル成立の定義だとした場合、この2人は「カップルとして成立している」。
緑谷は「自分の特別」を考えたのち、「麗日さんともっと話したい」という欲求に着地しているからだ。そこには明確な、緑谷からの麗日に対する感情が存在する。
しかし、そうであれば、強い絆で結ばれた師弟である緑谷とオールマイトも本編にてカップルとして成立していると言えてしまうし、全編を通して色濃く描かれていた幼馴染という関係性である緑谷と爆豪も、本編にてカップルとして成立していると言えてしまう。
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「カップルとして成立した」「お互いに恋愛感情がある、ない」で意見が割れているように見えるが、「カップルとして成立する」がどういった状態と定義するかは人によるし、「お互いに恋愛感情があるかどうか」についてどう捉えるかも人によるので、意見が割れるのは当たり前だ。この点においてすったもんだすることに、あまり意味はない。個人の解釈は読み手の数だけ存在する。
では、二人の関係はどうなったのか。端的に言うとそれは「わからない」である。わからない、というより知る由がない。と言ったほうが適切であろうか。二人の関係はぼかされたまま、カメラは降ろされたのである。
最後、力強く手を組む二人が、これからどんな道を選ぶのかはわからない。恋心を育む未来だってあり得るし、ほかの道だってあり得る。
作者でさえ、「主体に気づき、欲求を実現していく」キャラクターの末路は分からないだろう。もう、手を離れて、解放されたのだから。
そこにはあえて、想像の余地が残されているのだ。
●緑谷の変化について
恋愛云々と同じレベルで物議を醸したのは、「緑谷の変化」だと思う。
そしてこの点においては、ライトな層ではなく、この作品を深く愛しているいわゆるディープ層が相当なダメージを受けているように見受けられる。
「先生」に「やりたいこと」のルビがついている緑谷に衝撃または違和感を感じた人は少なくないだろう。無個性なのに、狂気的といえるまでに「ヒーロー」を目指した緑谷が、「先生」が「やりたいこと」になっており、ずっと背中を追いかけてきた幼馴染の事務所への誘いをいともあっさりと断るのだ。
この変化を、大戦を経験し「プロヒーローとしてヴィランと戦うことだけがヒーローじゃない」と緑谷が実感したから、と理由づけることもできるだろう。死柄木との対峙を通し、「ヴィランになる前に救ける」、それも自分がやれるヒーローの形のひとつだと。
だが、上述したように、この時点での緑谷は「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られている緑谷だからこういう発言をしたのだと、私は考える。この時点での緑谷は「自分自身(主体)または自分自身が本当にやりたいこと(欲求)」に気づけていないのだ。
爆豪や轟の言葉で、主体・欲求について考えることができるようになった緑谷。その一歩目が麗日との対話だった、というだけで、この先も「自分自身(主体)」や「自分のやりたいこと(欲求)」に気づき、素直に向きあっていくことだろう。
そして向き合っていく過程でいつか、OFAを譲渡される前の、大いなる使命を何も背負わずに気負わずにいられた、原初の欲求(ヒーローになりたい)を叶えたいという想いに到達するのではないかと、半ば希望論ではあるが、私はそう考えている。
自分に置き換えて考えてみてほしい。いつの間にか、「やらなければいけないこと」が「やりたいこと」に置き換わっていることはないだろうか。例えば責任感の強い人が、チームのためにプロジェクトを成功させることを「やらなければいけない」と考えていたが、それを「やりたいこと」として認識するようになったり。実際には責務や義務感から取り組んでいるが、これを自分の情熱として捉えることでやりがいを見出しているという例である。これ自体は全く悪いことではない。しかし、「本当の自分」「本当にやりたいこと」はそれ以外にも存在しているのだ。
緑谷はこれから、「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」から脱却し、「本当の自分」「本当にやりたいこと」に気づいていく、そのスタートラインに立ったばかりなのだ。
●爆豪について
今まで、作者のいう「ドラマからの解放」とは、「ヒーロー」として「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られていた彼らが、蓋をしていた「主体および欲求」に気づき、その蓋を開けてあげること、であろうと語ってきた。
緑谷、麗日、轟…といった物語の中心人物は「主体および欲求」に気づき、行動していく様子が描きおろしで示されている。
それでは、緑谷の幼馴染であり、準主人公ともいえる立ち位置の爆豪についてはどうだろう。
描きおろし内にて、爆豪が「主体および欲求」に気づき、行動していく様子は、特筆して描写されてはいなかったように感じた。(しいて言うなら、緑谷を自身の事務所に誘う描写がそれに当てはまるか。)
それもそのはず、爆豪は最初から、「ヒーロー」として「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られてなどいなかったのだ。
爆豪の目標は、ずっと変わっていない。「オールマイトをも超えるNo.1ヒーローになること」。それが彼の主体であり欲求なのだ。
彼は義務や責務などに囚われてはおらず、目標のためにひたむきに突き進んできたのだ。そして、彼はこれからも、その目標に向かってひた走っていくのだろう。
●まとめ
今までの解釈で、作者が描きおろしを通してやりたかったことは、あとがきで書いていた通り「ドラマからの解放」。つまりそれは「ヒーロー」として「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」に縛られていた彼らが、蓋をしていた「主体および欲求」に気づき、その蓋を開けてあげることなのではないか、と論じてきた。
ひとつ疑問が残る。
なぜ緑谷の「主体および欲求」の発見が「麗日との対話」だったのか、という点だ。再度ヒーローへの情熱を燃やすことでもなく、ヒーロー以外の好きなものに気づく、という表現でもなく。
私がたどり着いた答えは明白だ。
少々メタ的な視点からの発言となるが、作中にて「しまったまま」になっていた麗日の緑谷への恋心を発露させるおよび発露を仄めかすことは、この「ドラマからの解放」というテーマにとって都合の良い表現だったのだ。
(実際に描きおろしの中では、麗日の「恋心の発露」までには至っていない。鍵をかけた気持ちの鍵穴に、鍵を差し込むくらいまでの表現に留められている。)
「しまったままのヒロインの恋心」を結末までにどのように扱うべきか、そのプレッシャーが、作者に重くのしかかっていたのだろう。
裏を返せば、「しまったままのヒロインの恋心」を扱うために、「ドラマからの解放」というテーマでこの描きおろしを描いたとも考えられるのではないか。他人のためならば自分を犠牲にできる麗日が、鍵をかけた自分の気持ちを表出するためには、大きなトリガーが必要だ。作者もどう描写すべきか、相当頭を悩ませたことだと思われる。緑谷から「もっと話したいと言われる」という外発的動機付けと、トガから「もっと好きに生きてね」と言われる内発的動機付け(実際には外発的であるがトガは麗日の内部にいるので便宜上こうなる)があってこそ、やっと麗日はしまっていた気持ちに向き合うことができたのであろう。
そう考えると、431話が麗日の描写で始まり、麗日の描写で終わる点について、非常に納得がいく。431話にあえて主人公を設定するとすれば、それは緑谷ではなく麗日なのだ。
繰り返しとなるが、431話は、大きな戦いの渦に巻き込まれた緑谷たちがこれから、「自分がなすべきこと、やらなければならないこと(義務・責務)」から脱却し、「本当の自分(主体)」、「本当にやりたいこと(欲求)」に気づいていく、そのスタートラインを描いた話であると私は思っている。
そして、431話の題名である「More」だが、訳すと「もっと」「より多くの」「余分の」という意味だ。これは作者から今まで頑張り続けてくれたキャラクターへ、「もっと自分の気持ちを大切に」という感謝のメッセージなのではないかと私は考える。
「僕のヒーローアカデミア」は終わりを迎えたが、みんな一人ひとりが個を大切にしながら生きていく、そんな物語はまだ始まったばかりなのだ。