「なぜ人を殺してはならないのか?」という間違い
「なぜ、人を殺してはならないのか?」と言う問いは、その問いが間違っている。
上記の問い掛けは古今東西の倫理道徳において頻出する共通のお題であるが、その答えに関しては様々な意見が噴出しては水掛け論に終わる。そして、最終的には「なんだかよくわからないけど、人は殺したらダメだ」という精神論で強制的に結論付けられる。
この単純な問い掛けに、なぜ答えが出せないのか。それは問い自体が間違っているが故に、解無しとなるからだ。その理由を以下に述べていく。
まず第一に、「なぜ、人を殺してはならないのか?」と言う問いには、行間に「殺人の禁止」が前提条件として暗示されている。この「殺人の禁止」の暗示が、第一の間違いである。
言葉遊びの様に見えるかもしれないが、「◯◯してはならない」という文章は、対象「◯◯」を一定の状況下において完全な禁止とする。
これは「肯定と否定の選択が可能な上での否定」では無く、「一定状況下では最初から最後まで絶対に否定」という強力な意味を含んでいる。この絶対禁止の再三強調が「〇〇してはならない」という文章構成の含意である。
つまり、問い掛けに暗示されている部分まで明確にすると次の文章となる。
「人が人を殺す事は絶対に禁止されているが、なぜ人を殺してはならないのか?」
この時点で文法は正しいものの、意味が間違った文章となっている。第一の間違いである暗示された前提条件「殺人の禁止」が明示化された事で分かるのは、この問い掛けは「問いを投げていない」ことである。つまり、「殺人の禁止」の同意を迫った文章なのである。
こうして「殺人の禁止」は絶対であると指定しているが、そもそも人間が人間を殺す事は可能であるか不可能であるか。答えは明白であり、人間は人間を殺す事は出来る、可能である。
故に、第二に、「なぜ、人を殺してはならないのか?」と言う問いには、現実的条件として「殺人の可能」が含まれることとなる。
そして、第一と第二の条件を含むと次の文章となる。
「人が人を殺す事は絶対に禁止されているが、人が人を殺害する事は可能であり、なぜ人を殺してはならないのか?」
第二の間違いは、「禁止と可能の矛盾」である。問いの前提として、殺人は禁止されているが、同時に殺人は可能ではある。その上で殺人の是非を問う。一見すると解答が可能に見えるが、是と非の両要素の肯定を前提としてしまっているが故に、どちらも正しいと答えられてしまうのである。
つまり、「殺人はダメ」との答えは、前提条件の「殺人の禁止」を論拠に答えられる。一方で、「殺人はヨイ」との答えは、前提条件の「殺人の可能」を論拠に答えられる。だから、問い掛けは矛盾しているのである。
第一の「殺人の禁止」と第二の「殺人の可能」による「禁止と可能の矛盾」が、この問い掛けを「解答不可能」な問題とする原因であり、故に問題文が間違っていると断じられるのである。
結局のところ、「なぜ、人を殺してはならないのか?」という問い掛けは、殺人禁止の同意形成の為の方便だと結論付けられる。
始めから殺人は禁止されており、その肯定を広く共有する為だけの議題であり、否定する者は社会性を非難される場に晒されるだけである。
人間が社会的動物であるが故に、同族殺しを禁忌として社会秩序を維持するのである。それを長々と勿体ぶって、議論などというパフォーマンスする機会が「なぜ、人を殺してはならないのか?」という問い掛けの正体だと、私は宣う。
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もしも、建設的な議論をするのであれば、第一と第二を明示した問いから再構築すれば、「なぜ、人は人の殺害を禁止するのか?」が適切と言える。
だが、その問いは最初の「なぜ、人を殺してはならないのか?」という問い掛けからは離れることとなる。
なぜなら、「殺人の禁止」は基本的に人の集団によって形成される全体合意だからである。つまり、掟や戒律または道徳や倫理そして法律によって社会構成員の全員が守ると全体の利益になる、だから実施される。
この社会共同体の合意から発生した「殺人の禁止」は流動的である。時と場合、もしくは、相手によって殺人は許容されたり限定的に解除されたりし得るのである。それが、敵対勢力との戦闘行為や、死刑や私刑(リンチ)を含む刑罰である。
故に、「なぜ、人は人の殺害を禁止するのか?」の問いの答えは「人という動物が群れを形成する為である」となる。そして、続く「ただし」が社会的動物たる人類の辿ってきた歴史と共に長々と続くのである。
つまり、「殺人」に関する普遍的な解答と言うのは不可能であると言える。それでもなお「殺人」に関するテーマで議論をするならば、場合分けをしなければならない。
「なぜ、人は他者を殺す場合があるのか?」
「なぜ、人は他者を殺さない場合があるのか?」
しかし、この答えも結局はケースバイケースの具体例を列挙するに終始し、普遍的な解答を得るのは不可能であると言える。
この不可能性は、殺人の是非を定めようとする事自体が「虚偽」であるからだ。つまり、「神は存在するか否か」と同じ種類の問いであり、その真実は「個人の精神心理が何を信じているかによって変動する」である。
客観的事実として、神の実在非実在も殺人の是非も、人間の妄想に過ぎない。しかし、同時に、主観的真実においては、神は存在するし存在しないし、殺人も肯定され得るし否定され得るのである。けれど、その証明は個人の精神内でしか確認できない。
だからこそ、「殺人」というテーマは議論する為ではなく、表現でこそ意味が生じると言えるだろう。例えば、マルキ・ド・サド「悪徳の栄え」では、殺人の肯定をたっぷりと表現される。また、不殺をテーマにした表現作品も多量に存在する。
最後に、私が問い掛けに答えを出すとしたら「殺人はしても良いし、しなくても良い。なぜなら、しても意味は無いし、しなくても意味は無いからだ」とした両者を肯定し両者を否定することによって、白黒を着けない解答とする。
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余談
ちなみに、現実の対人会話において、「なぜ、◯◯してはならないのか?」という議題に際して、私がここで述べた様な「問いが間違っている」と発言すると、コミュニティーから排斥されます。
結局のところ、この形式の問い掛けで議論するというのは、「〇〇」に対する同意を共同体の構成員一同が再度確認する為の儀式であるからだ。目的は同意形成であって、その手段が議論形式なのである。
だから、そこで敢えて本当に議論を吹っ掛ければ、顰蹙を買うのは当然の帰結だと言える。人間はあくまでも社会的動物であり、「話せば分かる」は机上の空論であるのが今々現在でも同様なのである。
eof.
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