【生い立ちシェア】その① 0才〜12才
この記事では、わたしの生い立ちシェアができればと思います。これからライフキャリアコーチとして活動するうえで、わたしを知っている人も知らない人も、少しでも"わたしの人となり"を伝えられればと思い、書きます。
かんたんな自己紹介
1991年9月11日東京生まれ。現在は、とあるIT通信企業で人事、主に採用(国内外)の仕事をしています。趣味は、さんぽ、旅行、歌うこと。2022年12月にGCS認定コーチ資格を取得し、"はたらく女性を応援するライフキャリアコーチ"としての活動をはじめました!(現在、コーチングはお休み中)
詳細は、以下のnote記事をご覧ください。
生い立ち
わたしってなんか違う?からはじまった自我の芽生え
1991年、フィリピン人の母と、日本人の父の間に生まれた。
幼稚園に入った頃から、"母が外国人"であることを認識し、物心つく頃には、"日本と外国"や"異文化"を意識しはじめた記憶がある。
エピソードの一つに、フィリピンでは幼い時に耳にピアスを開けるのは"ふつう"のことで、わたしも幼稚園の時(4才)には、耳に穴が開いていて、母が買ってくれたかわいいハートのピアスをして登園したら、クラスの女の子に、"ピアスとかしちゃいけないんだよ"と言われた。その子も悪気なく言ったと思うんだけど、"わたしは何かいけないことをしている?"、母からは、ピアス開けたてだし、取っちゃいけないとも言われていたので、困惑した覚えがある。
この頃から、人との関わりをめんどくさく感じるようになったのか、一人っきりで黙々とアジサイにいるカタツムリを捕まえたり、人があまりいない砂場で遊ぶようになった。
母はあまり日本語が得意じゃないこともあって、授業参観や学校の催し事は基本、父が参加してくれた。お母さんばかりの輪の中に父が一人男性でいることも、"わたしは何かが違う家庭なのかも"と思わせた。
"ママは日本語がわからないから、私が教えてあげる!"って幼いながらにはりきっていた反面、"みんなと一緒じゃなきゃ恥ずかしいという感情"も抱くようになった。
弟が生まれてからは、一人ぼっちの感覚が薄まった。仲間ができた、そう思った。
"お姉ちゃんなんだから、弟のために〇〇してね"と言われ我慢することも増えたが、弟がかわいかったし、"お姉ちゃんとしてふるまう"ようにもなった。
小学校に通い始めたころ、新しい友達もできて、外で遊ぶのがだいすきになった。近所のクラスメイトと、一輪車、ローラースケート、自転車、プールで遊んだり、学校から帰ると、ランドセルを玄関に投げて、一秒でも早く外に行き、暗くなるまで遊んでいた。
突然訪れた、両親との別れ
そんな平和な日々を過ごしていたが、小学校2年生(8才)の頃に、父と母の喧嘩が絶えず、ある日突然、母がいなくなってしまった。父が仕事をしながら、私と弟の世話をしたり、色んな知人に預かってもらったりしたが、限界だったのだろう。父は、私の母の妹(わたしの叔母に当たる人)とつながっていたので、相談をした結果、わたしと弟はフィリピンの母の実家で生活することになった。
フィリピンに行く前夜、近所の友達がホームパーティーを開いてくれた。
泣く泣く友達とも別れることになった。
出発の朝、母が帰ってきた。私たちが好きなお菓子や必要なもの、お土産をたくさん買ってきて、荷物に入れてくれた。母にたくさん甘えたい気持ちと、なんで出ていったんだ、という怒りの気持ちと、離れたくない一緒にいたい、という悲しい気持ちが入り混じって、何も言えずに、ただ茫然と立ち尽くしていた。母も泣きながら、ごめんね、と、弟のことをちゃんと面倒見るんだよ、と、最後にハグとキスをしてくれた。あの時の母のにおいと感触を忘れたくなくて、その日はお風呂に入るのが嫌だった。フィリピンに入国する際に、バナナを食べている入館管理局の人に何かを問い詰められていて、父はつたない英語とフィリピン語で必死に説明する姿が脳裏に残っている。日本とは全然ちがうヤバい国に来てしまったかもと、子供ながらに思った。父、わたし、弟でフィリピンに到着した日、叔母と親戚が総出で5人くらいで何も言わずに、温かく迎えてくれた。数日後、父が日本に帰るとき、もうこれで会えなくなってしまうかもしれないという絶望感を感じた。心優しく、感受性豊かな父は、これでもかというくらいに人目をはばからずに泣いていた。母との別れの次に、父との別れを経験し、わたしは沸き上がってくるどうにもできない悲しみをどうしていいかわからなかった。でも、そんなことを言っている場合でもなかったから、たどり着いた異国の地で、何としてでも生き延びなければ、と幼い弟を抱っこしながら思った。
幸いなことに、叔母は日本に住んでいたことがあり、日本語を少し話せたので、生きる上で最低限のことは理解できたが、他の人との意思疎通はまったくできず、みんなが宇宙人に見えた。
小学校で2回も落第した
フィリピンで入学した学校は、かなり厳しいインターナショナルの進学校だったようで、当時小学校2年生だったわたしは、そのまま2年生として転校できると思いきや、英語もフィリピン語も全くできないという理由で、1年生に戻り、ビジター扱い(Visitor、お客さんてきな?)で最初の一年を過ごした。他のクラスメイトはテストを受けるけど、わたしは文字すらまともに読めないし、もちろん書けないので、見学しながら、必死にアルファベットを覚えた。
そして、ようやく一年が経って、やっと2年生(日本だったら3年生)になる年にもう一回、1年生をやりました(え?)。ということで、わたしは人生で3回も小学校1年生を経験している。(相当レアだと思う)
"いい子"になったら、みんなに愛される気がした
フィリピンの家庭は、ほとんどが敬虔なるクリスチャンで、清く正しく生きるように言われ、目上の人は常に敬わなければならない、が強い、そんな文化だった。
時折、反抗しておばあちゃんに怒られたときに、そんなだから、親に捨てられたんだよと言われて、そうか、やっぱり私がいい子じゃないから、両親はわたしを捨てたんだと思った。
だから、必死に勉強したし、良いと言われる行いはすべてやるようにした。そうやって"いい子"になれば、両親がいつか必ず迎えに来てくれて、また大好きな日本に住むことができる、そう信じて、必死だった。
その甲斐あって、いつしか学校では、
毎学期Outstanding Student(優秀な学生)として選ばれるくらいまで勉強も追いついた。
たくさん色んな人に褒められて嬉しかった。
自分を認めてもらえるような気持ちになった。
補足すると、両親は決して私たちを捨てたわけではなかった。毎月仕送りをしてくれたし、身の回りのことを全部やってくれる家政婦さんや、学校まで送り迎えしてくれるドライバーさんもいた。日本で生活するよりも、お嬢様のような生活を送った。
例えば、朝起きると、アイロンされた制服、あったかい朝ごはんが用意され、歯ブラシに歯磨き粉までのせて用意されているし、道路は一人で歩いたこともないし、学校も勝手に自由に出入りできないほど厳重にセキュリティに守られたところだった。
きっと周りからみたら、何不自由ない幸せなお嬢様に見えただろう。おじいちゃんは村長だったし、母は6人兄弟の長女で日本に渡って、フィリピンの家族をずっと養っているので(いまもなお)、そんな母の"子供たち"を大事にしないわけがなかった。みんな愛をもって育ててくれた。父や母からもほぼ毎日電話があったし、離れていてもコミュニケーションは取れていた。
父は熱心に、私が日本語を忘れないようにと、日本語での会話はもちろん、日本の漫画や本もたくさん送ってくれた。
日本人であることの誇り
実際、日本を幼い頃に離れ、国外から日本を見ることで、"日本の良さ"を肌で感じることが多々あった。例えば、フィリピンの人たちはよく"日本のモノのクオリティ"を褒めていた。
わたしが日本から持ってきた文房具(消しゴム、えんぴつ、筆箱とか)を学校にもっていくと、いいなぁって言われたり、日本のカップヌードルやお菓子、100均で買えるような日用品類をお土産に持っていくとすごく喜ばれる。日本とのハーフであることを羨ましがられたり、日本に行ってみたいっていう人もけっこういた。いわゆる親日国だ。
フィリピンで生活して2-3年経った頃、父と母の仲も修復され(たぶん)、二人でフィリピンに来たり、母だけ残り私と弟と過ごしたり。
夏休みになると日本に遊びに行ったりを繰り返した。あるとき、私がこのまま日本にいたいな、と呟くと、父がじゃあ日本にこのままいるか!と言い出し、日本でまた暮らせるようになった。
やっと日本へ帰国、待っていた地獄の日々
日本でそのまま生活できることになり、また両親と一緒に住めると思うと、私はとっても嬉しかった。日本の学校にも戻ることになったが、日本のでは年齢に合わせて学年が決まるということで、
わたしは小学校4年生になる予定が→突然6年生になった。(今度は飛び級?)
フィリピンでは一切日本語を学んでいない私は、体は小学校6年生だけど、日本語は小2レベル(もはや読み書きほぼ忘れている)で、敬語も話せないし、自分の名前の漢字すらまともに書けなかった。
ただでさえ苦手な算数も、4-5年で学ぶことがスパーンと抜けていたので、6年生で解く応用問題はほとんど解けなかった。
そして、思春期真っ盛りのタイミングで学校に戻った私は、ものめずらしさからか、見事にイジメられた。"くさい、フィリピン人、死ね、消えろ、国に帰れ"と毎日のように男子にからかわれ、体操着やリコーダーを隠されたり、よく泣きながら帰った。
わたしは日本人なのに。ハーフだったら、日本人になれないんだ。じゃあ、私は何者なの?と自問自答する日々。そんな私を慰めてくれるだろうと思い、藁にも縋る想いで学校での出来事を、父母に伝えると、父は"なぁに、泣いてるんだ!いじめられるほうにも問題があるんだ!外国人で何が悪いって言って戦ってこい!"(昭和?)と逆に叱られ、いじめてくる人たちを責めることもなかったし、他責にすることがなかった。
その話を聞いた母は、"ママが一番苦しいよ、ごめんね"って言いながら泣きじゃくってるし。勉強も遅れは取るし、イジメられるし、もう本当に死んじゃいたいと思った。自己否定される恐怖を味わったからなのか、今思えば"わたしのだいじな個性や経験"すべての歯車がうまく回らず、ネガティブな状態に作用してしまっただけなんだけど。でも、このような体験から"わたしは私であること"が怖くなり、蓋をしたのだとおもう。
後日談で、父がそうやって突き放した理由を大人になってから教えてくれた。"だって、あれでああ、いじめられてかわいそうだねって言ったら、本人(わたし)がいじめられている=被害者だと思わせて余計にかわいそうだと思った"からだということだった。きっと父も決死の覚悟でそう言ったんだろうなというのは、今だったら理解できる。
ただ、当時のわたしの心はおいてけぼりだった。悲しんじゃいけない、いじめられるほうが悪い、だったら、なにがなんでもいじめられないように強くなるしかない、そう誓った。
"英語"それがわたしにとって自分を守る唯一の武器だった
当時は小学校6年生でアルファベットを学び始める時代だったので、フィリピンで学んだ英語のアドバンテージはわたしを救ってくれた。
ある日、外国人の先生と会話をする機会を担任の先生が設けてくれて、全クラスの前で日常会話をしただけで、羨望のまなざしを受けた。英語の授業のときだけは無敵だった。ズタボロだった私の心を支えてくれたのは"英語"だった。
生い立ちシェアパート②へ続く。