ポジションとフィーリングはワンセット
昔から感情があまり表に出る方ではなかった。
というか、特に子供の頃は自分の感情がよくわかっていなかったのだと思う。
それなのに進学先は音楽系を選んだ。
リスナーとプレイヤーは違うなと感じる。
両者の間に、溝はあると思う。
もともと聴くことが好きだった。
そしてピアノを習っていた。
子供の頃は2者の間の溝を感じていなかった。
だから10代半ばで進路を決めるにあたり、漠然と『音楽好きだなー』だけでプレイヤーの勉強を始めた。
たぶん当時は本当は聴く方が好きだったんだと、今ならわかる。
プレイヤー側は意見を述べなければならない。
技術でつまづいてる場合ではない。
…はずなんだけどなあ。
実際は技術でつまづき、自分の気持ちにも鈍感だったので大学卒業後数年までの演奏は何が言いたいのかわからないし、今でも最も関心のある課題である。
それに極度の人見知りなので、自分の世界が極小だったことも関係が深い。
“この曲はこういう歌い方!”みたいなものって、音楽のジャンル問わずあると思う。
でもそれだけでは自分の音楽ではないので、演奏に説得力が薄い。
学んできたクラシックはカバーの音楽だから、より強く感じるのかもしれない。
…ここまではプレイヤーの時に感じていることであり、そうやってが発信することに魅力を感じている。
ちなみに同じことを、テレビで歌手が他のアーティストのカバーを歌っているとき感じている。
リスナーをしているとき、少なくとも私はこんなこと考えない。
いちいち考えていたら聴くことが面倒になる。
さすがにもっとラフに楽しんでいる。
例えば、ぼーっと深夜に聴くラジオから強烈な主張を持った音楽が流れてきたら、たとえその時半分寝てたとしてもたぶん飛び起きる。
リスナーとしての楽しみ方は、そういう出会いにあるんだと思う。
…こうして両者を並べてみると、大きな所では繋がっている。
でも、いざ自分がそれぞれの立場に立ったとき、どうしてもそれぞれの視点から音楽を見てしまう。
感じている隔たりはその程度かもしれないが、思ったより大きな溝でもある。
こんなことを考えるようになってから、ようやく自分が何を表現したいのかわかってきた気がする。