失われたビフテキの話
ビフテキとは何だろうか。
子どもの頃読んだ本に出てくる「ビフテキ」は
なにか高級料理であることだけがわかった。同時に「ものすごく美味しいもの」の代名詞であった。
ビフテキに憧れ、どんなものかと味を想像して、うっとりしながら本の世界に没頭していた。
いつかビフテキを食べられることがあったらどんなにいいだろうかと思っていた。
ところが中学生くらいになったころ、ビフテキが「ビーフステーキ」の略であることを知ってしまった。
自分の中での美しい「ビフテキ」が、音を立てて崩れさった。それは一種の喪失体験だった。世界一おいしいと思っていた「ビフテキ」は、永遠に失われてしまったのだ。
話は変わるが、「醍醐」というものを知っているだろうか。
「醍醐味」という言葉の語源にもなった食べ物で、仏教の経典に出てくる「最もおいしい味」の代名詞だとか。
今は製法は失われていて何か乳製品であることしか分からないらしい(最近Twitterで流行った蘇に近い食べ物という話もある)。
小学生でその醍醐の存在を知ってから、どんな味だったのかと考え、それが食べられたらどんなにいいだろうと考えたりしていた。
しかし、ビフテキの例を考えるにつけ、こう思った。
あくまで食べられないからこその憧れなのであって、もし本当に醍醐に出会ってしまったら、自分はまた憧れだった「醍醐」を失ってしまうのではないか?
それを手に入れたせいで本当の意味で失ってしまうのなら、初めから知らずに、虚像に憧れているだけの方が幸せなのではないだろうか。
土曜の昼からビールを飲みながら、そんな話を母に捲し立てた。
すると母は、「いつか駅前で食べた米沢牛のステーキが、私のビフテキだ」と言った。
衝撃。
なるほど。
ビーフステーキを見て悲嘆にくれるくらいなら、自分が「ビフテキ」と呼ぶに値するビーフステーキに出会えばよかったのだ。
旨い肉なんて探せばいくらでもある。そうして真に旨いと感じた時、それが「自分のビフテキ」になるのだ。
目から鱗だった。今すぐ中学生の自分のところへ行って、肩を叩いてやりたいような気分だった。いいか、お前のビフテキは失われてなんかいない!
醍醐だって、例え歴史書なんかで真の製法が発見されたとしても、それがそんなにうまくないものだったとしても、もう悲嘆に暮れることはないだろうと思えた。
そんなわけで、今から「自分だけのビフテキに出会う」ことが、人生の目的に追加されたわけだ。
おいしいステーキが食べられるお店を知ってる人、紹介お待ちしております。