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過保護と真っ白と無関心

○僕を囲む過保護と無関心の檻

僕の親は「毒親」です。
人間関係としての距離感 バグってます。
母親が「過保護」父親が「無関心」です。
過保護とは距離感が近すぎて鬱陶しく感じます。
無関心は逆に距離感が遠すぎて疎遠感があります。

人間関係において「パーソナルスペース」といって
他人に近づかれると不快に感じる空間距離の事で、
「対人距離」とも言われたりします。人によって
仲の深い関係であれば距離は近づきますし
仲の浅い関係であれば距離は遠ざかります。

パーソナルスペースにおいて4つの分け方がされます。

・密着距離 0cm~45cm
家族や恋人、親友にあたる距離

・個体距離 45cm~1.2m
友達や知り合いにあたる距離

・社会距離 1.2m~3.5m
仕事などのビジネスの場面にあたる距離

・公衆距離 3.5m以上
全く知らない人や公共的場面にあたる距離

性別や年齢、性格や内向型・外向型などにより
人によって違いは出てくる事もありますが一般的には
上のような距離で定義される事が多いかと思います。

パーソナルスペースにおいて 様々な情報を見ますが家族は大抵の場合 密着距離として扱われています。ですが近年の家族像や虐待やDV、育児放棄などの毒親や親ガチャという言葉、社会現象が起こっている現状を見ている限り、公衆距離以上に離れた関係性や人間関係の崩壊にまでなっているように感じます。

そんな現代になってもなお
「家族なんだから大切にしな」とか
「お金をかけて育ててくれたんだから」とか

家族は絶対的善であると思い込む人が多いと感じます。

ひろゆきさんの「それはあなたの感想ですよね?」
最近 ネタで流行っていたような事がありましたが
凄い人間関係の本質を貫いてる言葉だと僕は思います。

「そう考えてその価値観を持ち、そう思って発言しているのはあなたであり他の人がそう思っているとは限りませんよ」という「客観視」で大切な視点の持ち方を教えてくれる事がネタで扱われてる事が残念すぎて呆れちゃってるところですが価値観に固執してる人々が浮き彫りになっていると思うとなんか面白いなぁと観察してる自分もいます。

過保護と無関心の対極的な親を持って分かった事は
「人間関係における距離感の重要性」です。

話は戻りますが、僕の親とは思ってない
両親について少し話します。

・過保護過ぎて鬱陶しい母親
過保護とは距離感が近いと説明しましたが
パーソナルスペースい置き換えて表すと
自分は個体距離で居たいのに親の方からは
密着距離の感覚で来られて息苦しく感じて
余裕を持とうと自然と拒絶的になっちゃいます。

・無関心過ぎて疎遠感のある父親
過保護に反した無関心にあたるものは
自分は個体距離で居たいのに親の方からは
社会距離で居るような感覚で昔は寂しい感覚が
募る感じもしていましたが今になっては呆れていて
どうでもよくなっちゃってるように思います。

簡単に言うとこんな感じなのかなって思ってます。正直なところ、金銭的保護以外に親から受け取ったものは何も無いと思ってたり親ガチャって言葉がしっくりくる「選べない人間関係」って辛すぎるなぁと感じてます。

○親になる責任

親には親の価値観、トラウマ、過去があるのは分かるしそれはその人を築いているものでそれにはその正義はありますしどう思うかは勝手ですが結婚、出産の過程を踏む事は「1人の人を創るもの」だと僕は思います。その過程において親が親自身に満足出来ていない不完全な状態でありながら世間体だの家庭を持つのが夢だのという戯れ言で1人の人の保護者になる事。それは1つの行為として安直すぎるようにも感じますし残念に思います。確かに完全とは何だと問われれば難しいものですが経済的、精神的になる余裕がないにも関わらず親になる事はあってはならないとも思います。

「離婚」は子供の愛着観念に対して多くの影響を与えるものですし親同士の人間関係について、子供は一切関係がないものですしそれによって子供が負債を負うのも親として無責任だなぁと感じます。「夫婦が不仲」である場合も子供は何らかの行動、問題、行為を起こして気を引く事で親同士の関係の修復を計ろうとする事も多くあります。それで親が気付ければいいのですがそれで子供を叱る事があれば子供の「居場所」は何処にあるか自己否定してしまうかもしれません。

また親となる人は子供を保護する責任のある身ですがその事を逆手にとり「育ててやってるのだから」「お金は払ってやってるのだから」自分等で産んでおきながら上から目線で支配的な環境を作り出して虐待やDV、育児放棄といった行動に出る親も増えている一方ですが、それによって子供が「何で生きてるんだろう」「自分が存在する意味がない」などの自己否定や自暴自棄、最悪の場合 自殺に至る事が現代に起きてる事、それが今 直面している社会問題の事実です。

少子高齢化や人口減少を問題視している人が
多く感じますがそれ以前に考えるべき問題

無視されている危機感が凄い恐いものだなと感じます。

○産まれた時の真っ白で空っぽな箱

タイトルにある「真っ白」がまさに空っぽです。人は遺伝子と生きた環境に左右されると言われます。遺伝子は親由来であるのでどうしようもありません。ですが産まれた瞬間から受ける言葉、感情、価値観など全てが人を形成している事実だけは親になる人 全員が理解して欲しい事だなぁと思います。その前提として子供を置く環境や子供に経験させられる事、それらを確立させる為の精神的・経済的余裕は親の出来る事です。

最近になって社会的に価値観が変化し始めていることが増えているのかなぁと感じますが子育てと時代の変化が平行線で進んでいく過程で加速する変化に追いつく為に親であっても時代のせいにせずに価値観を受け入れて変化に順応的である事は大切であると思います。

「子供は純粋」という言葉がありますがその言葉の真意は物事をあまり知らない為に、物の捉え方が単純であるが為に躊躇いがないだけで純粋という言葉が認識の歪みになっているようでそのような認識で世の中が成り立つという事に危機感みたいなものを僕は感じています。

物事を判断する上での価値観や考え方、捉え方
日々 変えていかなくてはならないものであると
僕自身 社会を見る上で意識しています。

○コロナ禍の望まない妊娠と性リテラシー

「愛着障害とは日本に流行する最大の病」

それから思う事が子供を産む動機と望まない妊娠です。
性リテラシーすら崩壊している中でのコロナ禍で増えた望まない妊娠の根本には何があるのかなぁと考えますが「愛着障害」であるのかなと日本を見ていて思っています。愛着障害とは親が子供に対する愛着スタイルにおけるものとして言われているものです。しかし日本の現代社会において自尊心や自己肯定感が低いと近年 話題になっている中で「愛」とは何だろうと考える機会が増えましたが、「会社や学校におけるいじめや上下関係」や「会社や学校で起こるセクハラや性犯罪」、「人間関係の劣化や欠落」など挙げればキリがありませんが人が人を大切にする事。ただそれだけの事が社会全体で欠落している事が原因なのではないでしょうか。ネット社会において「承認欲求」という言葉をよく耳にしますがその事と自己肯定感や愛着障害に強い関連性があるのではないかと考えています。

モデルの益若つばささん「避妊リング」を公表した当時の批判の数と拒絶反応の重さは日本の性リテラシーがどれだけ欠落しているかを物語っているなぁと感じました。産婦人科医は普段「子宮内リング」や「ミレーナ」と呼んでいるもので認知を広げる為に避妊リングという言葉を使っているとのことですが、知る事から始まる事って多いんだなぁと思うと同時に「同調圧力」によってタブー視される事現状維持バイアスからなる少数派「マイノリティ」に拒絶・排他的になる事が未だに多くて「多様性」には程遠いものだと感じます。

いつもいろんな価値観を教えてくれる
「アベプラ」から3本の動画を載せておきます。


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