2020/06/07

あらすじ:徒然に感情を吐く

こういった方式で気持ちを吐き出してからどれほど経ったか?まだ数週間だとも思うし、もっと短かったかもしれないし長かったかもしれない。そもそも僕は昨日の自分が何をやっていたのかの概要くらいしか覚えていない。だのに...?だのに、なんだ?この後に続く言葉がなかった。しかし何故か逆説の言葉を繋ごうとしたのは、何かを見出したかったんだろう。でもあったのは日常の非連続性という事実だけだ。

現在は誰もが「いつも通りの日常を」やら「なんでも良いからやりたい」という素朴な願望を持っている。僕はこれがよく分かっていない。僕はこんな状況の前後で失ったものは何もなかった。あっても気付くほどに存在が大きくなかった。

日常, やる事があった日常, やる事、そのどれも望んで手に入れたわけでない。そもそも生まれてこの方望んで手に入れたものはなかったようにここのところは感じでいる。望みがなかった。感情はなであれ細かく吐き出して制御してきたから、切望なんてなかった。あるいは、一から望もうとしていなかった。それ故に不幸と思っていたことはなかったが、その事実自体に打ちのめされている現在、感情は蓄積され、幸福が遠ざかるばかりだ。

僕が今後60年かそれ以上生きていることを信じられない。今生きていることも信じたくはない。終わっているべきだった生が、何故かまだ続いている。

涙が出てきた。自己啓発本という娯楽に一瞬感情を移していたが、もうなんでそんなことを楽しめていたかも分からない。

昨日は友人と服を見に行って、若く美しい女性を見ては死にたくなった。僕には醜い心体しかない。彼女たちは少なくとも着飾った姿は美しく、そういった肉体美は結果として精神を健全か外部に攻撃的なものにして、自身を責め立て得ない。彼女たちのようになりたかった。あるいは、何にもなりたくなかった。

仕事をやめたいわけではない。それと同じくらいやりたいわけでもない。生も同じで、死にも等しくそう思う。何かをやればそれをやれる。そうしてなんだかやりたいのかもしれないと思える。だが、こうして自感情を俯瞰すると全部虚構だ。他の人にとってはそうではないらしい事が、本当に羨ましい。