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連載小説 魔女の囁き:10
三日後、岩瀬がGM室に報告にきた。報告内容は古山の家庭環境や父親のことだった。かなり綿密に調べたようだ。A4サイズの用紙十数枚にまとめられていた。朝一番にそれを渡され、私は午前中いっぱい時間を使って内容を精査した。精査が終わると岩瀬をGM室に呼んだ。事務所内で書類仕事をしていた岩瀬はすぐにGM室にやってきた。
「よくここまで調べたな」
私はいった。今回の岩瀬の報告は多岐に及んでいた。三日間で調べあげたとは思えないほど内容は詳細だった。私が気になったのは、古山の母親も古山を産んでまもなく亡くなっていることと、あとはやはり社会人野球でキャッチャーをやっていた父親のことだ。古山に兄弟はいない。母親が亡くなったあと、十年以上父子ふたりで生活していた。父親を亡くした十三歳の古山は、父親の兄の家に引き取られている。
「古山のいった通り、父親は当時強豪だった社会人チームの主力選手でした。アマ球界ではナンバーワンキャッチャーといわれていたようです。報告書では病名を伏せていますが、父親は十代である病に罹患しています。体と相談しながらの野球生活だったようで、実力は一級品でしたがプロのスカウトの目には留まりませんでした」
私は今回の報告を受けて思いだした。野球選手としてはそうとうな実力がありながら、持病でプロを断念せざるを得なかったキャッチャー。古山という名前までは憶えていなかったが、たしかにその時期そういう選手がいた。私は当時いまとはべつの球団でスカウト部長をしていた。今回岩瀬の報告書を読んで記憶がよみがえった。あの選手が古山の父親だったのだ。
「で、今後古山をどうするつもりだ?」
私はいった。
「なんとしてでも、ピッチャーへのコンバートを承諾させます」
岩瀬は即答した。
「方法は?」
岩瀬は一瞬言葉に詰まった。
「どうしたら古山の首を縦にふらせられるのか、いま正直悩んでいます」
成否の結果はわからないが、もっと強引な大人の手法でコンバートの説得を試みる方法はあった。有無をいわせずコンバートを強要する手段もだ。だが、今回私はそれをする気はなかった。古山が一本筋の通った好青年で、コンバートの拒否の理由を私が納得したからだ。このままキャッチャーとしては実力不足のまま、早期にプロの世界を去るのもまた古山の野球人生なのだ。
「とりあえずあしたからしばらく古山と会話を持とうと思います。古山の、父親とキャッチャーに対する想いが強く揺るぎないのはわかりますが、同時に野球そのものに対する想いも強いはずです。プロ野球選手として成功したい気持ちはどこかに必ずあるはずです。そのへんから話してみようかと思っています」
この三日間、岩瀬は古山のことを調べながら、古山を見るために毎日二軍の球場に足を運んでいた。あえて声はかけていないようだ。ただ遠くからようすをうかがっていた。現在古山は、毎日ただひたすらブルペンでピッチャーの球を受けている。試合にでられないからといって、腐ったりはしていないようだ。
「わかった。古山の説得は任せる」
岩瀬はうなずいた。いつも強気な岩瀬にしては、めずらしく自信なさげな顔だった。
翌週、説得の失敗を告げに岩瀬がGM室にやってきた。
連日古山と対話を持ち、説得を試みたようだ。
今回岩瀬は古山に自分の経験を話し聞かせていた。岩瀬は自身ももともと女子野球のプレイヤーだった。小学生から二十代の前半まで。各年代で全日本に選ばれるほど優秀な選手で、高卒で女子プロ野球選手になった。岩瀬の悲劇は、プロ入りして数年で、所属していた女子プロ野球リーグが経済的な理由で破綻し、リーグそのものが消滅してしまったことだ。同時に岩瀬の所属チームもなくなった。現役をつづけたくてもつづけられない無念。じっさい当時岩瀬はそうとう悔しかったはずだ。だから古山には、若くしてプロ野球の世界から離れるようなことにはなってもらいたくない。いま古山は一軍での試合経験はないが、キャッチャーからピッチャーにポジションを変えることで、このさきまだまだ現役をつづけられる可能性が高くなる。一軍で活躍できる。そういった話を岩瀬はしたようだ。
「古山にいわれました」
「なんと」
「たしかに岩瀬さんの経験は不運で気の毒だけど、本気で現役をつづける気があるならいくらでも方法はあったはずだ、だから僕にその話をするのは矛盾している、と」
古山の言葉に一理あった。当時もいまも、女子野球選手が大人になってからプレイする環境は正直恵まれていない。だが、主要なプロリーグが消滅したからといって、必ずしも現役をつづけられないわけではない。レベルの落ちるカテゴリーや海外のプロリーグに挑戦するなど、現役をつづける方法がいくつかあったのは事実だった。
岩瀬の場合は、所属するプロリーグとチームがなくなった時点で、自分からすっぱり現役をあきらめ、NPBの裏方の世界に入ってきたのだ。
「で、どうする」
「わたしは古山の剛腕をあきらめきれません」
今回の報告を受けて、私はもうほとんど古山をあきらめていた。一軍で活躍して高い年俸で契約する。一年でも長く現役をつづける。試合にでて他人よりもいい成績を残す。プロ野球選手になった以上、ふつうはだれもがそう考える。古山はまったくちがうのだ。そうとうな覚悟と信念を持ってコンバートを拒否している。実力が足りていないにも関わらず、キャッチャーというポジションにすべてを捧げている。プロ野球生活の期間が短くても、一軍で活躍できなくても、ただただ父親との約束を果たすために日々努力を重ねているのだ。
おそらく古山は、仮に私が、ピッチャーをやらないならきょう限りでクビだといい渡したとしても、お世話になりましたと深々と頭を下げ、笑顔で球会を去っていくだろう。
「もういいんじゃないか、岩瀬。今回はあきらめるんだ」
岩瀬は首をふった。
「いえ、土尾さん。あきらめるのはまだ早いです。じつは、いまわたしのなかにひとつ説得のアイディアがあります。古山との会話のなかの言葉から思いつき、考えに考えた最後の手段です。かなり有効な手段ではないかとわたしは思っています」
「詳細は」
「いまはまだいえません。ただそのときは土尾さんにも同席してもらいたいんです」
「いまさら私が話しても同じだろう」
「いえ、土尾さんは話さなくて大丈夫です。あしたもう一度二軍の球場につき合ってください。もしその説得でうまくいかなかったら、わたしも古山のピッチャーはきっぱりあきらめます」
岩瀬の強い目の光にちょっと嫌な予感はした。それでも私は岩瀬の言葉にうなずいた。本来であれば却下したい提案ではあった。じっさいきょうのこの報告で古山の事案は終わりだと判断するのが妥当に思えた。しかも現状、早急に岩瀬に対応してもらいたい他の球団業務がいくつも手つかずで残っている。コンバートの諾否にかかわらず、いつまでも岩瀬を古山の事案だけにかかわらせておくわけにはいかなかった。
「わかった。では古山のコンバートの事案はあしたで最後にしよう」
いいながら、私は岩瀬が口にした、かなり有効な最後の手段という言葉に引っかかっていた。やはりどこか嫌な予感はする。だが、本件の区切りをつける意味でも、あした私も同行しなければ岩瀬のおさまりがつかないのもまた事実だった。
「土尾さんはきょうゆっくり睡眠をとって、あしたは万全の体調にしてきてください」
岩瀬はそれからさらに二、三話し、ではくれぐれもよろしくお願いします、と念を押してGM室を辞去していった。
あした岩瀬がどういった説得の手段をとるのか、私はあまり深く考えないことにした。
翌日午前の早い時間に二軍の球場に着いた。