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連載小説 魔女の囁き:9


 翌日私は岩瀬に同行して二軍の球場を訪れた。
 二軍の球場は、球団事務所から車で三時間ほどの場所にある。午前中に岩瀬と事務所で落ち合い、岩瀬を助手席に乗せて私の運転する車で球場にむかった。車中、ふたりで古山のことを話した。岩瀬は、古山の豪腕にそうとう惚れこんでいるようだった。私も、上手くいけばかなり面白い存在のピッチャーになるとは考えていた。実力が不足していて、キャッチャーとしてなら今季限りで解雇だろう。コンバートが上手くいくかどうかは、いまのところまったくわからなかった。
 球場に着き、グラウンドに足を踏み入れた。きょうわれわれがくることは事前に知らせている。一塁側のダグアウト前に二軍の監督とヘッドコーチと選手がひとり立っていた。私は岩瀬と顔を見合わせた。選手は顔が見えず、だれなのかはわからない。選手はキャッチャーミットを手にはめ、レガースとプロテクターとマスクのキャッチャーのフル装備を着けていた。マスクを顎まで降ろしていてまったく顔が見えない。私は嫌な予感しかしなかった。
 私と岩瀬が近づいていくと、こちらに気づいた監督とヘッドコーチとキャッチャーフル装備選手があいさつをしてきた。私は軽くあいさつを返して右手をあげた。岩瀬は毒気を抜かれたように黙ったままだ。三人のそばまでくると私は監督のほうを見た。監督がなにかいう前に、キャッチャーフル装備選手がマスクを頭の上にあげた。そこではじめて顔が見えた。古山だった。
「岩瀬さん、土尾GM、このたびはぼくのような選手をこのような素晴らしい球団に招き入れていただいてありがとうございます」
 古山が深々と頭を下げた。
「ぼくはこのチームが日本一になるために精一杯キャッチャーとして貢献し、いずれは日本一のキャッチャーになることを目標に日々一生懸命努力していきます」
 はきはきとした口調で屈託がなかった。悪びれているようすはない。私はふたたび監督を見た。
「すみません、GM。ピッチャーへのコンバートの話はしたのですが、本人、この通りまったく聞く耳を持っていなくて」
 監督はいった。 
「もうそんな冗談はいいんです、監督。ぼくは日本一のキャッチャーになるために野球をしていて、日本一のキャッチャーになるためにプロ野球選手になったのですから」
 私は岩瀬と顔を見合わせた。
「いえ、冗談ではないのよ、古山君。監督のいったとおり、きみはピッチャーへコンバートするの。そのためにうちのチームにきてもらったのよ」
 岩瀬はいった。
「岩瀬さんのようなとんでもなく優秀で偉い方まで、そんな冗談言わないでくださいよ。ぼくにピッチャーなんかできるわけないし、ぼくはキャッチャー以外やったことがありません。なによりぼくには絶対にキャッチャーをやめられない理由がありますから」
 私は最後の、やめられない理由がある、という言葉に引っかかった。脳裏に春野が口にした懸念がよぎった。
「ちょっと監督室を貸してくれないか。私と岩瀬と古山君の三人で話をする」
 私は監督にいった。監督はほっとした表情を見せた。ヘッドコーチも同様だった。ふたりとも、岩瀬からの指示と話の通じない古山とのあいだで板ばさみになっていたようだ。
 監督とヘッドコーチを残し、三人でダグアウト裏の監督室に入った。六畳ほどの一室になる。簡素な内装で、一軍の監督室ほど瀟洒でも立派でもない。古山にソファをすすめ、テーブルをはさんで私はその向かいに座った。岩瀬は私の隣だ。
「まず、くわしい説明をなにもせずにいきなりコンバートの話を進めてしまって申しわけなかった、古山君」
 私はいった。
「ただ、ピッチャーへのコンバートの話は冗談でもなんでもなく事実で、それは正式に球団としての方針なんだ」
 古山は即座に首をふった。
「土尾GM、それは無理です、申しわけありませんがぼくはピッチャーはできません」
「どうしてかな」
「ぼくはキャッチャーをやめるわけにはいかないんです」
「その理由を聞かせてほしい」
「父との約束です」
「お父さんと?」
「はい、父はぼくが子供のころ亡くなっています。父は社会人野球でキャッチャーをやっていました。若いころから持病があってプロにはなれなかったのですが、ぼくにとっては日本一のキャッチャーでした。その父と生前約束したんです。ぼくは絶対プロの世界で日本一のキャッチャーになると」
 私は先日春野が口にした、古山のコンバートへの懸念をいまはっきりと理解した。春野はおそらくこのことを知っていたのだろう。
「ねえ、古山君」
 岩瀬が口を開いた。
「これはあくまで仮定の話として聞いてもらいたいんだけど。古山君は、プロ入り後キャッチャーとしてまだ一度も一軍の試合にはでたことがないわよね。もしうちでもキャッチャーしてはチームの戦力に入らず、来季以降選手として契約ができなくなったとしてもそれでいいの?」
 キャッチャーとしてなら今後現役をつづけるのは難しい。岩瀬は暗にそういっている。
「はい、それは全然かまいません。ぼくの目標は日本一のキャッチャーになることです。そしてキャッチャーとして所属チームの勝利に貢献することです。なのでキャッチャー以外で野球をつづけるつもりはありません。父とは日本一のキャッチャーになると約束しましたので」
 古山はまっすぐな目をこちらにむけていった。けれん味など微塵もない。私はきょうはじめて古山と顔を合わせたが、対話をしていて率直に感じたのは、古山はプロ野球界でもまれに見るほどの好青年だ、ということだ。その上で自身の考えを貫き通す意志の強さを持っている。これはコンバートを説得するのはそうとう難しい相手だな、と私は思った。覚悟と信念。そして父親を想う強い気持ち。人として、プロ野球選手として、それはけっして悪いことではない。むしろ私はそういう断固たる決意を持った人間が好きだった。いちアスリートとして考えても満点のマインドではないだろうか。ただ古山には、キャッチャーとしての実力だけが圧倒的に不足している。
「よし、わかった。いったんこの話は保留にしよう、古山君。監督の指示に従って練習にもどってくれ」
 私はいった。それから岩瀬を見て、一度うなずいた。岩瀬はなにもいわなかった。
 監督室をでると、私はダグアウトで待っていた監督に二、三指示をだした。古山には当面のあいだブルペンキャッチャーでもやらせておくしかなかった。キャッチャーとしてなら、うちでも二軍の戦力にすらならないのだ。
 監督に、このまま球団事務所に帰るといい残し、私は岩瀬とグラウンドをでた。
「すみませんでした、土尾さん。わたしのミスです、調査不足でした」
 駐車場を歩いていると、岩瀬はいった。
「あんな事情がある以上はしょうがないな。あそこまで覚悟を決めているんだ。なるようにしかならないだろう」
 ただやはり、あれだけの剛腕を持つ選手をピッチャーとして世にだす前に諦めてしまうのも惜しい気はする。 
 帰りも私の運転で岩瀬を助手席に乗せた。くるときとはちがって岩瀬はほとんど口を開かなかった。私も同じだった。ハンドルを握りながら私は古山の今後の処遇につい考えていた。いくら古山に好感を持ったからといって、キャッチャーとしてならチームにはいらない存在なのだ。岩瀬がいまなにを考えているのかはわからない。
「なんとかして古山を説得します」
 帰りの車中、岩瀬はそれだけをいった。


 三日後、岩瀬がGM室に報告にきた。報告内容は古山の家庭環境や父親のことだった。かなり綿密に調べたようだ。


 続 魔女の囁き:10 


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