GLAYと供にある
おまえと供にある
前編TAKUROボーカル楽曲。当時、ルームシェアをしていた友人がこれを聴き、「え、誰の声?ナルシストっぽい」と言っていたことを思い出す。ナルシストっぽい声ってなんだろうか、今でもよくわからない。
「お前」と相手を呼ぶけれど、そこにたっぷりと愛を感じる歌詞。
自分の不甲斐なさのようなものを直接的に表現するのではなく、言い回しとかを含め、「お前」を大切に思っていることが歌詞から溢れ出ている。
自分に向けてパートナーが歌を作ったなんて言われたら、個人的にはゾッとするけれど、世に出て誰かの心にすっと溶け込んでいくような楽曲の主人公ならば、こんなに嬉しくて光栄なことはないだろう。
でも、こういうことが重くて、辛くて、結果離れていく人がいて。でも、そのモデルとなった方の楽曲は、後生聴かれ続ける名曲として刻まれていく。人の世は複雑だ。
GLAYの楽曲は、ただただ誰かに向けた恋愛だけを歌うような楽曲はないと思っている。その恋愛の先には、人間愛のようなものがあり、不器用ながらも、挫折をしながらも、誰かに裏切られながらも、それでも歩いていくことを選んでいくようなものが多い。そりゃね、たまにはホレたハレただけの楽曲だってあるだろうけれど、そこには楽曲的な面白さだったり、試みだったりが実は詰まっていたりする。だからこそ、もうホレたもハレたも無縁状態になったとしても、楽曲が見せる側面が変わることで、いつ聴いても味わい深い。元気がなかったり、イライラが止まらなかったり、むせび泣くような出来事が続いたり。良いことに巡り合うための日々は、そう単純な感情だけで整理をつけることはできない。
そういう時に威力を発揮するGLAYの曲たち、いつも供にあるわけで。
それを生で聴きたくて、ライブに足を運ぶわけで。ライブに行くと、また次をすぐに求めたくなって。そういうサイクルが当たり前のように回りだすと、年間スケジュールの最初はライブの予定を入れて、もう何ヶ月も前からソワソワするわけで。これはもう、GLAYと供に生きているということでしかないわけで。この楽曲の「おまえ」は完全に自分のことのように錯覚して、「私もGLAYと供にあるよ」と呟いてみる。
供にある存在の大きさよ、本当に感謝ばかりだ。
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