沈まぬように漂っていられる理由がそこにある
漂えど沈まず
よくよくタイトルのことを考えると、大層意味の深さを認識する。「漂えど沈まず」だって言うから驚きだ。だって、漂うと言う状態もそうそうないけれど、その上で沈まないというわけだから、状態としてはギリギリの状態のように思うが、「漂え「ど」沈まず」の「ど」の存在が、実はそこまでの状態でもなく、沈むことがないのだから心配はないという意味にも捉えられる。タイトルだけで、多くを想像させられる楽曲だ。TAKUROがインタビューの中とかで自然と使っていそうな表現だったりもするから、気持ちの面での親しみやすさがあるのは、GLAYファンならば理解いただける感覚ではないか。
アルバムの中盤くらいに位置する楽曲がどのような楽曲なのかと言うことは、その後のアルバムの展開にも影響をしていくのだが、個人的に、GLAYのアルバムは、中盤楽曲は、大きな爆発があるものよりも、じっくり、もしくはしっとりと我々側に問うようなものが多いように感じられる。この楽曲はまさに、じっくりとじわじわと楽曲の持つ力が広がっていくようなイメージ。初めて聴いた時よりも2回目、2回目よりも3回目の方が、楽曲が持つ魅力に取りつかれていく。
「漂えど沈まず」については、TERUの歌力の強さの意味を回を増すごとに感じられていくように思える。自分のことを責めるようなことがあったとしても、十分に一人でそれを背負ったのだからも、もう自分を解放してあげてもよいのでないかというかという思いが、歌の中にこれでもかと溢れている。TERUの持つ優しさだけではなく、その上で、目の前にいる人の顔をグッと前に向かせられるだけの説得力というか、力強さを兼ね備えている。歌詞をただの言葉として捉えているのではなく、歌詞を解釈した上で、TERUであればどう伝えることがリスナーにとって、最も慰めになるのか、激励になるのか、救いになるのか。それが自然にできてしまうのであろう。
だからこそ、優しさではなく、さらっと巻き舌が出てきてしまうほどに、感情を爆発させるような力強い歌い方になるのだろう。力強くあるが、ただ尖ってはいない。その力強さは丸みがあるので、しっかりと必要な箇所を多くの面積で押してくれる。必要なツボを押さえて。
TAKURO楽曲はいつもそうだが、たとえ1番の中で、まだ絶望の淵にいるような状態だったとしても、2番になるとメロディが高めに変わっていくことにより、目線をより高いところにおける状態が作られる。TERUの声がカーンと心地よく目的地に到達するような歌い方をしてくれていることで、そこに心が動き、目線を上げさせてくれる。TERUの声や歌い方は、癖がなくモノマネの人も真似するのが難しいと思うが、そこに唯一無二のオーラを放ち、何か良い成分を発してくれているように思えてならない。
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