ハミングから始まる楽曲は幸せの象徴か

U・TA・KA・TA

今は、手のひらの乾燥がひどすぎて指の関節が赤ぎれを起こす冬だけれど、夏の夕方の生ぬるい風が全身のまとわりついてきて、やかましいくらいの蝉の鳴き声が聞こえてきそうな楽曲だ。カラッと暑いのであれば、まだ、その暑さに割り切れるが、蒸し暑くて、動かなくてもジトっとしてきて、湿気のせいでせっかくお金をかけた縮毛矯正の役回りが終わって、髪全体がうねっっていることへの煩わしさにイライラしている時間帯。夕方になってもちっとも涼しくならないあの感覚が、すぐに肌に押し寄せてくる。
全体的にトーンが低いし、大きな盛り上がりも目立たないけれど、この肌に感じる不快な生暖かさは、楽曲の中に散りばめられているさまざまな音が引き寄せている。キーボードの音だと思うけれど、変声器で声を変えたような音色が、なぜか夏の夕方を思い出させる。まだ明るいのに、時間だからと家に帰っていく子供たちの背中が映像の中で存在感を放つ。

これまたTERUがさほど難しそうに歌わないから、歌うのが簡単なのではないだろうかという先入観を抱きそうであるが、そもそも最初の数小節がとにかく低い。高音以上に自身の閾値を超えた声を出すのは、低音の方が難しい。声を張れば良いというものでもないし、とにかく落ち着いたトーンでずっと進んでいく感じが、一緒の船にでも乗っているようで心地が良い。
裏声とも地声とも異なる、TERUが持つα波のような歌い方で、低音を見事に歌い切る。低音はTERUの色気が期待できる絶好のチャンスではあるものの、強いトーンで歌うのではなく、「泡沫」を表現するような歌い方でないと説得力は出ない。TERUの声を聴けば、人の世がどれほどまでに儚いものであるのかを自分の中でイメージできる。
TERUの声の何がすごいかって、声を張るでもない、誰かを諭すような説教くささもない。ただただ、目の前にある事実を声に乗せて伝えようとする。肩肘を張ったようなそぶりもなければ、むやみに高音をアピールしようとすることもない。だからこそ、夏の夕方の情景に没頭できる。そして、そのTERUの声の沼にドンドンと沈んでいく。

最後の最後にまたサビに戻る手前のギターとベースがそれぞれ、これまでの流れよりもちょっとだけ自身の楽器の存在感を感じてもらおうとている音が好き。そう、GLAYは歌を聴かせるところで楽器隊は自己視主張はしないからこそ、歌が入っていないところで、それぞれの楽器が少しだけ目立ちそうなフレーズを入れてくる。その音のバランスが心地よい。

人の世など泡沫だけれど、きっとそうではない未来をちょっと浮かべてみることが、楽曲をより深く楽しめるコツであろう。

#GLAY #UTAKATA #前回のツアーでは聴けなかった #人の世など泡沫

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