ぼんやりとした夏の記憶
いつかの夏に耳をすませば
この記事を書くために、改めて聴いてみると、年長の頃の鼓笛隊の小太鼓を思わせるドラムの音を見つけた。
いや、古めのタライを優しめになぞるような音だろうか。
歌詞から、涼やかな状況をイメージしそうだが、非常に暑くて、汗を拭っても拭っても流れてくるような、灼熱の夏の中に、自分がいるような気がする。場所はいつも特定されず、ただただ暑さだけが妙にリアルなのだ。
小太鼓だか、タライをなぞる音だか定かでないような存在感を自ら示さないような音が、この楽曲の中においては、何かの意味があるのだろう。
それは相変わらず、言語化が難しい。(いつかはきっと、的確な言葉にはめていきたいものだ。)
夏の思い出というか、記憶は特に小学生・中学生くらいの頃のものは本当に曖昧で、思い出そうとしても、なんだかぼんやりとしていて、いつも霞みがかったような映像ばかりだ。
自分にとっての夏の思い出や記憶は、懐かしいというポジティブな要素が強いわけではなく、ただ、ぼんやりながら、でも確かにそこに自分はいたのだろうという存在感の確認としての役割しか果たしていないようにも感じるほど。
そんな記憶に、すっと寄り添って、自分の一部をなにか代弁してくれるように感じるのが、この曲。
幼少期の記憶の中に多少なりともあるであろう、人には触れて欲しくないような思い出。それを全て吐き出してしまったとしても、横にいるから大丈夫!と優しく、そして力強くエールをいただいた気持ちになれるのが、この楽曲の説得力。
今はもうなくなってしまった祖父母が暮らしていた家の縁側に座って、そこからの目線の景色はぼんやりしたままだけれど、それも一つの記憶であることを気づかせてもらったように思う。