「都忘れ」の味わいが理解できた日に
都忘れ
自身が大人になったなと思う基準の一つに「カーテンコール」よりも「都忘れ」が響くようになったことというものがある。カーテンコールより都忘れが良いというのではなく、若い頃に聴いても今聴いても良いと思えるのが「カーテンコール」で、より年齢を重ねてからの方が共感度が高いのが「都忘れ」であるということだ。
話は逸れるが、私の母が最も好きな花は都忘れだそうな。
この楽曲が、若い頃に比べると年齢を重ねてからの方が沁みるのは、楽曲の持つ雰囲気とその歌詞からだろうか。ファンの間でも好きだという人が多いのも由来しているだろう。元気が有り余っている頃には、この楽曲が描く世界観というか、詞の意味をそこまで深く理解せずともすっと聴けるが、不思議なことにある一定の時期から、歌詞の一つ一つに「ん?」となり、どういうことだと考える。そのうちに噛み締めるようになり、身体の一部となり、共鳴するというフローだろうか。その歌詞を噛み締めるには、メロディーやこの楽曲の持つ空気感が心地よい。歌詞をちゃんと味わう上では、すっと入ってきやすい雰囲気を持つ。
なぜそうなるのかというと、まずギターのリードがわりとTAKUROであるということ。こういう時は、ギターをかき鳴らすというよりも、一つ一つの音をしっかりはじく感じがする。そして、ロック楽曲のように目立つけれど、主張が強い感じでもないため、楽曲の醸す雰囲気を際立たせる役割としても効果的だ。
それに加えてベース。こちらも目立たない。なんなら落ち着いてさえいるこのベース音、繋ぎの時のメロディが、心にある襞すべてに触れてくるように丁寧で優しくて、でも洗練された感じがあって、気の利いた「引っかかり」を作る。そう、さらっと流せるくらいに自然なのに、ついつい「えっ?」と振り返ってしまうようなひっかかり。振り向かずにはいられない。ライブであれば、そのメロディを弾く指先はそのタイミングでは絶対に見逃したくないところ。それくらい、目立ちはしないがなければこの楽曲の魅力もすべてを伝えられる完成系には絶対に辿り着けない。
自分たちがこの後、どのような状況に陥るのかを予言きているような楽曲でもある。そして、それを冷静な目で見ている自分たちのことまで描かれているようにも感じる。世間からどんな評価を受けたとしても、それが虚像である時は、より慎重に。そして、自分たちがやるべきことを継続すれば大丈夫と後の世代に投げかけてくれていると感じる。
たとえば予期せぬところで売れたとしても、それもまた誰かが書いた筋書き通りだということ。誰かの思惑の中でしか評価されないという皮肉のようにも聴こえるが、こういう事の一つ一つが、GLAYの礎となっているということだ。
この歌詞を歌い、マイクスタンドの斜め上に手をかざすTERUの指は、いつまでも見ていられる。慰め、憩い:都忘の花言葉。