神仏混淆の形式をそのまま残す【高塚愛宕地蔵尊】大分県日田市 5 nigi88hi 2021年1月2日 17:11 高塚愛宕地蔵尊(たかつかあたごじぞうそん)は、大分県日田市天瀬町馬原(まばる)にある地蔵尊です。神仏混淆(しんぶつこんこう)の形式をそのまま残している珍しい地蔵尊として知られています。地元では「高塚さん」の愛称で呼ばれています。天平十二年(740)行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原にいたり、みどり深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と予言されたのでした。行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら 広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。行基は天平二十一年(749)二月二日、八十二才で亡くなりました。その後天暦六年(952)二月、行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。病気平癒、学業成就、商売繁盛などの諸願成就にご利益があるとされています。大分県日田市天瀬町馬原3740 いいなと思ったら応援しよう! チップで応援する #動画 #パワースポット #御朱印 #九州 #御朱印帳 #行基 #大分県日田市 #高塚愛宕地蔵尊 #神仏混淆 5