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「しあわせでありすぎると人に迷惑をかける」という自分のOSが最も発揮されてきた “誕生日” を克服する話
こんばんは。
今朝、島根の実家にいるおばあちゃんから分厚い封筒が届きました。中には金一封とお手紙。
ありがとうございます。
明日24歳を迎える孫の誕生日に向けて、きのうくらいからいち早く動き出して手紙を送ってくれたのかな。とってもしあわせな気持ちになりました。厳密に言うと、わたしの “生” が人に歓迎されているのだという喜び、おばあちゃんの健気さに対する愛おしさ、そしてそんな素晴らしい人にわたしは囲まれているのだというしあわせが、一気に感じられたのです。
(おばあちゃん。最初感動的だったのに、途中から愚痴になってるやん。かわいい。)
「五月十日」と、大切な人が直筆で書いてくれたのを見るだけで、なんだか自分の存在が承認されているように感じられて、涙が出そうになるのです。まさに、しあわせを感じました(何回も言う)。
(大好きな家族。あ、おばあちゃんいない)
「隠したい事実」だった誕生日
話は変わりますが、タイトルにもあるように、わたしにとって自分の誕生日は長年、「隠したい事実」でした。誕生日を知られるのを避けるため、気づかないうちにSNS上で登録されていた誕生日のデータを削除したのは、去年の誕生日の1か月前でした。
子どもの頃は、何も考えずにプレゼントをもらったり会を開いてもらって喜んでいたし、仲の良い友達やプレゼントをくれたり祝ってくれた友達にはお返しをしていました。それが煩わしく感じられ始めたのは、当時は金欠でプレゼントを返すのが大変だったため、なにかをしてもらうのが億劫という理由でしたが、気づけばいつからか、そこには “自分のしあわせを人に示すことへの罪悪感” も含まれていました。
自分で自分のしあわせに上限を設定してしまった
さて、話が行き来するようなのですが、
わたしのOS(※):他人に見せる「しあわせ」に上限と下限を定める
※オペレーション・システム。過去の経験から形成された思い込み。
に気がついたのは、つい先日のことでした。
まず下限については、【ふしあわせを過度に感じると精神的に弱って人に依存してしまう→相手にネガティブなものを押し付けてしまう→相手の生きる気力や生きるために必要な感情を奪ってしまう】という流れ。
おそらく、中学三年生の頃にいじめられたとき、学校で溜まったフラストレーションの発散が、母やおばあちゃんに当たることでしかできなくて、【申し訳ない】でもアンコントロールな自分をどうすることもできなかった経験から来ているのだと思います。このあたりについては、また別の機会に自分で掘ってみたいなと思っているところ。
では、他人に見せるしあわせの上限を定めているということについて。
・定めている理由の考察
・定めることによって、実際に得られるしあわせの量が減る気がすること
この二点について考えてみます。
まず、一点目。理由として浮かぶのは、ひとつには他人に自分のしあわせを否定されたら悲しいから。自分がしあわせだと思ったことが、「え、それ当たり前じゃね?」「それがくるみにとってのMAXのしあわせなの?しょぼくね?」とか思われるのが辛いんだと思います。次に、妬まれるのがこわいから。これも、思い出してみたら中三のとき、いじめられた原因が(勘違いによる)妬みでした。後付けだけど、その頃「しあわせが伝わりすぎても相手に嫌な感じを与えてしまうんだな」と痛いほど学んだのを最近思い出しました。
二点目は書いたとおりで、周囲の人に「見せる」しあわせ(つまり感情表現)をセーブすることは、実質に感じるしあわせもセーブしているのではないか?と感じたのです。他人にだけでなく、自分で自分自身に「しあわせになりすぎたらダメよっ!」って言ってる感じ。
わたしのOS: 自分は、ふしあわせすぎても人にネガティブを感染させて迷惑をかけ、しあわせすぎても人から妬まれ嫌われる。ちょうどいいバランスでしあわせであることが望まれる。
勝手にしあわせになる図太さを手に入れる
長年「隠したい事実」であった自分の誕生日が、「しあわせすぎたら人に嫌われる」と思っている自分のOS(オペレーティング・システム )を顕著に表しているひとつであると気づいたのは今朝のことでした。
さあ、その上で自分はどうしたいのか。
ここに、自分の成長を見いだしたいところです。
わたしの成長とは 自分のしあわせを自分自身で認めてあげられること。 自分のしあわせを自分自身で掴んでいけること。
他人の枠におさまるようなしあわせじゃなくて、自分で決める!
わたしのしあわせは、
【大好きな周りの人がしあわせで楽しそうに在ること・今日もかわいいなぁと思うこと】
【自分自身が自分の感情に向き合って、受け止めきれること】
抽象的だけど、やっぱりこれなんだなぁ。
これからは自分に
「もっともっと、
まだまだしあわせになっていいよ!」
って言ってあげるのです。
そして、これから自分のしあわせは自分で掴んでいく意志を込めて、明日一日は自分自身で、大好きな人を巻き込んで楽しいことをしようと思います。
とりあえず、大好きなシェアハウスのみんなと何かについて熱く語り合う時間を取ろうと思っています。
てか、この機会に言いたいのです。
わたし、今本当にしあわせです!めちゃくちゃしあわせでもうこんな瞬間ないだろうなって切なくなった今までの瞬間も惜しくないくらい、いやあれはあれでなくせない大切なピースで、全部含めて今がまるごとしあわせだと心から感じています!
っていうのを、24歳の成長の証にここに残しておきます。ながーい文を読んでくださった方ありがとうございました。