『轍』Lev.4 東埼玉道路開通後の未来Vol.4
首都高の埼玉進出 since1987
1987年9月10日、東北道と首都高が接続した。列島最北の地の青森から九州の熊本までが高速道路でつながった歴史的瞬間だったが、同時に首都高が埼玉進出を果たした記念日でもある。
東北道と首都高の接続地点は「川口JCT」となり、5年後には外環道が交差する。都市間高速と都心部の直結路線建設に揺れた時代、モータリゼーション激化と相まって末端IC周辺の声は悲痛なものがある。
首都高6号線表記について
文中には「昭和五十五年ごろ川口ジャンクソン開設」という記載があるが、実際はその予定より7年近く遅れている。
川口JCTで接続する川口線は現在のナンバリングが「S1」、東北道接続まで都市計画決定された1970年の資料(首都高公団「年報昭和45年度」)では「1号線Ⅱ期」として区間が「葛飾区小菅〜川口市大字新井宿」とある。
江戸橋JCTから延びてきた6号向島線は堤通出入口から加平出入口までが「Ⅱ期」、その先常磐道との三郷JCTまでが「Ⅲ期」となる。
中央環状線との堀切・小菅JCT間が6号との重複区間と考えるのが正しいが、問題は千住新橋・四つ木出入口が同時期に開通していること。
千住新橋は6号線の出入口だった
現在標識には「C2」表記がなされており、渋滞情報でも同じ。しかし、開通当時は中央環状線はまだ計画段階。1982年に設置された千住新橋出入口がどの路線に属するものなのかの答えは浮かんでくるが、裏付ける資料もまた存在する。
末端地域の懸念
東北道開通当時の鳩ヶ谷市の苦悩と同じことが、県境の地である足立区でも指摘されていた。
常磐道の三郷・柏間が反対運動によって遅れている中、東北道は川口まで延びようとしていた。結果的に両者とも首都高と同時に開通を迎えることになるのだが、終点と終点に挟まれることになる県境「足立区」では整備に対して懸念が表明されていたのだ。
そして先述の意見書の締めくくりとして、要請の1つに加えられたのが東北道と常磐道への接続路線はそれぞれ同時に開通させることであった。
箱崎一極集中問題の特効薬か?
その結果、6号線Ⅱ期の末端だった千住新橋出入口から江北JCT、川口JCTに至るまでが一気に開通した。その頃、上野線との本木JCTの準備構造が設置されたと思われるが、計画上は一度消えて復活しようとした痕跡なのか。
開通2年前の1985年、東埼玉道路は都市計画決定が行われた。
上野線延伸線は既に用地買収が難しいと見られていたが、東北・常磐道と繋がった6号線の他、1971年に京葉道路と接続した7号小松川線、1980年に開通した深川線が集まる拠点「箱崎JCT」問題が深刻化していた。
箱崎一極集中を解消するべく、隣の江戸橋JCTが起点の上野線を延伸させて分散を図る計画は必要だったはずだが…。
三郷JCTと草加八潮JCT
銀座方面はこちらから
常磐道と外環、首都高が交叉する巨大JCTである「三郷JCT」。現在では別路線と見られている川口線と三郷線だが、都市計画当時の記録には「6号線の延伸線」という扱いで記載される。
6号線Ⅱ期区間となる加平出入口以北、常磐道接続までがⅢ期で「足立三郷線」となる。そんな経緯で、川口線と三郷線が堀切JCTで“一本になり”箱崎JCTまで向かう形が1985年以来ずっと続いてきた。
1985年は科学万博会場へのアクセス道路として三郷線と常磐道(三郷〜柏)が開通した年。開通日の埼玉新聞(1985年1月24日)では「万博がらみの事業」とまで表現された。
草加八潮JCTの準備構造を見た
三郷JCTの手前、三郷市と八潮市の境界にかかる「潮郷橋」を渡り、すぐの所に足立区の本木JCTと同じJCT設置を見据えた準備構造がある。
両者を比較すると、実現が見えているのは明らかにこちら。両脇の側道に囲まれる広い空き地には将来専用部が開通する。
更に、イカの耳に加えて橋脚まで聳え立つ。真っ黒に染まったコンクリート柱は決して新しい存在では無いことを示している。
都市計画決定から40年が経とうとする今、足元で進められている開発に自分の役割が回ってくるのを待ち続けているようにも見える。
つづく