『轍』Lev.3 「地下鉄7号(SR)延伸問題の深層」Vol.2 2つのさいたま(東部編)
蓮田と浦和に挟まれた地「岩槻」
浦和美園駅の横断幕
(さいたま市緑区 2024年2月17日撮影)
岩槻は不便だと思う
「人形の街」で有名な岩槻は、さいたま市の岩槻区として存在する。
都心までは直線距離にして大宮と同じ位の距離だが、交通の便は比較にならない程悪い。
東京へ直結する路線は無く、最短経路は岩槻駅と浦和美園駅を結ぶバス路線(国際興業・岩11-3)に乗り、埼玉高速鉄道に乗り継ぐ方法のみだ。
群馬県から岩槻、浦和と配送へ向かうことが多々ある著者。群馬県に隣接する加須市から国道122号を走ると、旧騎西町域を抜けて久喜、蓮田と来て、岩槻へ入る。
久喜には東武伊勢崎線(スカイツリーライン)の駅があり、東京メトロ半蔵門線の直通列車の終着駅になっている。渋谷駅から急行で約85分。更に蓮田駅は宇都宮線の駅で、上野東京ラインや湘南新宿ラインで東京駅まで45分程度。
その更に東京寄りの岩槻駅は直行列車は無く、大宮駅や春日部駅で乗り換える必要がある。
都県境の荒川まで20km程。
岩槻から川口まで東北道の側道となる国道122号は、岩槻ICのある国道16号と交わる地点で上下とも深刻な渋滞に悩まされる。
さいたま市岩槻区=旧・岩槻市
東武線やバス路線頼りの岩槻だが、過去を遡ると歴史と開発の挾間にあった街だった。
現在「さいたま市岩槻区」となっている場所は、曾ては岩槻市だった。2001年5月に与野、大宮、浦和の3市が合併してさいたま市が発足し、その4年後の2005年4月に岩槻市が合併した。
浦和美園の開発
合併協議で設置された「さいたま市・岩槻市合併協議会」の資料には次のようにある。
文中に登場する“都心”と言うのは、浦和や大宮と言った拠点の中心部(中仙道沿い)の事で、“副都心”とは郊外地区の事を指している。
現在の埼玉高速鉄道の終着駅である浦和美園駅は、旧浦和市の東部に位置する。駅名にある「美園」とは旧美園村の事で、1962年5月に浦和市に合併した。
協議会資料に「農地や集落が広がり、緑が豊かに残されている」とあるが、合併当時の市議会では美園村の現状についてこう表現されている。
合併直後の美園は農家が大半を占める純農村地域だった。旧美園村地域は1965年の時点で人口は7,000人だったが、着実に数を伸ばし1975年には8,000人、1985年には9,000人を突破した。
人口が右肩上がりの中、1985年の運輸政策審議会にて営団(現・東京メトロ)南北線の埼玉方面への延伸路線として答申。
そして1992年3月に第三セクター「埼玉高速鉄道(株)」が設立され、同時期から本格的な都市開発が始まった。
東北道頼りの岩槻、割を食った鳩ヶ谷
川口市南東部は岩槻街道の要衝
赤羽岩淵・浦和美園(当時は「浦和市東部」)間の答申がなされた1972年、岩槻市で大イベントがあった。
11月13日に東北道の岩槻・宇都宮間が開通したのだ。正式名称「東北縦貫自動車道川口・青森線」の第1期区間であるこの区間が開通した事で利便性は格段に向上したが、その裏で弊害を被った地域がある。
その地は埼玉県川口市。
戸田市と同様、都県鏡の荒川を渡る事で簡単に行き来出来る「ほぼ東京」地域。現在でこそ都心との南北路線である埼玉高速鉄道があるが、かつては岩槻と同様、バス路線と東西のJR武蔵野線に頼っていた。
ただ東京と隣という条件が強く、バス路線で都内へ行けたから鉄道空白地帯に近い状況下でもある程度の利便性はあったと思う。
しかし、当時の東北道は岩槻止まり。
高速道路の終点周辺の自治体が受ける恩恵は大きいだろうが、その反面厳しい現実が待ち受けていることもある。
武蔵野線があった市北部よりも、バス路線頼りだった南東部地域は都県鏡に近いこともあり、交通量の急増に戸惑っていたようだ。
1972年当時の旧鳩ヶ谷市域の交通事情
東北道が開通した当時、現在の首都高川口線や北区や荒川区地域の中央環状線は未開通。
現在の川口市の中で、比較的最近合併した旧鳩ヶ谷市域の交通は、正に岩槻街道を走る赤羽行きのバス路線が支えていた。
1979年頃に刊行された鳩ヶ谷市交通安全協会の15年史には、街道の要衝としての苦しい立ち位置が記録されている。
昭和41年(1966年)頃といえば高度経済成長期の真っ只中で、急速にモータリゼーションが進行をしていた時期である。そこで、自動車の急増で排気ガスや騒音による問題が深刻化した。
その同時期、道路にも変革期が訪れた。
交通量の急増でキャパオーバー状態になっていた、主要幹線道路の改良工事が次々と行われていった。東北道第1期区間の基本計画が1965年11月に立てられ、翌年7月に工事開始となったことで、岩槻IC以南の幹線道路である国道122号は改良に迫られたと言うことだろう。
鳩ヶ谷市は都内と東北道終点の板挟みになったが、改良されたのは舗装と拡幅のみで信号機の設置など生活道路としての整備は充分ではなかったと見られる。
更に赤羽行きの路線バスも国道を走っていたため、深刻な渋滞で1時間以上も要した事はざらだったという。
鉄道誘致は悲願だった
その後岩槻IC以南、浦和ICまでと首都高川口線が全線開通した。しかしそれは第1期開通から17年後の1987年9月のこと。
鳩ヶ谷、浦和、岩槻に共通しているのは、都心から50km圏だと言うこと。岩槻のすぐ隣の蓮田は東北本線があるけど、その南の旧3市には東京への鉄道路線がない事で、自動車需要は多かった。
更に、23年後に街開きが行われることになる「さいたま新都心」は中央区だから、岩槻・大宮の東西を結ぶ東武野田線の活用も視野に入れられていたのではないか。
浦和美園や岩槻の人口増加、東北道開通で生じた交通問題、東京一極集中への対策として構想が持たれた新都心の振興といった埼玉の未来を担う路線として、現在のさいたま市東部地域の希望の光が埼玉高速鉄道だったはずだが…。
つづく
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