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極私的猛虎魂物語(2)南海ホークスの洗礼

■初物はホークス
 なかなか友達ができなかった小学校1年の私。それでも聞き耳を立てていると、時折プロ野球が話題になっていた。野球という面白そうな娯楽がある――ぼんやりとだが、そんなことがわかりはじめていた。

 2年生に進級した昭和46(1971)年。確か暑い時期だったと思う。大阪に住む親戚に誘われて、生まれて初めてのプロ野球観戦に連れて行ってもらった。

 といっても、あの甲子園球場ではなかった。場所は、今は亡き大阪球場。南海-近鉄戦を見たのだった。

 野球というものをようやく学び始めたころだったから、ルールをちゃんと把握しているわけではなかった。ましてプロ野球の選手など全然知らない。

 ちなみに調べてみると、当時の南海ホークスは野村克也兼任監督の2年目で、広瀬叔功がまだ現役、ほかにも長嶋茂雄と立教大学で同期の富田勝や、のちの広島東洋カープ監督の古葉竹識、若き日の門田博光などがいたはずなのだが、正直何も覚えていない。球場の売店で、はがきサイズのモノクロブロマイドを2枚買ったのだが、その1枚が、今思えばクラレンス・ジョーンだったはずである。

 対する近鉄バファローズのことはもっと覚えていない。監督は岩本堯、鈴木啓示がエースとして君臨しており、ほかにも土井正博や永淵洋三など、いかにもパ・リーグの猛者らしい選手が揃っていたのだが、残念ながら記憶に残っていない。

 この日の体験は私にとってとても強烈なものだった。そのせいか、学校の作文にこの観戦記を書いている。内容はルールに対する理解不足の内容だったはずだが、近鉄・辻佳紀捕手(いわゆるヒゲ辻さん)の活躍を書いたことは覚えているから、この日は近鉄が勝ったのかもしれない。

■カラーテレビがやってきた!
カラーテレビが我が家に来たのもこの年だ。それまでは白黒テレビだったのだが、近所の伊野君の家にカラーテレビがあったのがうらやましくてたまらず、両親にさんざんおねだりして据え付けてもらったのだ。ナショナル(現パナソニック)の家具調カラーテレビ・パナカラーである。

検索していたら見つかった。これと全く同じ型か、もしくはごく近い方だったはずだ

 このテレビは、UHFコンバータ内蔵で、別にUHF専用のアンテナを取り付ければ、U局の番組を見ることができた。神戸でU局といえば、かのサンテレビである。タイガースに出会い、そしてのめりこんでいく条件のひとつが、ここに登場した。

 もうひとつの条件は、今の私にも受け継がれている、母のラジオ好きであった。母は、テレビの視聴は必要最小限にとどめており、特に朝から日中にかけては、家の中でラジオをつけっぱなしにしていた。当時我が家には、コロムビアのステレオセットがあり、そのラジオチューナーを使って番組を聞いていたから、狭い家の中のどこにいても、ラジオの音が聞こえてくるという環境だった。

 どういうわけか母は、いつもMBS(毎日放送)に合わせていた。これがのちに、私をタイガースにのめりこませる大きな力となっていく。私の中の猛虎魂の種は、確実に蒔かれていた。

 ちなみに、私のラジオ好きは翌昭和47(1972)年の夏休み、MBSの『ごめんやす馬場章夫です』にハマって、休み中毎日聞くようになったことに端を発している。今も続く『ありがとう浜村淳です』の前身は、土曜日午前中の『ごめんやす浜村淳です』だったのだが、これも当初から聞いており、浜村淳の映画解説を8歳とか9歳で流し込まれていたことになる。この辺の話もいろいろと書きたくなってしまうのだが、それはまた稿を改めて。

※昭和46(1971)年……この年のタイガースは田淵幸一の腎臓疾患、村山実兼任監督や江夏豊の不調が重なり、借金7の5位に低迷する。自慢の投手力が故障で低下した上に打力も振るわず、当然の結果であった。が、私はまだリアルタイムでチームや選手を追うには至っていない。


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