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托卵 第1話

あらすじ
 主人公の大学教授は妻子がいる身ながら何度も不倫しており、今は院生の女を愛人にしている。彼は時々「誠二」と言う少年と会っていた。誠二の母親はかつて教授の運転する車に飛び込み亡くなっていた。教授は母を轢き殺した自分を慕ってくる誠二に不気味さを感じていた。
 ある日、誠二は教授にナイフを渡して、教授の大事な人達のうち誰か1人を殺さなければならないと伝える。さもなければ、全員顔が破裂して死んでしまうとのことだ。教授はまったく信じなかったが、誠二の言っていた「死ぬ前段階の症状」が妻子と愛人に現れる。それは語尾に「モチ」が付き、頭が禿げあがって額に「恥」と言う字が浮き出ると言うものだった。

(1)卵
 私の講義「アニメ文学論」は今日も満員御礼だった。昨今の人気アニメと日本近代文学を適当に比較して、日本文化の特異性だとか家族描写の変化だとかをそれっぽく論じるだけのくだらない講義だ。私立大学の文系学部では、こういう浅薄な講義が得てして学生達に好評である。
 また、自分で言うのも何だが、「テレビに出たこともあるダンディな教授」として私自身も特に女子学生達に人気がある。実際受講者の大半は女性だ。彼女達を見て裸体やセックスを想像するのが、私にとって唯一の、この講義における楽しみである。
 しかし、彼女達に手を出すことはない。信用できないからだ。
 この講義を受ける女の大半は恐ろしい程に何も考えていない。何故偏差値の高いこの大学に入学できたのか不思議に思うくらいだ。
 ひとたび関係を持てば、彼女達は必ず誰かに口外する。頭の悪さに比例して虚栄心が強い。人気教授と交際していることをアピールせずにはいられない。
 事実、そんな女子学生と関係を持ったがために、妻と大学の知るところになったことがある。その時は妻にも学長にもこっぴどく怒られた。彼女に少なからぬ額の金を渡して円満に関係を解消できたが、次も上手くいくとは限らない。
 故に、私は信頼のおける女とだけ不倫することにしている。たとえば、私の助手をしている院生の春江みたいな女だ。彼女はあの愚かで傲慢な女子学生達と比べ、遥かに理知的だ。頭の良さは口の固さに比例する。その上、私を性的に満足させるに足る肉体を持っている。言うことなしだ。
 今日も彼女は私の講義を甲斐甲斐しくサポートし、バカどもの相手をして疲労した私に労いの言葉を掛けてくれた。
「先生、お疲れ様です」
「今日もサポートありがとう」
「パワポ映してるだけですよ」
 春江は謙虚さも兼ね備えている。しかも、気付いてほしいことにも気付いてくれる。
「そのスニーカー、グッチですか?」
 と彼女が指差した先にあるのは、私が今履いている高級スニーカーだ。決して安からぬ金額だが、春江に気付いてもらえただけでも買った価値があると言うものだ。
「銀座でたまたま見つけてね、衝動買いしちゃった。ちょっと若者すぎるかな?」
「いや、全然。とってもお似合いです」
 春江の手放しの褒め言葉に私は自分の鼻を膨らませた。相変わらず人を喜ばせるのが上手い女だ。
 しかし、たまに危うい時もある。
「今日はどうします?」
 春江は上目遣いで艶っぽく尋ねてきた。私を誘惑している。まだ講義室から出ていない学生がいるにもかかわらず。私以上の性欲の強さに時折辟易してしまう。彼女の豊満な身体を楽しみたいのはやまやまだが、たまには早く帰って「良き父・良き夫」を演じなければならない。
「今日はまっすぐ帰るよ」
「えー、残念」
 春江は露骨に不満そうな顔をした。しかし、駄々をこねるようなことはしない。
「じゃあ、また今度」
 と言いつつ、彼女はスマートフォンを見せてきた。そのスマートフォンのストラップには、木彫りの小さなコケシが付いている。何の彩色もされず、目の部分に黒い点が2つ付いているだけだ。私はその趣味が悪い物体に目が行ってしまったが、彼女が見せたいのはそっちではなく画面の方だ。
 画面には彼女の自撮り画像が映っていた。彼女はベッドの上で裸になっていた。しかも、その隣には眠っている私がいた。もちろん裸だ。そして、腹も見えている。腹には卵型のアザがある。
 このアザは、私の母曰く、生まれつきのものらしい。しかも、遺伝性があるようで、私の子供にも生まれつき同じアザがある。
 だが、私の両親の腹にはアザがなかった。私の兄弟にもアザがない。つまり、私だけ父母どちらかの血を引いていない。もしくはどちらの血も引いていない。いや、単なる思い違いかもしれない。
 子供が生まれてこのアザが遺伝するものだと気付いた時には、父も母も既に亡くなっていた。だから、真相はわからない。
 しかし、私にはある確信があった。すなわち、母は父とは違う男と性交して私を産んだのだ。いわゆる「托卵」と言う奴だ。
 母は何度も不倫を繰り返す、どうしようもない痴女だった。間男との間に出来た子を夫の子だと平然と偽ることは、あの女にとって造作もないことだろう。その間男の腹に卵型のアザがあったのだ。もちろん証拠は何一つないが、極めて真実性が高いように思われる。
 私はそんな碌でもない女の血を引いて生まれた。だから、不倫に走るのは致し方ない。とは言っても、私の兄弟は不貞をせずに健全な家庭を築き上げている。至って真面目な人達だ。つまり、私だけ母の血を色濃く受け継いだのだ。いや、間男の血が多いのかもしれない。
 どちらにしろ、私はそれを恥だとは思っていない。むしろ感謝すらしている。不倫を全く厭わない強靭な神経を受け継いだお陰で、私は妻子ある身でありながらもさまざまな女体を楽しむことができるのだ。
 母にとって男は性の捌け口に過ぎなかった。そして、私にとって女は性の捌け口に過ぎない。私を性的に満足させられるかどうかでしか自らの価値を証明できない。それこそが女に関する絶対的真理なのだ。

(2)大事な人達
 私の家は白金台にある。豪邸とは言えないまでも、家族4人で住まうには十分過ぎる大きさだ。広々とした庭や地下室の他にミストサウナもある。
 玄関のドアを開けると、ピリピリした声が聞こえた。妻の夏美だ。廊下に立ち、携帯電話で何者かと話している。恐らく部下だろう。
「はあ?今日も決まらなかったの?ちゃんと猛プッシュした?明日の商談は私も出るから。じゃあね」
 彼女が電話を切るや否や、私は「家の中に仕事を持ち込むなよ」と窘めた。しかし、彼女が忙しいのはやむを得まい。何故なら、彼女は上場企業の社長だから。
「心が休まる時がないわ」
 と疲れた顔を見せる妻に、「お疲れ様。やり手社長は大変だね」と労いの言葉を掛けた。こういう些細な心遣いが夫婦円満のコツである。
 私が家に帰ってまずすることは入浴だ。風呂場に行く途中、娘達の様子を見るのも日課だ。
 長女の秋奈の部屋へノックして入ると、「お父さん、お帰り」と秋菜はニッコリ笑って挨拶した。彼女は数学の問題集を解いていた。
「ただいま。宿題をやってるのか?」
「うん、多いんだよね」
「頑張れよ」
「お父さんもお仕事お疲れ様」
 父に労いの言葉を掛けてくれる。とてもいい子だ。
 秋奈は中高一貫の女子校の高校生。成績は常に上位、スポーツも大の得意。性格は真面目且つ朗らかで、周囲の人望も厚い。その上、顔は女優にも負けない程に整っており、身体つきも艶やかだ。娘でなかったら、確実に手籠めにしていただろう。まさに理想の娘だ。
 一方、次女の冬子は理想とは程遠い。
 秋奈の部屋を出て、今度は冬子の部屋に入る。その直後、
「勝手に入ってくるなよ!」
 と言う彼女の怒声を浴びせられた。彼女はベッドの上に寝転がってゲームをしていた。
「またゲームしてるのか?宿題は終わったのか?」
 と私が小言を言うと、彼女は「うるせえな」と毒づいた。あまりに無礼な態度だ。私はムッとした。
「親に向かって何だその口は?」
「うるさい!出てけ!」
 彼女は枕を投げつけてきた。私はそれを手で払うと、慌てて部屋の外へ避難した。そして、大きくため息を吐いた。
 姉とはまるで大違いだ。秋奈はいつも笑顔を振りまいてくれるのに、冬子はいつも憎々しげに睨みつけてくる。物心ついた時からそうだ。一体私の何がそんなに気に入らないのか?
 冬子は姉と同じ学校の中学生。成績は悪く、運動神経は皆無。性格は怠惰でひねくれていて、友達は1人もおらず、周囲から問題児扱いされている。その上、顔はお世辞にも可愛いとは言えず、体型もずんぐりとしている。微塵も性的魅力を感じない。それなりに容姿が整った私と妻の遺伝子を受け継いでいるとは思えない。
 もしかしたら冬子は自分の子ではないのか?妻が別の男とセックスして生まれた不義の子ではないか?いわゆる「托卵」ではないか?時折そう疑ってしまうことがある。事実、秋菜の腹には卵型のアザがあるのに、冬子にはない。私の血を引くと言うなら、私と同じアザがあってしかるべきだ。
 ただ、DNA鑑定しようとは思わない。万が一本当に私と冬子の間に血の繋がりがないとしたら、私は他の男の子供を何も気付かずに育ててきたマヌケと言うことになってしまう。そのような恥辱は避けなくてはならない。
 とにかく、冬子は私の充実した人生に傷をつける悩みの種である。
 しかも、最近悩みの種がもう1つ増えてしまった。

(3)少年
 研究室で論文を書いていると、春江が入ってきた。
「先生、誠二君がまた来てます」
 彼女のその言葉を聞いて、私は眉間に皺を少し寄せた。悩みの種が今日も私を訪ねてきた。
「またか?ここに来るなって言ってるのに」
「どうします?」
「『すぐ会うから例の店で待ってて』と伝えてくれ」
 春江は「わかりました」と部屋を出た。
 私は深くため息を吐いて、足元のグッチの紙袋に目をやった。

 大学近くの洒落た喫茶店。毎回私はこの店で彼と会うことにしている。
 店に入ると、彼は奥の席にいて、私を見つけると嬉しそうに手を振った。相変わらずの明るい笑顔だ。笑顔以外の表情を見たことがない。
 彼の名は誠二。息子ではない。教え子でもない。私と特殊な関係にある高校生だ。
 私が席につくや否や、誠二は主人の帰宅を喜ぶ犬のような声で話しかけてきた。
「先生、こんにちは。また会えて嬉しいです」
「学校に来るなと言っただろ?」
「すみません、LINEで連絡したんですが、既読が付かなかったから…」
「まあいい。今日は君に渡したいものがある」
 私は誠二にグッチの紙袋を渡した。
「おお、ありがとうございます!」
 誠二は大袈裟に喜んで受け取った後、「もしかしてスニーカーですか?」と聞いてきた。まだ袋の中身も見ていないのに、プレゼントを言い当てた。私は驚いた。
「なんでわかった?」
「だって先生もグッチのスニーカーだし」
 のんびりそうな見た目とは裏腹に、なかなか目ざとい。そういうところも私が彼を気に入りづらい理由の1つである。
「お気に召さなかったかな?」
「いえ、とても嬉しいです。ただ…」
「ただ?」
「こんな高級なものを貰って何だか悪いな」
「気にする必要はないよ。私が君に贈りたいと思っただけだ。それとも迷惑かな?」
「いえ、そんなことないです。本当にありがとうございます」
 誠二は深々と頭を下げた。
 長身痩躯の美形な上に、明朗快活で礼儀正しい。学校の成績も常にトップらしい。まさに秋奈の男版だ。
 にもかかわらず、彼を好きになれない。私の細かな変化にも気付く目ざとさや、貼り付けたような笑顔がヤケに鼻につく。何かよこしまな魂胆があるのではないかと疑ってしまう。
 しかし、それは私の気にしすぎかもしれない。私が誠二に不信感を覚えているのは、私と彼の特殊な関係のせいだ。この関係においては、彼は私に対して怒りや恨みを抱かざるを得ない立場にある。にもかかわらず、そんな素振りを一切見せない。そのことに私は不安を感じている。だからこそ、高級なプレゼントをしたりして彼の機嫌を取っているのだ。
「お父さんは元気かな?」
「ハイ、最近は新しい仕事に就いて頑張っています」
「おお、職が見つかったのか。良かったね」
「ハイ、『母』も安心すると思います」
 誠二の「母」と言う言葉に私は顔を曇らせた。彼の母は私と彼を結びつけるきっかけとなった人物であるとともに、私に重苦しいストレスを与える存在でもある。
 そのことを誠二も知っているはずだ。彼は自分の失言に気付き、「あっ、すみません。別に先生を責める気はなかったんです」と謝った。声はしおらしいが、顔は相変わらず笑っている。そのアンバランスさが不気味だ。
「いや、大丈夫。君もお父さんも元気そうで本当に良かった」
 と私は作り笑いをして心にもないことを言った。その上、次のような心にもない提案もしてしまった。
「そうだ、今度の日曜、ウチに来ないか?」
「えっ?いいんですか?」
 誠二は嬉しさに満ちた声を出した。私は「しまった」と心の中で呟いた。
 彼を家族に会わせるのはかなりリスキーだ。私と彼の関係を知られる恐れがあるし、彼との邂逅が家族にどんな影響を及ぼすかもわからない。我ながらついつい愚かな誘いをしてしまったものだ。
 しかし、口に出してしまった以上撤回する訳にはいかない。
「構わないよ」
「でもご家族にご迷惑では?」
「大丈夫大丈夫。君のことを歓迎してくれるよ」
 と適当なことを言って、私はまた後悔した。

(4)侵入
 誠二が我が家に足を踏み入れた時、私の脳裏に「侵入」と言う単語が浮かんできた。私が彼を招き入れたにもかかわらずだ。
 家族には「ゼミの教え子」だと偽っている。彼と私の本当の関係を知ったら、「何故そんな者を家に入れたのだ?」と激怒するに違いない。
 リビングでは家族達が誠二を物珍しそうに見つめていた。私以外の男が家に入るのは滅多にないから珍しいのだろう。
 しかし、誠二は外見上では小綺麗な好青年だから、警戒されることはないだろう。実際、夏美と秋奈は好意的な態度だ。
 一方、冬子はいかがわしげな視線を彼に浴びせていた。恐らく私と同じ不信感を覚えたのだろう。普段は反発しているのに、妙なところで父親と意見が一致するものだ。
 夏美は不躾と言われても仕方ないくらいに誠二の顔をマジマジと見つめた。
「ホントに大学生?実は高校生じゃないの?」
「幼く見えますかね?」
「いや、悪い意味で言った訳じゃないのよ。気に障ったらごめんね」
「いえいえ、大丈夫です。よくみんなにも童顔と言われがちですし」
 誠二は余裕綽々の態度で受け答えしているが、一方の私はヒヤヒヤしていた。彼には自分の素性を明かさないよう事前に言い含めたが、ウッカリ漏らしてしまうと言うこともある。変なことを口走らないよう、彼の言動に注意を払わなければならない。それはとてもストレスフルなことだ。
 そんな私の気苦労を知ってか知らずか、誠二はお構いなしにペラペラと喋る。彼の口振りはとても落ち着いていて、高い知性を感じられる。真面目な優等生の少女なんかはこういう男には滅法弱いだろう。
 実際、秋奈は初対面の誠二に対して好意どころか恋愛感情さえ抱いているようだ。顔をほのかに赤らめつつ、彼に積極的に話し掛けている。
「どんな小説が好きなんですか?」
「芥川龍之介かな?文章が論理的に構成されていて読みやすいから僕は好きですね。特に『影』とか『妙な話』とかね。雪子さんはどんなのが?」
「私は夏目漱石です。『吾輩は猫である』がとても好き。猫が好きだから」
「へえ、僕も猫が好きですよ。雪子さんとは趣味が合いそうですね」
 誠二が微笑みかけると、秋奈は露骨に動揺した。顔はますます赤くなり、恋する女の顔つきになっている。異性とのコミュニケーションに慣れていないから、こういうことに対する免疫がないのだ。
 万が一誠二と交際することになってはよろしくない。娘に手を出さないよう、後で彼に強く言い聞かせなくてはなるまい。
「冬子さんは?」
 誠二はフレンドリーな調子で冬子に話を振ったが、彼女は相変わらず無愛想な表情を維持し、敵対的な態度を崩そうとしない。
「漫画しか読まない」
「へえ、どんな漫画?」
「ホモホモセブン」
 猥雑なタイトルの漫画だ。私は親としての立場上、「コラ!」と彼女に注意した。しかしその一方で、誠二を意図的に困惑させようとする彼女の行為に対して、心の中で少しばかり応援した。
 けれど、誠二は冬子の不躾な態度を微塵も気にしていないようだ。それどころか、
「いや、そんないかがわしい漫画ではないですよ。名前はアレですけど。『ホモホモセブン』と言う男性スパイが主人公のギャグ漫画です。作画が劇画調とラクガキ調にコロコロ変わるんですけど、そのギャップが面白いんですよ」
 などと作品の解説をしてきた。
 一体どうやって仕入れているのか、文学・漫画・アニメ・ゲームなど、あらゆる文化において豊富な知識がある。本当に高校生かと疑われるくらいだ。冬子もまさか彼が「ホモホモセブン」を知っているとは思いも寄らず、感心の表情を見せた。
「アンタ、詳しいね」
「僕も漫画が好きだから」
「私も漫画をよく読みます」
 と秋奈がすかさず同調した。
 この後も特にトラブルが起きることはなく、誠二と家族の交流は無事終わった。彼が家を出た後、私はホッとした。
 夏美は「礼儀正しくていい子じゃない。結構イケメンだし」と手放しに褒め、秋奈は「頭もいいし、物知りだし、話し方も知的だし、彼氏にするならああいう人かな」と最早恋心を隠す気もない。
 一方、冬子は「なんか胡散臭くてヤダ」と嫌悪感を露わにし、秋奈を怒らせた。私は姉妹の喧嘩を仲裁しつつ、内心では冬子の肩を持った。

(5)異変
 翌日、研究室にて誠二が家を訪れたことを春江に伝えた。すると、彼女は怪訝な顔をした。
「彼、やっぱりおかしくないですか?」
「何が?」
「だって、普通自分の親を轢き殺した人と会いたがりませんよ?ましてやその人の家に遊びに行くなんて」
「轢き殺したんじゃない。あの女がぶつかってきたんだ」
 と私は即座に訂正した。
 5年前、私は誠二の母親を轢いた。ベンツを運転していると、彼女が突然前に飛び出して突っ込んできたのだ。避ける暇などなかった。彼女の身体は直撃し、吹っ飛んだ。即死だった。
 その後、私は警察の執拗な取り調べを受けた。また、「大学教授が人を轢き殺した」とニュースになり、ネットでは社会的地位の高い人間に嫉妬する人生の敗残者どもに誹謗中傷される憂き目に遭った。大学も無理矢理休職扱いにされた。踏んだり蹴ったりだ。
 だが、私には何の落ち度もない。過失は完全に彼女にある。そのことが明らかになると、警察は手を引き、マスコミもネットも掌を返し、大学にも無事復帰できた。
 彼女の家族も特に私を訴えるようなことをせず、まるで何事もなかったかのように元の平穏な世界に戻った。
 いや、何事もなかった訳ではない。お気に入りのベンツに傷が付いたし、瑕疵がないとは言え、人を死なせてしまった後味の悪さが今でも心に絡みつく。まったくもって迷惑な話だ。
 しかも、最近になって彼女の息子である誠二が私の前に現れた。私に謝罪を求めるのかと思いきや、「先生の論文を読んでファンになったのでいろいろ話を聞きたい」とのことだ。
「何か魂胆があるんじゃないですか?」
 と春江は疑問視するが、その魂胆が何なのか全くわからない。そのことが私に慢性的な不安をもたらしている。
 ともかく今は次の講義に集中しなければならない。「アニメ文学論」だ。若い身体しか取り柄がない女子学生達を見回して、裸とセックスを想像することで、不安を和らげるのだ。
 私は春江と研究室を出た。その直後、春江が倒れた。まるで糸が切れたマリオネットみたいに。
「オイ!どうした⁉︎」
 私は慌てて彼女の身体を揺さぶったが、全く反応しない。まるで眠っているかのように呼吸が落ち着いていて、身体に異常があるようには見えない。
 しかし、私は医者ではない。急いで119に電話した。

(6)脅迫
 春江は救急車に乗せられ、近くの病院に入れられた。私も同行した。
 彼女は天涯孤独の身の上だ。つまり、私が彼女の保護者の代わりにならないといけない。面倒な話だ。
 どうせ貧血か何かだろうと思ったが、医者の話だとそうではないらしい。では深刻な病気なのかと言うと、そうでもない。医療的には健康そのものとのことだ。
 何か強い精神的ショックを受けたのだろうと医者は推測していたが、倒れる直前まで彼女には特におかしなところはなかった。
 とにもかくにも、彼女の身体にはどこも異常がない。命に別状もない。ひとまず無事で何よりだ。彼女は病院のベッドの上でスヤスヤと眠っている。普段の彼女はセックスの時でさえ隙のない冷徹な印象を与えていたが、それ故に今の完全な無防備な姿には興奮せざるを得ない。身体のいろんな箇所ををまさぐりたい欲求に駆られたが、人目に付いたら非常にまずい。残念だが、我慢しなくてはならない。
 春江には引き続き寝てもらうことにして、私は病院から出た。すると、思わぬ人物と遭遇した。
「先生!」
 私に向かって満面の笑みで手を振る少年。誠二だ。
 彼には私が病院にいることを伝えていない。故に、彼がここにいるのは単なる偶然だ。にもかかわらず、私がここにいるのを最初から知っていたような気がするのは何故だろうか?不気味に感じつつ、「どうしてここに?」と尋ねると、彼は次のように答えた。
「先生が救急車に乗り込むのが見えたので、どうしたんだろうと思って、近くのこの病院に寄ってみたんです。恋人さんは大丈夫ですか?どこも異常がないのに意識不明なんでしょ?」
 私は誠二に対する不気味さをより一層感じた。彼は私がここにいるのを知っていた。待ち伏せしていたのだ。その上、何故か春江の症状のことも把握している。まさか病院の人間が教えたのか?こんな得体の知れない少年に?
 そして、「恋人さん」とは?彼は私が妻子持ちであることを知っている。また、春江が私の教え子であることも知っている。故に、春江をそのように呼ぶはずがない。私と彼女が不倫関係にあることを知らない限り。
「恋人じゃない。教え子だ」
 と私が訂正すると、誠二は不思議そうに小首を傾げた。
「一緒にラブホに入るのに?」
 私の心臓はドキッと激しい鼓動を打った。自分の顔から血の気が引いているのを感じた。
 春江とラブホテルに入る際は細心の注意を払ったはずだ。自分を知っている者が周りにいないか、徹底的に確認した。誠二はどこにもいなかったはずだ。にもかかわらず、まるで実際に目撃したかのような言いぶりをする。下手に否定しても無意味なようだ。
「何故知ってる?」
 私は観念して誠二に問い質した。すると、誠二はしてやったりとほくそ笑んだ。
「あっ、やっぱり付き合ってたんだ」
 どうやら鎌を掛けられたようだ。高校生にしてやられるとは屈辱的だ。
 私は誠二の顔をぶん殴ってやりたい衝動に駆られた。だが、人の目もあるし、「高校生の策略にまんまと嵌って、ウッカリ不倫をバラしてしまった挙句、逆上して彼を暴行しました」では、あまりに恰好がつかない。恥晒し以外の何物でもなく、さらに屈辱的だ。
 今の私にできるのは、ただ苦虫を噛み潰したような顔をするだけだ。
「安心してください。先生の大切な人達には言いませんから」
 などと誠司は言うが、どうにも信用できない。よりにもよって、こんな得体の知れない人間に弱みを握られるとは最悪だ。どんな脅しをされるかわかったものではない。
 実際、誠司は早速私を脅してきた。
「ただし、条件があります」
「条件?」
 緊張と恐怖が私の心臓に痛みを与えた。きっと私の想像より遥かにハードな要求をしてくるに違いない。そう思いきや、その「条件」とやらは非常にソフトなものだった。
「今日の晩御飯はウチで食べていってください」
 私は拍子抜けした。過度に緊張した反動から、安堵のため息が多量に漏れ出た。キャンパス内で全裸にさせられたり、何千万円も払わされたりしないのであれば、いくらでも晩御飯に付き合ってやろう。
 しかし、誠二の家へ行くと言うことは、彼の父親に会うことを意味する。私は彼に対して生理的な嫌悪感を抱いており、顔を合わせることはなるべく避けたかった。特にいつもよりストレスが溜まったこの日に、あの気味が悪い顔を目に入れるのは、さすがに勘弁してほしかった。
「いや、今日は疲れたから、また後日でいいかな?」
「それは困ります。父に先生がいらっしゃると伝えちゃったので…」
「何を勝手に…」
「不倫」
 誠二はボソッと呟いた。無言の笑顔で私の顔を凝視した。その笑顔は、大声で喚き散らすような恫喝よりも、遥かに脅迫的な圧力を私に与えた。
 私に拒否権はなかった。

(7)汚物
 誠二の自宅は幽霊でも出そうな程にボロボロなアパートの1階の角部屋だ。彼の清潔な印象とは真逆の印象を与える家だ。この家の中で彼は父親と2人きりで暮らしている。
 彼の父親は私より二回り以上も年上の老人だ。初めて見た時は誠二の祖父かと思った。
 家の中に入ると、父親は「おお!お久しぶりです!」と大袈裟な身振りで私を出迎えた。しかし、客を出迎えるにはあまりに汚らしい外見だ。黄ばんでヨレヨレのワイシャツ、シミだらけのチノパン、メタボリックな腹、皺だらけのオカメみたいな顔、バーコードの頭、腐った牛乳を拭き取った雑巾のような悪臭、何から何まで私に少なからぬ不快感を与える。
 こんな醜悪なジジイが本当に誠二と同じ血を引いているのか?非常に疑わしい。しかし、あのいつも絶やさぬ不気味な笑みだけは息子と瓜二つだ。
 何を企んでいるかわからない者が2人もいる空間に、私は1人だけ。否が応でも身の危険を感じてしまう。
 私はいつでも逃げられるよう最大限に警戒しつつ、作り笑いで父親に挨拶した。
「お久しぶりです」
「こんな汚いところにわざわざご足労いただいて申し訳ない」
「いえいえ、こちらこそお招きいただきありがとうございます」
 我ながらなんと白々しい感謝だろう。心の底から招かれたくなかった。既に帰りたい気持ちで一杯だ。早く食事を済ませてこの家から脱出したい。
 食事は和室のちゃぶ台を囲んで行われた。薄汚い食器に乗せられた、見た目の悪い料理の数々。客をもてなすどころか、嫌がらせを目的として用意された食事としか思えない。味は思ったより悪くないが、何が入っているかわかったものではない。ちょっとだけ口に運んで、残させてもらおう。
 誠二と父親は微笑ましそうに私が食事するところを眺めている。その絡みつくような視線を浴びせられて、とても居心地が悪い。
 いや、そもそもこの家自体の居心地が悪い。何かを焦がしたような臭いが漂い、床も壁も天井もシミと穴だらけ。ゴミかどうかわからないものが散乱し、小蝿がウジャウジャ飛び交っている。
 極め付けはコケシだ。木彫りのコケシがあちらこちらに置かれている。そのどれもが彩色されておらず、目のあたりを黒く塗り潰しているだけだ。その無数の歪な視線を感じ、背筋が凍りつく。
 このまま押し黙っていると、気が変になりそうだ。たとえ異様な人物が相手でも会話しないよりはマシだ。私は父親に話しかけた。
「本当に私なんかが来て良かったのですか?」
「何故です?」
「ホラ、私はその…アナタの奥さんを…」
 私と言う人間は自らの言動が相手にどんな影響を与えるか考えない性質のようだ。よりにもよって、相手を刺激するような話題を出してしまった。
 しかし、父親は全然気に障っていないようだ。むしろ、より一層ニヤニヤし出した。
「ああ、そんなこと全然気にしなくて大丈夫ですよ。あのバカ女が100%悪いんだから。先生が罪悪感を持つ必要は全くありません。アイツは何度も何度も懲りずに不倫する淫売でね、いつか殺してやろうと思ってたんですよ。先生が轢き殺してくれて、むしろ感謝したいぐらいです」
 自分の妻を轢き殺した男を嬉々として出迎えるような人間だから、妻の死を悲しんでいないのは当然かもしれない。しかし、いくらなんでも息子の前で母親をここまで悪しざまに扱き下ろすのは非常識極まりない。
 だが、誠二は父の話をニコニコ聞いているだけで、眉間に皺を寄せることをしない。その上、「父は母の歴代の間男を全員殺してきたんですよ」などととんでもないことを告白する始末だ。
「オイオイ、親を殺人鬼扱いするな」
 父親は苦笑いした。
「オレはただ『奴らが酷い目に遭いますように』ってお祈りしただけだ。まあ全員酷い目に遭ってくれたが。先生、具体的にどのような末路を辿ったか、お聞かせしましょうか?」
「いえ、結構です」
 私は即座に断った。気分が悪くなるような内容であることは確実だし、現在進行形で不倫している私に対する当てつけのように思われたからだ。まさか誠二の父親も私の不倫を知っているのだろうか?
「先生、この後映画を観ませんか?2時間くらいあるけど」
 と誠司が藪から棒に誘ってきた。「おお、いいね、観よう観よう」と父親も息子に賛同した。
「いや、悪い、家族を待たせてはまずいから」
 私は即座に断った。別に家族が私の帰りを待っている訳ではない。こんな異様な連中とあと2時間も一緒にいるなんて、気が狂ってしまいそうだ。一刻も早く逃げたかった。
 しかし、親子は何としても私と映画を観たいようだ。
「いやでも、母が好きだった映画なんです。先生には是非観てほしいんです」
「オレからも頼みます。お願いします」
 2つのニヤついた顔が急接近し、私に懇願する。「これ以上拒絶したら危害を加えるぞ」と言わんばかりの圧力を私は感じざるを得なかった。
 結局私は不本意ながら映画を観ることになった。誠二がDVDをセットすると、埃だらけの小汚いテレビに画面が映し出された。
 映画のタイトルは「危険な情事」。ハリウッドのサイコホラーだ。
 私はこの映画を過去に鑑賞したことがある。妻子持ちの弁護士の男が若い女と一夜の関係を楽しんだら、その女が狂気のストーカーと化して、男を心身ともに追い詰めていく。つまり、「不倫したら痛い目に遭った」と言う内容だが、本当に誠二の母親はこの映画が好きだったのか?不倫している者にとっては、あまり気持ちの良い映画ではない。当てつけのつもりで観せているのか?
 誠二は映画が始まって40分くらいのところで、ちゃぶ台に伏して眠ってしまった。寝息をグウグウ立てている。
「先生が来るってんで興奮して疲れちゃったんでしょ」
 父親は微笑ましそうに息子の寝顔を見つめた。
 誘った本人が居眠りしてしまうとは。普通の少年なら笑って許すところだが、誠二の場合、無性にイライラしてしまう。しかし、予定より早くここから脱出できるのはラッキーだ。
「映画はまた次の機会にしましょう。では私はこれで…」
 私は父親に軽く会釈して、速やかに去ろうとした。だが、父親の次の一言に、私は思わず止まってしまった。
「実は、息子はオレの子じゃないんですよ」
「えっ?」
「あの女が行きずりの男とやった時にできた子でね、笑えることにどの男が父親かわからねえってんですよ、ハハハハハ」
 父親は黄ばんだ歯を見せて大笑いした。何が可笑しいと言うのだろう?妻に何度も裏切られた挙句、息子は自分の血を引いていない。私ならショックで自殺してしまいかねない。いや、ただの虚言かもしれない。「信用」と言う言葉から最もかけ離れた外見の男だ。妻がふしだらと言うのも噓かもしれない。
 こんな気色悪い醜男と絡んでいる暇は、私にはない。一刻も早く離れなければ、身に危険が及ぶだろう。
 そう危惧していると、父親が私に身体を寄せてきた。上目遣いで私の顔を煽情的に見つめてくる。そして、こんなことを聞いてきた。
「先生はバイセクシャルですか?」
「はい?」
「オレはバイです」
 彼の手が私の太腿に触れた。全身の毛が逆立った。私は慌てて彼の手を払い除け、距離を取った。
 父親はニヤニヤした笑顔を保ったまま私をギロリと睨みつけた。笑っているのか怒っているのかわからない、おぞましい表情だ。
「大学教授ともあろう御方が性的マイノリティを差別するんですか?」
「いや、すみません、何を言ってるのかわからないんですが…」
「しらばっくれないでください。オレはちゃんと気付いてましたよ。先生がオレをいやらしい目でチラチラ見ていたのを…」
「本当に何を言ってるんだ?」
 私は骨の髄まで身の危険を感じた。このままでは犯される。
 私はバイセクシャルではない。仮にそうであったとしても、こんな脂の塊みたいな薄汚いジジイと肌を重ねるくらいなら、死んだ方がマシだ。
 左右を見て武器になりそうなものがないか探す。すぐ側にコケシがある。触れたくはないが、やむを得ない。
 コケシを手に取ろうとした時、ポケットの中のスマートフォンが鳴り出した。取り出して画面を見ると、相手は妻の夏美だ。
 私は父親を警戒しつつ、電話に出た。

(8)疑念
 急いで誠二の家を飛び出して、病院に直行した。秋奈が倒れたらしい。
 彼女は病室のベッドに横たわり、スヤスヤ眠っていた。どこにも異常なところは見られない。娘とは言え、立派な肉体の女が無防備な姿を曝け出していると、否が応でも性的興奮を覚えてしまう。しかし、父親の立場として、娘に欲情することよりも心配することの方を優先しなくてはならない。
 ベッドの側の椅子に夏美と冬子が腰掛けていた。彼女達の話を総合すると、以下のようだ。
 秋奈は自分の部屋で冬子と会話していたが、突然糸が切れたように倒れ込んだ。冬子は慌てて救急車を呼び、夏美にも連絡した。夏美は会社を抜けて病院に駆け込み、医者の話を聞いた。
 医者によると、秋奈は医療的には健康そのものとのことだ。何か強い精神的ショックを受けたのだろうと医者は推測していたが、冬子によれば、倒れる直前まで秋奈には特におかしなところはなかったらしい。
 私はこの話を聞いて2点の疑念を抱いた。
 第一に、何故もっと早く私に連絡しなかったのか?冬子曰く、「お父さんにとってはどうでもいいこと」だと思ったからとのことだ。当然どうでもよくない。私と話すのが嫌だから連絡しなかったに過ぎない。自分の感情を優先するとはとんでもない娘だ。
 夏美は病院に着いてから、冬子の悪意ある不作為を知り、慌てて私に連絡したらしい。私と夏美は冬子を叱ったが、冬子は無愛想にそっぽを向いて反省の態度を見せなかった。
 それはともかく、第二の疑念の方がもっと深刻だ。何故秋奈の症状が春江と全く同じなのか?私に近しい者達が同じ日に同じ症状になるとは、単なる偶然では片付けられない。
 ふと私の脳裏に誠二の顔が浮かんだ。

(9)世界の均衡
 秋奈は入院することになった。翌朝には起きるだろうと思っていたが、一向に瞼を開く気配がない。その日は私と夏美も職場を休み、交代で秋奈を看病することにした。冬子も秋奈の側にいたかったようだが、学校に行かせた。
 春江からはまだ連絡がない。きっとまだ病室で眠っているのだろう。春江も秋奈も一体いつまであのままなのだろう?一生意識を取り戻さないと言うことはないと思うが、不安が私の心に粘着する。
 また脳裏に誠二の顔が浮かんだ。この事態は彼のせいであるという考えが私の頭から離れない。彼とは何の関係もないはずなのに。
 その誠二が突然私の前に現れた。夏美に秋奈の看病を任せ、病院内のカフェでコーヒーを飲みつつ、視線の先の若い女の看護師達の裸体とセックスを想像していると、彼が相変わらずの笑みを浮かべながら対面の席に座ってきた。
 当然私は驚いた。この時間帯であれば、彼は高校にいるはずだ。しかも、私がこの病院にいることを何故知っているのか?彼にも彼の父親にも教えていないはずだ。
 私は動揺しつつも「学校はどうした?」と尋ねた。しかし、彼はその問いに答えず、「秋奈さんは大丈夫ですか?」と逆に尋ねてきた。私はドキリとした。
「何故秋奈のことを知っている?君には教えていないはずだ」
「父が教えてくれました」
「彼にも教えていない」
「父が先生の後をコッソリつけたんです。でも誤解しないでください。先生を心配するあまりに起こした行動なんです」
 私はゾッとした。病院へ急行している私の後ろに、あの不快の権化とも言うべき男がずっといたのだ。もしかすると、病院の中でも私をずっと見ていたのかもしれない。あの気色悪い笑顔のままで。
 全身に鳥肌がたった。吐き気を催してきた。このおぞましい親子を相手にするより、ゴキブリだらけの部屋に閉じ込められる方がマシだと本気で思った。
「ハッキリ言わせてもらうが、君ら親子は異常だ。もう付き纏わないでくれ」
 と私がきつい口調で言うと、誠二は「不倫」と呟いた。しかし、その手はもう私には通じない。
「君の脅しは意味をなさない。何故なら、証拠がないからだ。家族に言っても信用されないぞ、絶対」
 そう論破すると、私は「じゃあな」と冷ややかに言って席を立とうとした。すると、誠二が「待って!」と身を乗り出して私の腕を掴んだ。
「先生に渡したいものと話したいことがあります。それさえ済めば、もう先生には会いませんから」

 誠二の勢いに押されてしまった。彼は「もっと静かなところで話したい」と私を病院の裏まで連れて行った。
 病院の裏は人気がない。まさかここで殺す気だろうか?誠二がズボンのポケットに手を入れた時、私はナイフを出すと直感し、身構えた。
 けれど、彼の出したものは私が想像したものとは異なるものだった。平べったくて細い物体が包装されている。彼はそれを私に手渡した。
「何だこれは?」
「先日の誕生日プレゼントのお返しです。中身はバタフライナイフです」
 私の想像通り、やはりナイフだった。私を傷つける訳ではないことには一安心だが、プレゼントとしてこんな鋭利な凶器を選んだ意図がわからない。
「何故ナイフを?」
「今後使う機会があるからです」
「そんなのはない」
「いいえ、あります」
 誠二は断言した。まるで未来が見えているかのように。私の運命を掌握しているかのように。それがたまらなく屈辱に感じて腹立たしい。
「用件は済んだか?じゃあこれで」
 私は誠二に背を向けようとしたが、彼は「待って!今から大事な話をします!」と制止した。
 大事な話とは何か?それは私の想像を遥かに超えるとんでもないことだった。
「先生、アナタはアナタの大事な人達のうち、誰か1人を殺さなきゃいけない」
「へえっ?」
 私は驚きのあまり変な声を出してしまった。
 私が人を殺す?私の大事な人を?脳裏に嫌でも思い浮かぶ家族の顔。そのどれか1つを黒く塗り潰す。何故そんな無益なことをしなくてはならないのか?意味がわからない。
 非常に当惑する私に対して、誠二はさらに当惑することを矢継ぎ早に口から発射する。薄気味悪い笑顔のままで。
「先生は僕の大事な人を殺しました。だから、先生も先生の大事な人を失わなければならない。別に先生を憎んでいる訳ではありません。世界の均衡を保つために必要不可欠なことです。これこそが世界の摂理。どうしようもないことなんです」
「意味のわからんことを言うな!」
 私は誠二を怒鳴った。しかし、誠二は全く委縮しない。それどころか、いよいよ挑発的な笑みを浮かべた。
「興奮しないで。話はまだ終わっていません。もう猶予はない。先生は可及的速やかに大事な人を殺さなければならない。さもなければ全員死んでしまう」
「バカバカしい!」
 と私が吐き捨てるやいなや、誠二は私の腕を掴んだ。腕の骨を破砕するかの如き強い力に、私は痛みと同時に恐怖を覚えた。蛇に噛みつかれた蛙のような心持ちになった。誠二の手はやたら冷たく、私の背をブルッと震わせた。
「いいですか。よく聞いてください」
 誠二はまるで耳が遠い老人に話し掛けるように丁寧な口調で説明を始めた。
「早く誰かを殺さなきゃ先生の大事な人達が全員死にます。死ぬまでにはいくつかの段階がある。第一段階、前触れもなく意識不明になる。第二段階、目が覚めた後、語尾にモチが付く。第三段階、頭髪が全部抜けて額に『恥』と言う文字が浮き出る。第四段階、全身が真っ赤になる程の高熱になる。そして第五段階、顔が破裂して死ぬ。進行スピードに個人差はありますが、最終的に全員死ぬ。そうなる前に行動するんです」
 なんとくだらないことだろう。子供でも信じないようなデタラメを真面目に説明している。
 私はこんなホラ吹きを相手にしている自分が馬鹿らしくなった。いや、馬鹿らしくなったのではない。不安になったのだ。誠二の言うことはあまりにも非現実的だったが、本当に現実になりそうな生々しさが感じられた。その生々しさから私は逃げたかったのだ。
 私は「じゃあな」と誠二の手を振り払って、足早に去った。彼は私を引き止めなかった。

 秋奈の病室に戻ると、夏美の他に冬子がいた。学校を早退したらしい。彼女は私を見ると、露骨に不機嫌そうな表情になり、「サボったとか思ってるでしょ?」と訝しんできた。
 私は「そんなことはない」と口では否定しつつ、内心では肯定していた。学校に馴染んでいないようだから、姉の看護を口実に逃げ出したのだろう。そんなよこしまな行為を親として看過する訳にはいかない。
「秋奈は我々で看るから大丈夫だよ」
 遠回しに「ここへは来るな」と伝えると、冬子はフンと鼻で笑った。
「何言ってるの?子供より仕事の方が大事でしょ?」
「そんな訳あるか!」
 私は思わず怒鳴ってしまった。先程の誠二の件で、気が落ち着いていないのだ。夏美も冬子もまさか私が大声を出すとは思わなかっただろう。驚いて目を丸くしている。
 しかし、この怒声のお陰か、秋奈が目を開いて身体を起こした。寝惚けた顔で「うーん」と唸っている。
 我々は嬉々として秋奈を囲んだ。「ああ、良かった!気分はどう?」と夏美が安堵した表情で尋ねると、秋奈は不思議そうに家族の顔を見つめながら、ボソリと呟いた。
「ここはどこモチ?」

第2話:https://note.com/kyufukin_portal/n/n5f9d59ef715c
第3話:https://note.com/kyufukin_portal/n/n7a7e124a05a4

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